第7章・決済完了

1・終期決算

 鴻島印刷の工場は、倉庫側半分が吹き飛んで巨大な炎を吹き上げた。二階の営業部と経理部も崩れ落ち、瓦礫と化していた。約500メートル先の消防署から駆けつけた二台の消防車も、爆発を食い止めるほど迅速には行動できなかった。

 工場に取り残された要救助者を搬出するのが精一杯だったのだ。

 今は消火活動がようやく開始され、怪我人を搬送する救急車を待っている。消防署員は要救助者の発見と同時に救急車を要請していたが、到着が遅れている。今は、駆けつけた署員全員が工場の火災に注意を向けて背後に気を配る者はいない。

 大通りから一本曲がった工場横の路地は、紛争地の野戦病院のような様相を見せていた。動けない六人が路上に並べられていたが、簡易タンカに乗せられているのは二人だけだ。残りの四人は完全に気を失っていて、道路脇に直に広げられた毛布に並べられていた。

 全員、命の危険はないことは救出直後に確認されている。

 新鮮な空気を吸って意識を取り戻した純夏が、路上に置かれたタンカの上で横になったままつぶやいた。

「ああ……工場だ……いつの間にか外に出てる……やっぱり幽霊になっちゃったのね……」

 その脇にしゃがんでいた直恵が、つぶやく。

「なりたかったの? 残念だけど、あたしたちのお仲間になるには10年早いわよ。それまで、人間でいなさい」

 純夏が直恵に気づいて、見つめる。

「わたし……助かったの?」

「あんたが意識を失ってるうちに、消防署が助けてくれたの」

 治が少し残念そうに言う。

「こっちの世界で一緒に暮らせれば楽しかったのに……」

「嫌よ、そんなの……」

 健司が、タンカに寝かされた里崎に絡み付いたまま言った。

「ともかく、無事で良かった……」

 里崎は何も言わず、逃げ出そうとひたすらもがいている。

 直恵が言った。

「あんたが言えることじゃないでしょう⁉ この娘、あんたの身体に触ったから動けなくなっちゃったんだから!」

「そんなの、俺の責任じゃないだろうが……」

「殺しかけたのは間違いないでしょう⁉」

 純夏が割って入る。

「で、何でまだそいつにしがみついてるの?」

 幽霊が見える者にとって二人の姿は、愛を確かめ合うゲイにしか見えない。

 猫を抱いた会長が応えた。

「見た目は悪いが、里崎を逃がすわけにはいかんからな。刑事どもはまだ目を覚まさんし、警察も到着しておらん。隙を見せたら、必ず海外に逃亡してまた悪事を続けるじゃろうて」

 会長の表情は悲しげだった。

 極悪人だとはいえ、実の息子だ。才覚を事業に活かせれば、最も頼れる後継者になったかもしれない人材だ。

 純夏が言う。

「工場、だめになっちゃったんですか……?」

「とも言い切れんがな……見たところ、肝心の輪転機は無事のようじゃ。倉庫とその上の営業事務所は壊滅したが……。保険が下りれば、工場の建て直しは可能じゃろう。ま、当面の仕事は麻痺するがな」

 直恵が言った。

「事務所が壊滅って……マネロンの記録は全部無くなっちゃったんですか?」

「紙の記録は一切灰になっとるな、これだけの炎では……」

 治は気にしていない。

「クラウド上のデータは大丈夫だよ。紙はなくたって、こいつの悪巧みは全部証明できるって」

「そうだよね。紙の方はあたしが付けてた二重帳簿だから、どうでもいいしね。たぶん、これから警察の捜査が入るんでしょう? 会社のためには、無くなっちゃった方が良かったかもね。あたしも、とやかく言われなくて済むし」

 純夏がつぶやく。

「でも、その他にもいろんな証拠があったはずでしょう? みんな消えちゃって、大丈夫なの? 治君、あいつが連続殺人を認めたっていう記録、取ってたんじゃないの?」

 治がにやりと笑う。

「がっちり取ったよ」

「でもそれも工場の火事でだめになったんじゃ……?」

「平気。いいところに隠してあるから」

「そうなの⁉ じゃあ、わたしの無実も証明できるの⁉」

 その声を聞きつけた里崎の視線が純夏に向かう。

 小声でうめいた。

「てめえ……ただじゃおかねえぞ……」

 純夏は言った。

「幽霊さんたちが言ってるわよ。あんたはもうおしまいだ、って。警察が来るまで、動けないしね」

 そして皆の視線が横の男たちに向かった。四人がずらりと横たわっている。ちょうどそのとき、大竹刑事が意識を取り戻した。

 里崎に買収されていない唯一の刑事だ。

 大竹がゆっくり上体を起こしてつぶやく。

「なんだ、これは……どうしたんだ……?」

 純夏が言った。

「薬が切れたのね。刑事さん、焼き殺されるところだったのよ」

 大竹は純夏を見つめた。

「君が助けてくれたのか?」

「助けたのは、幽霊たち」

 大竹が驚いたような、泣き出しそうな、複雑な表情を見せた。

「そこも幽霊なのかよ……」

 火災を見上げていた救急隊員が、意識を取り戻した二人に気づいて駆け寄ってくる。

「ああ、無理して起きないで! すぐに救急車が着きますから。別の現場に出動中で、少し時間がかかってますけど」

 大竹が背広のポケットから警察手帳を取り出す。

「私は警官だ」そして里崎を指差す。「あの男を絶対に逃さないでくれ。すぐに署に連絡する」

 大竹はスマホを取り出して連絡し始める。

 里崎は大竹を睨んで激しくもがく。

「クソ……なんで足が動かないんだよ……」

 そのとき、パトカーのサイレンが聞こえた。数台の覆面パトカーが近くに走り寄ってくる。

 大竹がスマホをしまってつぶやく。

「早いな……」その目が純夏に向かった。純夏が横になったまま目を合わせる。「君が呼んだのか……?」

 純夏は微笑んだ。

「幽霊」

 大竹は困ったようにうつむく。

「またか……。どう説明すりゃあいいんだよ……」

 パトカーから駆け下りた私服警官が大竹に駆け寄り、脇を支えて立ち上がらせる。

「大竹! 何があった⁉」

「あ、課長……今、連絡しようと……」

「110番に大量の通報が入ったんだ。鴻島印刷に泥棒が入っている、ってな。あっちこっちから一度に20件以上だ。いったい、何が起こった?」

 課長は消火活動が始まった工場を呆然と見上げる。

 大竹は里崎を指差す。

「こいつの仕業です。連続殺人の容疑者で、国際的なマネーロンダリングの首謀者――」

「そいつか。お前の書き置きは読んだ。とんでもないヤマを掴んだようだな」

 パトカーから出た10人以上の刑事が彼らを取り囲む。

 治が指示した。

「おじさん、もう離れていいよ」

 健司は身体を起こしながら言った。

「やっとか……男同士で抱き合うなんて……。子どもには見せられない姿だ。もうやらせないでくれよ」

「だけど、おじさんがいなかったらこいつを捕まえられなかった。大手柄だと思うよ」

 健司が驚いたように治を見つめ、不意に笑みをもらした。

「そうか……役に立てたんだな、俺でも……」 

 会長が笑う。

「見た目はひどかったが、心配には及ばん。どうせ幽霊は普通の人間には見えないんじゃろう?」

 刑事たちが立ち上がった里崎を取り囲む。

「里崎守だな」

「そうだが……なんだよ」

「この火事は君が起こしたのかね?」

 里崎はふらつきながらも立ち上がり、ふてぶてしく応える。

「違うな。そこの小娘が火をつけたんじゃねえのか? 俺は、たまたま工場を見回っていただけだ。鴻島一族が死んで、俺にも経営権が回ってきそうだったからな。会社の業務が終わってから仕事の内容を教えてもらうようにそこの経理部長に頼んでたんだ」

 純夏がゆっくりと上体を起こす。

「火をつけたのはこの人です。わたし、殴られたんです。他の人たちは変な注射を打たれて――みんなを焼き殺そうとしたんです!」

 里崎が純夏を睨む。

「つまらない噓ついてんじゃねえよ」

 大竹が鼻先で笑う。

「ムダにあがくな。お前が私たちを銃で脅したのも、注射を打ったのも目撃している」

 刑事たちに囲まれながらも、逆に里崎が自信に満ちた笑いを返す。

「誰が注射したって? よく思い出せ。俺は、そんなことはしてないぜ。誰かが注射したなら、そいつはなぜそんなことをした? おや? 誰かに金で買われた……とかかな? そんなこと、報道されてもいいのか? それに、どうやら事務所は火事でひどいことになってるらしい。パソコンとか書類とか、全部燃えちまったんじゃないのか? 刑事さんたちは俺に罪を着せたがってるみたいだが、工場の中に証拠とやらははまだ残ってるのかね……」

 買収されていたのは警察だけではない。不用意に掘り下げると、何が現れるか分からない。今ここにいるたくさんの刑事の中にも、里崎の金を受け取っている人間がいるかもしれない。

 里崎を逮捕するには、買収とは全く関わりのない犯罪が必要だった。しかも確実な証拠がある案件だ。それがなければ返り討ちにあって、警察組織が深手を負う危険があった。

 里崎は言葉に詰まった大竹を見て、自信に満ちた笑いを漏らした。そして、人に恐怖をもたらすオーラを放った。

 大竹もオーラが襲ってきたことを感じた。が、最初よりも恐怖感は少なかった。課長を横目で伺う。ひどく困惑した表情を見せている。

 里崎のオーラは、刑事たちを全員震え上がらせるほど強力ではなかったのだ。健司にしがみつかれていた間に霊力を消耗しきって、ひどく弱められていたからだ。

 刑事たちに与えられたのは、恐怖というより軽い不安に過ぎなかった。

 大竹はその不安を振り払いながら声を絞り出した。

「では、銃の不法所持は?」

「銃って何のことだ? それ、どこにある?」里崎は、レスキュー隊員が踏み込んできる寸前に、炎の中に拳銃を投げ込んでいた「たとえあっても、そんなもん、俺が持っていたって証明できるのか?」

 大竹は、明らかにうろたえた。里崎を囲む刑事たちも、大竹が確信を持っていなければ動きが取れない。

 純夏が叫ぶ。

「わたし、拳銃で殴られました! 何でこの人を捕まえないの⁉」

 里崎は純夏に笑いかけた。

「お嬢ちゃん、オトナの世界の話なんだ。ちょっと黙ってようね」

「だって、この人、四人も殺したのに……自分でやったって、白状したのに……」

「さて、そんな証拠が、いったいどこにあるのかな? 四人を殺すって、鴻島の経営陣のことかい? あいつらは、自分たちで殺し合ったんだ。誰かが全員殺したなんて、あり得ない。どうやったらそんなことができるのか、教えて欲しいもんだね」

「だからそれは順番が逆で――」

 治が里崎に歩み寄って、ポケットに手を突っ込みながら言った。

「純夏さん、今、録音を流すから」

 と、里崎が持つスマートホンから声が流れ始めた。治が録音ソフトを起動して、録ったばかりのファイルを再生したのだ。

『そんなことどうでもいいわよ! あんたが何をしたのか、正直に話しなさいよ!』『お前、服を脱げ。裸になれ』――

 里崎の顔色が変わる。それが、自分が発した声だということはすぐに分かった。だが、どこから流れてくるのか……辺りをきょろきょろと見回す。自分のスマホだと気づくと、慌てて取り出そうとした。

 大竹が言った。

「動くな! 課長、こいつのポケットを探って!」

 呆然とする里崎が抵抗する間もなく、スマホが取り出される。その間も、音声ファイルは再生され続けていた。

 純夏が治を見る。

 治は笑った。

「うまくいったね。ほら、事務所のパソコンとか使えなくされたから、こいつのスマホで録音しちゃえって思ってさ」

 スマホから里崎の声が流れる。

『よく燃えるだろうな。この真下の倉庫には、引火性のインクが大量に保管されている――』

 里崎は、自ら四人を殺したことを認め、そのトリックを細かく語っていた。 

 録音を聞き終えた大竹はにやりと笑っていった。

「さて、今度はどんな言い訳を聞かせてくれるのか、楽しみだな。さあ、署に行こうか」そして里崎ににじり寄り、耳元に囁いた。「これだけ証拠が揃えば、殺人だけで死刑にできる。警察も検察も、自分たちの首を締める証拠は絶対に外部に漏らさない。買収した人間が多ければ多いほど、秘密は固く守られる。何もかも全部、無かったことにされるんだよ。お前の裏家業も、だ。当然、余計なことを喋りそうな危ないヤツは、瞬く間に処分される。留置場で毒を盛られないように気をつけるんだな」そして、にやりと笑った。「〝と金〟で詰み、だ」

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