第6章・架空取引
1・税務申告
純夏は、もはや刑事たちに遠慮はしなかった。無視して治に尋ねる。
「なんでパスワード変えてるの?」
治が焦りを隠せずに答える。
「知らないよ……でも……僕が中を覗いたことに感づかれたのかな……? 証拠は残してないはずだけど……。あっ、用心しろって、里崎に命じられたのかも!」
「パスワード分かるの?」
「分からない」
「分からなかったら、わたし、どうなるのよ⁉」
「じゃなくて、分かるか分からないか分からない。でも、指紋認証しなくてもさっきは破れたから……」
治は、念を送るように固く目をつぶった。
健司がつぶやく。
「何も起きないぞ……」
目を開いた治が泣きそうな声で言う。
「見れば分かるよ! なんでだろう、うまくいかない。さっきは何も考えなくてもどんどん先に進めたのに……」
直恵が首を傾げる。
「クラウドだから……?」
わずかに考え込んだ治がうなずく。
「ああ、なるほどね。きっとそうだ。ロックを外すシステムはクラウド上にある。目の前のマシンの中じゃないと、念が届かないんだ……」
純夏が声に出す。
「それじゃ開けないの⁉」
治の顔に焦りが浮かぶ。
「待ってて! 今、パスワード調べるから!」
「できるの⁉」
「やるしかないっしょ!」
大竹が困ったような口調でつぶやく。
「誰と話してるんだ……?」
純夏も苛立っている。
「しつこいな! 幽霊に決まってるでしょう!」
「やっぱり……ここにいるのか……今……?」
「だからパソコンが動いてるんでしょう⁉ 分かりきったことを何遍も聞かないでよ!」
治はグーグルを開いた。独り言をつぶやきながらキーを打ち込んで行く。
『WILLARD』
「そもそもウィラードって何なんだよ……なんか意味があるなら、次のパスワードもそれに関係することのはずなんだけど……意味にこだわるヤツは、絶対こだわり続けるから……」
検索結果が表示される。
直恵が言った。
「治ちゃん、分かりそう?」
治は苛立ちを隠さない。
「黙ってて! 考えてんだから!」ぶつぶつつぶやきながら操作を続ける。「最初のこれは……あ、なんかのバンドかな? 次のウィキがこれの説明か……日本のパンクロックバンド?……銀行屋さんとパンクって組み合わせはどうなんだろう……その次は……英文サイトで……filmって……映画のことかな……お、画像もあり。見てみよう……あ、映画のポスターだ! 真ん中分けの外人が白いネズミを持ってる! 白ネズミ! ビンゴ! あいつ、ネズミの飼育が趣味だった!」
ポイントが絞れた後は簡単だった。検索ワードに『映画』と『白ネズミ』を加える。
治は叫んだ。
「ソクラテスだ!」
純夏がつぶやく。
「ソクラテスって、どういうこと……?」
治はネットでスペルを調べながら答える。
「ウィラードは昔の映画の題名。主人公の名前で、そいつが飼ってる白ネズミの名前がソクラテス。あいつの趣味はネズミの飼育で、パソコンの壁紙もネズミだった――socratesね」
パスワードが打ち込まれて行く。
鈴木がつぶやく。
「何で勝手にパスワードが……?」
「だから幽霊! 治ちゃんが調べて、今、打ち込んでるの!」
大竹は、泣きそうな声でうめいた。
「幽霊なのかよ……ほんとに幽霊なのかよ……俺、頭、おかしくなってるのか……?」
鈴木もカクカクとうなずきながらつぶやく。
「俺も今、見てます……でもこれ、他人は言わない方がいいですよね……絶対、まずいすっよね……狂ったと思われますよね……」
と、パスワードが認証されて画面が変わった。成功したのだ。
治が叫ぶ。
「やったー! 僕、ハッカーになれるんじゃない⁉」
会長がうなずく。
「お手柄じゃな。これでわしの証言がなくても刑事どもを納得させられる」
健司がつぶやく。
「そうだといいんだけど……」
治にはその言葉は聞こえていないようだ。
「ほら、出てきた! これ、経理部長が隠していた帳簿ね。で、こっちがヤクザからかっ払ったデータ。こっちに一族の調査報告書も揃ってる」
純夏がうなずいて刑事に説明しようとする。
「これが帳簿で――」
大竹が身を乗り出してパソコンを奪った。勝手に操作してファイルの中身を見て行く。
「なるほど……君が言った通りのデータのようだな」興信所の報告書を開ける。社長のものだった。素早くページを進めて行く。「おお……こりゃ、詳しい調査だな……よくもまあ……相当な時間と金をかけてる……」
純夏がうなずく。
「会長もそう言っています」
大竹が純夏を睨む。
「会長って、鴻島印刷のか⁉」
「そうです」
「ここにいるのか⁉」
「ええ。私の横に立ってますけど」
「幽霊になって? 死んだばかりなのに?」
「何遍言えば分かるんだろう……」
「話ができるのか?」
「できますよ。いろいろ聞かされたし。お爺ちゃん、孫に殺されちゃったんだって。本人はむしろ助かったって言ってるけど」
「殺されたのか⁉ 孫って、社長の娘か⁉」
「そこは喰い付くんだ。幽霊のことなんか信じていないんでしょう?」
「あ、いや、その……だが……殺人となれば……」
会長が言う。
「それは掘り下げないでくれ。わしは事を荒立てたくない。孫に苦しみから救われたんじゃ。どうせ、証拠などない」
「会長は掘り下げないで欲しいと強く願ってます」
「まあ、それはこれからのこととしても……」大竹はパソコン画面に目を戻す。「この資料はあまりにも詳細だ……。じっくり検討しなければ何とも言えんが……」
大竹は次々にファイルを開いて中身にざっと目を通して行く。
純夏は言った。
「それを調べれば、マネーロンダリングのこともはっきりします。里崎が鴻島印刷を利用して悪事を働いていたんです。みんなを殺したのもそいつなんです」
刑事の言葉は幾分か丁寧に変わっていた。
「確かにマネロンは証明できるかもしれないが……」大竹が視線を純夏に向ける。「だが動機にはなり得ても、基本的に殺人とは別の案件だ。誰かが一族を調査していたらしいことは分かった。だが、誰がどんな目的で調べたのかはこれだけじゃ特定できない。繰り返しになるが、殺人の経緯は証拠で裏付けられている。君が言うように、一人で全員を殺せるとは考えられない。たとえこの証拠が全て本物でも、君の無実の証明にはならない。証明できるのは、そのヤクザにはみんなを殺す動機があるということだけだ」
健司がつぶやく。
「ほら、やっぱりうまくいかない……」
直恵が叫ぶ。
「あんたは黙ってて! みんながやる気を失くすから!」
むろん、刑事にはその声は聞こえない。ポケットからスマホを出すと、別の課の同僚に連絡をする。
『榊だ。どうした?』
「今どこにいる? 署内か?」
『ああ、デスクだ』
「手を貸してほしい。第四取調室に来られるか?」
『しばらく時間は取れるが……何の取り調べだ?』
「連続殺人」
『昨日の〝あれ〟か……なぜ二課の助けがいる?』
「大型のマネロンが絡んでる。今、証拠らしいものが目の前にある。ざっと帳簿を読んで、意見を聞きたい」
『三分で行く』
*
捜査二課はいわゆる知能犯担当の部署で、詐欺や脱税などの経済犯罪はこの課が扱う。大竹に呼ばれた榊は、主に詐欺事件を担当していた。本拠地を中国などの海外に置く振り込め詐欺の集団を摘発した経験も多い。
大竹のパソコンに表示されたデータに素早く目を通した榊はうなずいた。
「確かにマネロンの帳簿だな。中国から大量のドルが流入して、それがあちこちの口座に分散して行っている……。脱税の記録でもある。これだけ詳しいデータが揃っていれば令状はすぐ取れるし、逮捕も難しくないと思う。しかし、金額がデカイな……。鴻島印刷とオフィスサトザキというコンサル会社で資金を転がしてるのか……。なるほど、銀行が絡んでなければ難しい規模だな。こんなもん、どうやって探り出した? 殺人事件が起きてからたった一日だぞ。これだけの金を何年も動かしていたなら、普通はファイルを分散してセキュリティも厳重にするはずだが……」
榊は上目遣いに大竹を見つめた。その顔はファイルの内容に圧倒されてか、わずかに青ざめている。
大竹は純夏に、〝事実〟は絶対に話すなと釘を刺していた。幽霊が調べ出したとは絶対に明かせない。
大竹は純夏が口を開く前に言った。
「そこはまだ秘匿したい。運良く俺の情報屋が実態を知ってたんで、あっさり道が開けたんだ」
榊が疑い深そうな視線を向ける。
「ホントかよ、それ……。まだお前だけのネタなのか?」
「これが本物だと確認できたら、夜の会議で報告する」
「とんでもない騒ぎになるぞ。銀行まで巻き込んだ国際マネロンなら、当然俺たちも出張る。単純な殺しじゃなかったって訳か」
「ま、殺しのホンボシはすでに目の前にいるから、まだ一体の事件とは断定できない。四人が殺された流れも鑑識がほぼ明らかにしているしな。捜査は裏付けがメインで、帳場の規模も始まる前からがっつり削られた。だが、このマネロンがどんな波乱を起こすか……」
わずかな言葉の区切りに、純夏が割り込む。
「わたし、犯人じゃありません!」
「しゃべるな! 犯人はたいていそう言うんだよ!」
「だって――」
「しゃべるな!」そして、榊に言った。「このデータ、じっくり調べてもらえないか?」
榊は応えながらポケットからUSBメディアを取り出す。
「もちろんだ。データを貰っていいな?」大竹がうなずいたのを確かめて、パソコンにメディアを刺す。「これだけの大金が動いているなら、最優先の案件にする。しかも、殺しが絡んでるかもしれない。証拠を消して姿を隠す恐れもある。急ぐ必要があるぞ」
データをメディアに移動した。
と、治が会長に言った。
「あれ……? お爺ちゃん、マネロンのこと、警察に通報したって言ったよね。捜査が入る予定だったって」
会長がうなずく。
「そうじゃ。だが、この刑事は何も聞いていないようだな。担当が違うのか……」
健司がつぶやく。
「もしかしたら、常務が噓をついていたのかも。本当はまだ警察には連絡していなかった、とか……」
会長が虚を突かれたようにうつむく。
「否定はできん……次隆は人はいいが、気が弱かったからな……。他の兄弟に脅された恐れはある……」
と、大竹が榊に念を押すように言った。
「このデータ、殺人の動機には充分だよな」
「口封じ、とかな。これは大きな声じゃ言えないが……この捜査情報が漏れてホシに店を畳まれるとまずい。実は最近、ガサ入れの情報が漏れている気がするんだ……。二課の中に売ってるヤツがいるんだと思う……」
「まさか……」
「お前のところだって、完璧とは言えんだろう? ブンヤに金を握らされたり、政治家に囲われたり……こっちにも、いろいろあるんだ。大金を動かす奴らが相手になることが多いからな。それに、一課は経済犯罪への関心が薄い。今日の帳場で情報が広まると、不用意にネタを漏らす輩が出るかもしれない。お願いがあるんだが、こっちの体勢が整うまで、しばらく黙っていてもらえんか? 殺しのスジが固まってるなら、一日ぐらいは待てるだろう? 今晩社員が退社してから、鴻島印刷に任意で捜査に入って証拠を押さえたい。公には一課の捜査ということにしておいて欲しいんだが……できるよな?」
幽霊たちが一斉にうなずく。
「そういうことか……」
警察内部に裏切り者がいるなら、送った情報が握り潰されている可能性もあるのだ。
大竹は榊の提案をしばらく考えた。
殺人事件の裏付け捜査としてなら動けるが、鴻島印刷に入って情報を探り出して来たのは幽霊だ。ばかばかしいと思いながらも、否定しきれないだけの傍証が目の前に存在する。任意の捜査にも幽霊の力は必要になろう。しかし、彼らと話ができるのは被疑者だけだ。捜査には、被疑者も連れて行く必要がある。
果たして、上から許可が下りるのか……。
容疑は動かしようがないとはいえ、大竹は事件に関わった当初から純夏が殺人犯だとは信じられなかった。年期が入った捜査員の直感に過ぎないが、それが正しかった経験は多い。捜査本部の方針は当然のことながら証拠重視だが、捜査員の多くが純夏は罠に嵌められたと感じていることも知っている。
ならば、それを確かめるべきだ。
マネーロンダリングの証拠が鴻島印刷から出れば、純夏が濡れ衣を着せられたという強い傍証になる。膨大な利益を得る真犯人がいる可能性が生じるからだ。犯人が他にいるなら、逃がすわけにはいかない。
大竹は、何がなんでも上司を説き伏せて捜査に純夏を同行させるべきだと心を決めてから、うなずいた。
「やってみよう。一課のヤマとして捜査に入ろう。帳場への報告は明日に延期だ。たぶん、夕方になるだろう。ただし、この被疑者も同行させる」
純夏が大竹を見る。
「被疑者って……わたし? わたしを、なぜ?」
「君は鴻島の一族だ。必要になる気がする。詳しくは、後ほど説明する」
榊はいぶかしげに純夏を見た。高校生にしか思えない少女がどう捜査に役立つのか、見当もつかなかったのだ。しかし、深く追求することもなく席を立った。
「ありがとう。データを精査して新しい情報が出てきたらすぐに連絡する」
榊は、興奮した様子を隠せないまま取調室を出て行った。
純夏が改めてつぶやく。
「わたし、外に出られるの?」
「俺が管理官を説得する」
「わたし、人を殺したりしてません」
大竹は意外にも穏やかな口調で答えた。
「信じてもいい気がしてきた。しかしそれなら、現に存在する証拠を覆す必要がある。だからこそ君にも来てほしいんだ。君でなければ――というより、幽霊でなければ見つけられないようなことが鴻島印刷に隠されてかもしれない。君は幽霊と話せるんだろう?」
「信じてくれるんですか?」
「信じちゃいないが……なんと言えばいいのか……否定もできない。だからといって、君の無実は証明できない。君は罠にはめられたのかもしれないが、それなら最初の三人は誰がどうやって殺した? たまたま殺し合ったなんて説明じゃ、俺たち警察は納得しない。幽霊がそう言ってますなんて言い訳も論外だ。里崎が君を陥れたなら、彼がすべてを企てたことになる。彼が四人全てを殺したとか、誰かにやらせたとか、今ある証拠を覆す方法が論理的に説明できるなら考えを変えてもいい」
会長がうなずく。
「あいつなら、それぐらいのことはする」
治が首をうなだれる。
「でも、どうやったらあんな証拠を残しながら全員を殺せるんだろう……どうやったら証明できるんだろう……」
純夏が言った。
「わかったわ。幽霊たちが調べてくれるから。もう少し待ってて」
健司が言う。
「そう言われても、どう調べられるんだか……。幽霊の俺たちまで罠にかけられてるみたいだ……」
直恵が叫ぶ。
「だから、そういう後ろ向きなことは言うなって! やんなきゃならないんだよ!」
と、同時に治も叫ぶ。
「罠だ! 罠をかけて、里崎自身にしゃべらせるしかない!」
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