第4章・市場調査

1・不正事例

 北海道警察本部の狭い取り調べ室はギュウギュウ詰めだった。

 といっても、それが分かっているのは純夏と幽霊たちだけだ。純夏の前に座る刑事には何も見えず、感じていない。ドアの横にはもう一人の刑事が座り、パソコンで記録を取っている。机の角には対局中のポータブル将棋盤が置いてあった。二人の暇つぶしなのだろう。

 大竹信二と名乗った年配の刑事が、穏やかな声で純夏に語りかけた。

「君がやったこと、正直に全部話してくれると助かるんだけどね……。素直に話してくれれば、こっちもできるだけのことはするから。まだ20歳になってないんだし、少年法の範囲内なら刑も比較的厳しくなくなるから。事情によっては情状酌量の余地もあるしね……」

 と言われても、純夏が納得できるはずはない。ようやくかすれた声を絞り出す。

「わたし、被害者なんですけど。昨日、ひったくりにあったばかりなんですよ」

「それは知ってる。所轄から報告書も上がって来た。でもさ、だからって加害者じゃないって理由にはならんのよ。君は一人で部屋にいたって言うけど、それ、アリバイはありませんって証明してるのと同じだから。君のお母さんはずっとホテルのロビーで人を待ってる所をフロントが見ているし。誰も証明できないんだな。本当のこと喋って、楽になっちゃおうって……」

 純夏は涙ぐんでいた。

「母さんはどうしているんですか……? 会えないんですか……?」

「この建物にいるよ。でも、彼女も重要参考人でね。今は別の取り調べ室で話を聞かせてもらってる。ま、しばらくは会えない。我慢してもらうしかないな」

「ホテルのロビーって……そんなところで、何を……」

「捜査の進行状況は、教えられないね」

 この部屋で取り調べを受ける前にも、純夏は屈辱的な身体検査を受けていた。警察は何か〝確かな証拠〟を握っているらしく、頭から純夏が殺人犯だと決めつけている。事件発生からたった数時間で逮捕状が発行された、異例ではあるが正式な逮捕だったのだ。

 だから連行されたとたんに純夏は小部屋で裸にされ、身体の隅々まで調べられた。薬物や凶器を隠していないかを確認する、不可欠な手順だと言う。調べたのは三人の婦人警官で、容疑が殺人なので通常より厳しい検査をしていると説明した。

 だが、純夏は涙をこらえるのが精一杯だった。その時点で自尊心はずたずたに切り裂かれている。あれやこれやの決まりや権利を長々と説明されたが、そんなことは何一つ頭に残っていない。

 まだ夜は明けていない。逮捕から数時間が過ぎたが、休む間もなく取り調べが始まった今でも、心は折れたままだ。

「だからって、裸にまでしなくても……」

 直恵が言った。

「こんな奴らに負けるんじゃないわよ! あんたは何もやってないんだから。あたしたち、ずっと一緒にいたんだから!」

 もちろん、幽霊の声は刑事たちには聞こえない。

 健司が付け足す。

「だからって、俺たちじゃ証人になれないんだよな……」

 と、治が言った。

「だけど、何とか証明しなくちゃ。このまま黙ってたら、本当に殺人犯にされちゃう。どんな証拠があって逮捕したのか、聞いてみて」 純夏はうなずいた。とりあえず自分が捕まった理由を知らなければ、潔白を証明することもできないのだ。

「わたし、どんな証拠があって捕まったんですか?」

 大竹の顔に困惑が浮かぶ。

「なに? とぼけちゃう? あまり勧められないな……態度が悪いと、刑が重くなったりもするよ」

 治が言った。

「それ、脅迫じゃん」

 純夏が同じ言葉を刑事に向かって繰り返す。

「それ、脅迫ですか?」

 大竹は軽く肩をすくめた。

「そんなことも言っちゃうんだ、今時の若い子は……。仕方ないな……そこまで知らないと言い張るなら、教えてあげるから。ただし、この部屋のことは全部録画してあるよ。私たちが言ったことへの反応とか、記録に残って裁判の証拠にもなるから。裁判員が量刑を考える時に参考にするからね。改めて念を押しておくよ」

 治は健司に命じた。

「おじさん、純夏さんの母さんが何を言ったのか調べてきてくれる?」

 健司は意外にも、素直にうなずいた。

「分かった。建物の中を見回ってくる」

 そして壁の中に消えた。

 治が純夏に言う。

「こんなに速く逮捕されたんだから、よっぽど確実な証拠があるはず」

 純夏。

「何か確実な証拠があるんですよね」

 大竹はじっと純夏の目を見つめてから言った。

「君の指紋。金属バットにね、指紋がべったり付いてたんだよね。君の指紋だけ」

 治。

「指紋って……なんで警察が純夏さんの指紋を知ってるの?」

「なんでわたしの指紋を知ってるんですか?」

「だって、昨日暴漢に襲われた時、指紋取られたでしょう?」

 直恵。

「なんで被害者の指紋が照合されるのよ⁉」

「なんで被害者の指紋が照合されたんですか?」

 大竹はやや不機嫌な顔を見せた。

「あの種の犯罪だと、被害者が復讐のために加害者に変わるってこともあるんでね……」

 治。

「だから犯罪者のデータベースに入れたんだ! それって、違法じゃないの?」

「私の指紋、犯罪者扱いしたんですか? 違法じゃないんですか?」

 大竹は隠しカメラの方を見て、かすかな溜息をもらした。

「おかげで、こんなに速く指紋の持ち主が分かったからね。警察の役目は、市民の安全を守ること。殺人犯は、一刻も早く逮捕しないと。データベースはそのための仕組みだから」

 直恵。

「話をはぐらかすんじゃないわよ!」

 治。

「他には? 証拠って、それだけ?」

「証拠って、それだけなんですか?」

「それだけ、って……逮捕には、充分なんだけど。でもさっき、別の証拠も出たって連絡があった。だから、正直に話してほしいのよ。全部分かってるからさ。先に話してくれれば、罪も軽くできるかもしれないんだから」と、ドアがノックされた。部屋のマジックミラー越しに待機していた部下が出番を待っていたのだ。「あ、次の証拠、届いちゃったみたい。話すなら、今しかないよ」

 純夏は即座に答えた。

「わたしは何もやってません」

「そうか……」刑事は戸口で待機していた若い部下に言った「鈴木、入れてやって」

 部下の鈴木一樹がドアを開いて、黒いビニール袋に入った荷物を受け取る。それを純夏の前に置いた。

 直恵が壁の鏡を確かめに行ってから、戻る。

「そこの壁の鏡、マジックミラーだね。これ、出すタイミングを計算していたんだ。サツらしい陰険なやり口」

 大竹は純夏の目の前で、ゆっくりと袋の中身を取り出した。

 純夏は思わず声を上げた。

「わたしのバッグ⁉」

 大竹がにんまりと笑う。 

「そうなの? 中身を言ってみて?」

 昨日、所轄でさんざん説明した内容だ。

「赤いお財布。四千円ちょっと入ってる。ハローキティのハンカチ。黒いコンパクトと……」

 大竹がバッグから出したのは純夏が説明した通りの品物だった。

「でね、ここにも君の指紋がいっぱい。君の持ち物だから当然だけど」

「でも、どこにあったの? 襲われた時に盗られたんですけど……」

「殺人現場。ただし、第二の被害者、鴻島次隆さんのだけど。書斎のクローゼットに隠してあった」

 純夏と二人の幽霊が一斉に叫んだ。

「えぇ、なんで⁉」

 大竹も目が厳しく変わった。

「だから素直に話して欲しいんだ。鴻島次隆はストーカーだったんじゃないの? 君は襲われてバッグを奪われた。そのとき、鴻島の顔を確認した。放っておけばもっと凶悪な被害を受けるかもしれない。だから先にバットで殴り殺しに行った。でも、何かの行き違いがあって名良橋さんを殺す羽目になってしまった……。例えば似たような外観だから家を間違えたとか、名良橋さんが次隆を殺したのを目撃して争いになったとか……。そうじゃないの? やむを得ない事情があるなら、正直に話てもらえれば君を守ってあげることができるかもしれないんだ」

 大竹は勝ち誇っていた。

 純夏たちは呆然と言葉を失っていた。

 その間に、健司が戻る。

「お母さんは仮眠を取っていた。警察に何を話したのかは分からない。後でまた調べにいく」

 治はうなずいたが、かすかに笑っている。

「これで、罠だって確定だね。警察って、ほんと、バカばっかり。他に何人も殺されてんだよ。この殺人だけストーカーのせいだなんて、あるはずないじゃん。全部つながってるに決まってる。そもそも純夏さんが襲われたのも、犯人の仕業だね」

 純夏が我に帰る。

「これって、連続殺人ですよね。バットで殺された人だけわたしのせいなの? 他の殺人とは無関係ってこと?」

 大竹は歯切れの悪い口調で答えた。

「私たちは、君が鴻島一族に深く関係していると思っている。だからこそ、真実を話してほしいんだ。少なくとも、バットに残った君の指紋は否定しようがない」

 健司が不安げにつぶやく。

「だよな……そんなはっきりした証拠があったら、言い訳もできないし……」

 治が自信満々で笑う。

「だから、逆なの。罠に嵌められたってはっきりしただけ。純夏さんを襲ったのは、バットに指紋を付けてバッグを奪うのが目的だったんだ。自作自演に見えるように、わざわざ絞め技を使って身体に傷が残らないようにしたわけ。よし、真犯人を暴いてやるぞ」

 純夏は治を見て小声でつぶやいた。

「お願い、助けてね」

 大竹は言った。

「朝から帳場――捜査本部が立つことになってる。その時に君がやったことが全部分かっていれば、事件全体の捜査がはかどるんだ。このバッグが鴻島常務のところで発見されたこととか、まだ分からないことが多いから。だからこんなに急いで取り調べしてるわけだけど……ねえ、話してくれない?」

「わたしは何もやってません。鴻島のことも、何も知りません」

「そうか……話してくれないんじゃ、仕方ない。いったん留置場で休んでもらうしかないね。しばらく仮眠を取ったら、またじっくり取り調べる。長くなるかもしれないから、覚悟するように」

 純夏は隣に立つ治に言った。

「どうしよう……」

 治は自信を込めて応えた。

「任しておいて!」

 純夏の奇妙な行動に気づいた刑事たちが、眉をひそめて顔を見合わせた。

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