第3章・連鎖破綻
1・営業妨害
幽霊たちは明確な目的を与えられて、それぞれ調査に向かった。おかげで純夏は、一日中のびのびとした時間を過ごしていた。
神社のバイトが終わった後には、数少ない母子家庭仲間を誘ってカラオケに向かった。およそ、一ヶ月ぶりのことだ。
「わー、楽しかったねー!」
帰り際に純夏が漏らした言葉は本心からのものだった。わずかな酒も入り、気分も高揚している。
カラオケボックスはネオンに満ちたススキノの外れだったが、反対側の河川敷の方面は真っ暗だ。三人で5時間歌い続け、ジャンクフードで腹も満たされている。幽霊に取り付かれたおかげで遠ざかっていた当たり前の暮らしが、これほど楽しいものだとは思ってもみなかった。
友人の一人が言った。
「スミちん、これからどうする? まだ時間ある?」
純夏は残念そうに肩をすくめる。
「ごめーん。そろそろ帰らないと」
家で待つ母には、今日は遅くなるから夕飯は要らないと言ってある。それでも、母親には心配をかけたくない。純夏が自発的に決めた門限は、夜10時だ。
「あっそー。ウチらはもうちょっと遊んでくね」
「久々だから、エンジン全開になっちゃったー! ぜーんぜん呑み足りないぞー!」
純夏が門限を気にすることは、二人とも知っている。別れもあっさりしたものだった。これからたぶん、繁華街の中心地に繰り出してイケメンを物色するのだろう。
母子家庭の母親にも、さまざまなタイプがいる。職業も、育て方も、倫理観も、一様ではない。その子たちもまた、千差万別だということだ。純夏はその中でも、特別〝慎重派〟だった。母親から受け継いだ性格だ。その上、霊感が強いことを気味悪がって男たちもなかなか寄り付かない。二人ともそれを承知していて、しつこく誘おうとはしなかった。
一人が手を振りながら言った。
「幽霊に襲われるんじゃないよ!」
「じゃ、まったねー」
一人歩道に残された純夏は、去っていく二人に手を振りながら唇を尖らせた。
「とっくに襲われてるんだって……助けておくれよ……」
だが、確かに帰り道は物騒だ。どう帰るか、一瞬の迷いがあった。
自宅のマンションは遠くないのだが、街中を横切ると細い路地を複雑に曲がらないとたどり着かない。タクシーを拾うほどの距離ではないし、運転手に道を説明するのも面倒くさい。一方、いったん河川敷の遊歩道に出てから市街地に戻れば、ほんの一〇分で着ける。河川敷に出るまでは車の往来も多く、道も明るい。
純夏はいつもその近道を歩いていた。河川敷の雪が消えてから一ヶ月ほどが経ち、明るいうちは草野球をするチームやジョギングのランナーでにぎわう散策路だ。ただし夜間は人通りも絶え、照明が少なくて暗い場所がある。
純夏は薄いコートの襟を立ててつぶやいた。
「タクシー乗るにも、バイト代がまだだしな……。しっかたない、歩こうっと」
割り勘にした飲食代が予定をオーバーしていたのだ。
河川敷に向かって歩き始めた。
風はまだ冷たかったが、火照った頬には心地よい。幽霊のわずらわしさも、今だけは忘れていられる。
ほどなく、川沿いの遊歩道に出た。多少風は強くなったが、歩いて身体が暖まったせいで、スプリングコートのボタンを二つ外す。人影は他にない。遊歩道にまばらに配置されている街灯の光が辺りを照らし出していた。対岸の街灯が河川敷の先の川面に反射して美しい。
自然と足が速まり、鼻歌が出始めた。iPhoneのイヤフォンをバッグから取り出して耳に着ける。普段は音楽を聴きながら歩くことはしないのだが、それだけ解放された気分になれたのだ。
お気に入りのサカナクションをかける。
だが街灯と街灯の間には、思いのほか深い闇が潜んでいた。油断があった。背後から近づく人影には気づかなかった。
不意に口を押さえられた。
純夏は驚きのあまり振り返ろうとした。だが、首が回せない。
足を払われ、遊歩道に倒される。声を上げようとしたが、できなかった。倒れたまま、少し引きずられた。
口を押さえられていただけのせいではない。あまりの恐怖に、喉が詰まったようになり、息を吐くことすらできなかったのだ。
次の瞬間、首のまわりに腕を回されていた。ぐいぐい締め付けてくる。足に、相手の身体が絡み付いてくる。
叫ぶことはできない。一瞬の出来事だったので、どうしたらいいかも分からない。暴れようとしたが、足が凍り付いたように動かない。腕だけが動かせた。後ろから絡み付く何者かを掴もうともがく。だが手が空を切るばかりで、届かない。
息ができない。頭の中が沸騰したように熱くなる。
そして、次第に意識が薄れていった。
*
意識が戻ったとき、純夏は遊歩道の脇の茂みに横たわっていた。
暗闇にぽつんと転がって、星空を見上げていた。まるで宇宙空間にでも放り出されたような気がする。
何があったのか――
覚えていなかった。
背後から襲われた。そして意識を失った。
今は呼吸が正常に戻っている。どれだけ時間が過ぎたのだろうか? 身体に力が入らない。だが痛みは感じない。
誰かに襲われたのだ。なぜ? 何をされたのか……?
まだ犯人がいるの⁉ 急激に鼓動が高まる。
そして気づいた。ミケが顔の横にちょこんと座っていた。時おり、純夏の頬を舐める。ということは、おそらく犯人はもう逃げている。あたりに人の気配も感じない。
純夏はゆっくりと深呼吸を繰り返した。鼓動が落ち着き始める。
「ミケちゃん……わたし……何されたの……?」
ミケが、頬に腹をすりつけてくる。
力が抜けた腕でコートの前を探ってみる。三個目のボタンはまだかかっている。脱がされたわけではなさそうだ。コートの裾を上げて太股に触れる。
「レイプじゃないみたい……」
着衣は乱れていない。ストッキングもそのままだ。暴行されたような痛みや異変は感じない。身に付けたものを探った。
バッグが無くなっているようだ。残り少ないお小遣いも一緒に持ち去られてしまった。だが、iPhoneはコートのポケットの中に残っている。
ようやく気づいた。耳から外れたイヤフォンから、かすかにサカナクションが流れたままだった。
深い溜息が漏れた。
「ミケちゃん……なんで止めてくれなかったの……? あんた、化け猫なのに。なんで守ってくれなかったのよ……あれ、それとも、あんたが犯人を追い払ってくれたの?」
ミケがまた頬を舐めた。
「そうだったんだ……」
起き上がろうとした。だが、上体を上げることすらできなかった。
急に腹が立ち始めた。iPhoneを取り出して110番に連絡する。
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