3・高山 治
ぎゅうぎゅう詰めのタクシーは地獄だった。幽霊なんだから、太ってるのも暑苦しいのも汗でべたべたしているのも――実際は汗なんかかけないんだから、そんな気がするのも関係ないはずなのに、ババアから離れてほっとした。あいつの嫌らしい点は、見かけじゃないんだ。魂そのものが、粘ついているっていうか……。
でも、純夏さんからは離れたくなかった。
僕だって、バカじゃない。純夏さんが僕を好いていないことは知っている。元々、男としては対象外のガキだし、気が弱いへなちょこだし、しかも幽霊なんだから。恋愛感情なんて持てるはずがない。
でも、僕は純夏さんが好きだ。理想の女性だ。なんだかんだ言いながら僕たちを助けようとしてくれている、気持ちが真っすぐで真面目な人だ。純夏さんが望むなら、できることは全てしてあげたい。『消えろ』と言われれば、いつかは消える覚悟もある。
でも、それまでのしばらくの間は、せめて顔が見える場所にいさせて欲しい……。
今の純夏さんの望みは、鴻島印刷の情報収集だ。僕にはもう、社長がどうなろうが関係ない。だが、純夏さんから命じられたことには力を尽くす。
僕の分担は、専務の名良橋恵子の調査だ。専務は鴻島家の長女で社長の妹だが、性格は男勝りで社内での発言力も強いという。旦那は、鴻島印刷との取り引きが長い北興銀行幹部の弟、名良橋和道。今は鴻島印刷の経理部長だ。専務は結婚直前まで姓が変わることを嫌がり、養子にすることにこだわったという。会長が銀行との円満な関係を望んで、娘を説き伏せたとも言われている。二人の一人息子、名良橋純一は、北興銀行の幹部候補生として頭角を現している。
っていうのが、脂ぎったババアから受けたレクチャーの内容。
つまり、政略結婚だ。その頃は、鴻島印刷も元気があったらしいから。自宅も社長宅の二つ隣。鴻島一族、丘のふもとに並んだ高級住宅街に集まって住んでいる。偉そうにしてても、かたまってないと自信が持てない連中なのかもね。市街地の夜景を見下ろすような位置が、自尊心をくすぐるんだろう。
屋根付きの駐車場は三台分、高そうな外車が並んでいる。そうか、二世帯住宅だっていっていたっけ。息子の純一はまだ独身で、親元から離れないという。オバサンは、オカマだ、オカマ、と言って、ガハハと笑った。それともマザコンか――と、またガハハ。
個人的には、どっちっでもいい。いい年をして結婚できない男は多い。したくない男もいる。女も、だけど。みんなそれぞれ事情があるだろうし、守りたいものもあるんだろう。だから常識を押し付けないで、そっとしておいてやればいい。でも、仕事を与えられたんだから、僕には調べる責任がある。
純夏さんのためだ。
夜中の一時過ぎだというのに、寝室に話し声がした。入ってみる。セミダブルベッドが二つ。
女の声だ。
「ねえ……あのこと……心配じゃない? 本当に、会長が言うようにして大丈夫なのかしら……」
男が答える。
「やむを得ないだろう。いつかは決心しなくちゃいけないことだ」
「あなた、覚悟は決めたのね」
「会長がチャンスを与えてくれたと思ってる」
「ねえ、そっちに行っていい?」
「ええ? またかい?」
「いや?」
「いいよ」
ごそごそと物音がする。六十近い年よりなのに、元気だな。僕には、両親が肌を触れあわせて寝ているのを見た記憶はない。微笑ましいような気もする。
だが、『覚悟を決める』っていうのは気にかかる。この二人、何か企んでいるんだろうか……?
ついでだから、息子の部屋も覗いていくことにした。
息子は部屋にいない。ババアが聞きつけた情報では、最近一ヶ月ほど休暇を取って海外へバカンスに出たらしい。株主総会が集中する時期を控えて銀行も忙しいるはずなのに、やっぱりぼんぼんは違うわよね――って嫌みを叫んでいた。
おっと、壁の棚がガンプラでぎっしりだ。ガンダムやザク、グフが、バージョンや年代できっちり分類されている。メインはオリジナル系だ。僕は熱烈なファンだとは言えないが、それぐらいは分かる。
反対の壁にはDVDやブルーレイが、これまたびっしり。こちらもガンダム系一本だ。ネット配信が普通になっても、ファンは円盤にこだわるものなんだ。パソコンはバイオの最新ハイエンド機。それを中心に、ビジュアル系の周辺機器がところ狭しと並んでいる。総額二、三〇〇万円は超えそうなセットだ。その中に埋もれるようにして、ベッドが置いてある。
羨ましい……。僕ならむろん、マックを選ぶけど。でも、40近くなっても結婚できない理由は充分呑み込めた。オタクに、女の子の目は冷たいから。
でも、これが銀行員の実力なのか? ガンダムコレクションだけ見ても、数一〇〇万円の価値はありそうだし。それとも、鴻島印刷役員の親の力なのか?
どちらにしても、不公平だ。僕の父さんは、30年勤め上げても軽自動車しか買えないというのに……。ちょっとだけ、やる気が起きた。こんなふざけた連中に一泡吹かせてやれるなら、幽霊の力を存分に出してやる。
で、ガンプラコレクションを鑑賞しながら、考えた。僕は次に何を調べたらいいのかな……。
直恵ババアの調査範囲は経理、健司のオヤジは営業関係だ。僕としては銀行について行ってみたいが、お金のことには何の知識もない。鴻島印刷を叩き潰す役に立つ情報があるかどうかも分からない。会社を困らせるなら、本業での評判を落とさせるのが一番だろうし……。
そうだ。印刷屋といえば、コンピュータなしでは動かなくなっている職場だ。印刷物の原稿をパソコンで作るDTPは、マックの得意分野だし。それなら僕にも理解できるかもしれない。フォトショやイラレだって、一応は使える。
では、今日は鴻島印刷の会社見学にしよう。じっくり印刷の流れを勉強して、できるものなら仕事をめちゃくちゃにしてやる。
せこい嫌がらせかもしれないけど、何もしなければ純夏さんの助けにはなれないんだから。だけど、ババアも経理に行くと言っていたし……顔を会わせないように、気をつけなくちゃ。
やることがないから、早めに会社へ行ってパソコンを見回ってみよう。ババアとかち合うと嫌だから、工場の裏から……って、もう3時近いのに、なんで工場に電気がついているんだ?
いくら印刷屋でも、今時徹夜はそうそうしないはずだ。ネットに押されて新聞広告なんてじり貧だし。父さんだって、そんなに遅くまで働いていたことは少ないと思う。
中に入ると、出来の悪い生徒を叱るような大声が聞こえた。
「やっとチラシが上がったぞ! ほら、いつもみたいにもたもたするんじゃないぞ! 印刷のポカが原因だとはいえ、時間ギリギリで販売店待たせてるんだからな!」
怒鳴られた男が生彩のない返事を返す。
「はい……」
父さんの声だった。
機械の陰から、二人の姿をのぞいた。幽霊だから気づかれるはずがないと分かっているのに、なんだか見てはいけないもののような気がして……。
父さんは、営業時代の部下に怒鳴られていた。一度、家に遊びに来たことがある奴だ。当時は大学出たてで、父さんにへこへこ頭を下げっぱなしだった。
ガキっぽいツラは今も同じだ。なのに偉そうに、重たそうなチラシの包みを台車に乗せる父さんを笑って見ているだけだ。
急ぐんだろう? 手伝えよ!
それを見て、この会社の全てが理解できた。お山の大将ばかりなんだ。自分より下の立場の者は、威圧して従わせる。いつも上から威圧されているからだ。その間だけは、自分が上等な人間になった気がするんだろう。そういう奴ほど、上の人間には逆らえない。社長自身が、そういう人間なんだ。だから社員も、それを真似る。
仕事って、そんなものか? 互いの能力を出し合って、困難を解決していくものじゃないのか? 足を引っ張って、どうする気なんだ……。
父さんは、能力がなかった。それは分かっている。しかも、営業でヘマをした。普通の会社ならクビだろう。当然だと思う。でも、社長に頭を下げることには熱心だった。だから、工場の片隅に居場所を与えられたんだ。そこで飼われているんだ。ペットのように……。
人情とか優しさとか、そういう理由から会社に残したわけじゃない。自分に従うイエスマンだからだ。社長は、身の回りをイエスマンで固めたいだけだ。自分の間違いを認めるのが恐い男なんだ。だから、逆らわない人間だけを可愛がる。
そういえば、健司のオヤジもイエスマンだったようだ。社長は、ああいう人間に尻を舐めさせるのが快感なんだ。
父さんは昔、社長と喧嘩して辞めていった同僚のことを、母さんに話していたことがあった。俺にはできないな……って。子供ながらに、すごくうらやましそうに聞こえたものだ。
ならば、やめればいいのに……。
そう思った。でも、辞めていくのは自信がある社員だ。能力がある人間だ。会社に埋もれて、そこにぶら下がって生きるしかない平凡なヤツは、社長に逆らえない。自分を殺してイエスマンになりきって、餌をもらい続けるしかない。
だから父さんは、僕に期待していたんだ。母さんは、勉強を押し付けてきたんだ……。
重そうな荷物を抱えた父さんが、こっちを向いた。その父さんの背中を、営業の若造があざ笑っている。父さんの目には、涙がにじんでいた。
と、父さんは僕を見た。僕の姿が見えてでもいるように、目を合わせた。
そして、ごめんな、とつぶやいたような気がした。
僕も涙があふれたような気がした。
父さんは、父さんに出来ることをしているだけだ。それも、必死になって。
人間がみんな、強くなれるわけじゃない。弱くても、自分で居場所を見つけるしかない。だとすれば、この会社の社長でも、それなりに世の中の役にたっているのか……? どう考えていいのか、正直言って僕には分からない。納得できる答えが見つかるまで、調べるしかない。
僕は、父さんの側を離れた。なんだか、申し訳ないことをしているように思える。でも、今さらどうにもならない。ごめんと謝るべきなのは、僕の方だし。
自殺なんかするんじゃなかった。でも、僕も弱かったんだ。弱い自分を認めて、踏んばり続けることもできないほど、弱かったんだ……。
ごめんね、父さん……。もし生まれ変わったら、強くなるから。せめて父さんぐらいは、我慢するから……。
僕は、コンピュータが並んでいるはずのデザイン部門を探した。なにか熱中できるものを見つけないと、落ち込むばかりだもの。
あった。路地を挟んだ隣のビルの中だ。学校の教室ほどの広さの部屋に、薄いiMacがずらりと並んでいる。一台に近寄る。電源を入れなければハードディスクの中身は調べられない。それを調べるのは、社員が出てきてからになりそうだ……。と考えながら、自分でスイッチを押す姿を思い浮かべていると――。
ジャーン。
マック特有の起動音が鳴り渡った。
え? 起動したって? 僕がスイッチを? なんで? 指なんか使ってないのに。使ったって、押せないのに……。
唐突に、純夏さんの言葉を思い出した。
『幽霊の正体って、電磁波だと思うんです』
そうなのか? 本当にそうなら、コンピュータを操作することが可能かもしれない。キーやマウスを実際に押さなくても、回路に微弱な電気信号を流せばいいんだから。
じゃあ僕は、それをイメージしただけでマックのスイッチを入れたってこと?
僕は、ワクワクしながら起動が終了するのを待った。もしも幽霊にもコンピュータが使えるなら――と、空想を広げながら。
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