4・雨宮健司
俺は社長の身辺を調べるつもりでいた。なのに大垣のお局がしゃしゃり出て、そっちは任せろと言う。
あんたは常務を見てきて。あのボンクラには、別に調べることなんかないんだろうけど――
ま、いいさ。好きにしろ。幽霊になってもどうせ無能なんだから、同じく無能な常務の担当がお似合いだってことだ。
鴻島次隆常務は、会長の次男だ。仕事はできない。させれば、すでに固まった契約を壊しかねないほど非常識なヘマをしたりする。会長が哀れに思って経営陣に加えてはいたが、出社もしないでお飾りでいることが一番の仕事だとみんなに了解されている人物だ。
人は良いんだがね……。
個人的にも失敗続きで、10年ほど前に離婚している。会社の金を女に貢いでいたことが発覚して、大立ち回りになったのだ。嫁と子どもは慰謝料をがっぽり手に入れて去っていった。会社に開けた穴は会長――当時の社長が何とか誤摩化したが、責任をとる形で社長の座を長男に譲った。鴻島印刷の経営が揺らぎ始めたのはそれからだといっていい。
独り者になった常務は会長夫婦と暮らし始めた。お目付役が必要だと、兄弟全員が下した判断だ。しかし会長夫人も間もなくガンで死に、ここ2年は会長自身が難病で入院を続けている。全身性アミロイドーシスという何だか良く分からない病に加え、今ではガンがあちこちに転移した状態に陥っているそうだ。
これもお局情報ではあるが。
だから今、常務は会長の家で一人で暮らしている。右隣は社長宅で、左は専務宅。怖い兄弟に挟まれて私生活まで監視されているわけだ。お飾りとはいえ、鴻島印刷の常務だ。今度大きなヘマをすれば会社を潰しかねないからな。もちろん、そんなわがままが許されるのは、会長の目が黒いうちだけだろう。死期が迫った会長が亡くなれば、きっと会社からも追い出される。
だが、そんな人間を今さら調べてどうなる? なんかもう、復讐心も萎えた。元々、そんなに鴻島を恨んでいたわけでもないし。
俺は本当に無能だな……。自分がやりたいことさえ分からないなんて……。ま、どこかでしばらく時間を潰すさ……。
そう考えて、気づいた。鴻島の営業だった時と何も変ちゃいない……。懐かしいような、苦しいような、嬉しくもない思い出だ。
支店長として勤務した間、確かに俺は大口の顧客を開拓したことはなかった。役所と一緒になって粘り強く〝ゆるキャラ〟を開発したのも、ずっと前から地元で勤めていた部下だ。俺は、そんなものが商売になるはずはないとバカにしていた。代わりにやっていたのは以前からチラシを任されていた地元スーパーの原稿集めと、時々知り合いの紹介でまわしてもらう名刺程度の仕事だけ。大手ががっちり抱え込んでいるクライアントに飛び込んで仕事をもぎ取ってくる度胸なんて、あるはずがない。
だから、暇だった。だからといって、事務所で新聞ばかり読んでいるわけにもいかない。それじゃ、部下の志気が上がらない。上司に報告されたら、無能の烙印を押されるし……。
どこで時間を潰すかは、毎日の関心事だった。10時から1持間は、見晴しのいいあの公園で。晴天の午後は、人目につかない森の中に社用車を停めて……。
今なら自分が無能だと分かる。当時も、押しの強い営業としてバリバリ新規の仕事をかき集めたいとは思っていた。でも、これが俺の性格なんだから仕方ない。それでも部下の前では精一杯、支店長の役割を演じたつもりだ。
怒鳴るべきところでは怒鳴り、命令すべきところでは命令した。社長が俺にしてきたように。できる限り、がんばった……。
嘘、だな。
本当は全部分かっていた。俺は、自分に嘘をついている。怒鳴り、命令すれば相手が黙るからそうしただけだ。部下はみんな、俺が無能だと知っている。何年もまともなクライアントを開拓できないんだから、有能であるはずがない。だからみんな、腹の中で俺をあざ笑っている。俺も、笑われていることを察している。
だから、会社が与えてくれた権限をかさにきて、立場が危なくなるたびに怒鳴っただけだ。
哀れなもんだな。我ながら、泣けてくる……。
バカだな。幽霊になってまで、嫌な思い出をほじくり出さなくてもいいものを……。
どこで時間を潰そうか……。
向かう先は、俺の家しかなかった。
多少の無理を承知で買った、中古の一軒家だ。俺が残した唯一の財産。俺が死んだので、ローンも消えたはずだ。つまりこの家は、俺の人生の全てをかけて残した遺産だ。大きいのか、小さいのか、何と比べればいいのか……。
それだけしかできなかったんだから、仕方ない。
だが保険金に加えて過労死に対する和解金――実際は口封じの代償だが、それも入っているから、これからの生活に心配はない。
居間で、妻と息子が段ボールに荷物を詰め込んでいた。床いっぱいに、封をされた段ボールが積まれている。
何だ? 引っ越しか?
なるほど……大金が転がり込んだんで、新築でもしたのか……。俺がようやく手に入れた家を捨てるのは悲しいが、それでお前たちが幸せになれるなら不満は言うまい。せめて、新居が俺の命と引き換えに得られたことを覚えてさえいてくれれば……。
と、息子が荷造りの手を止めてつぶやいた。
「あんなボロアパートに行きたくない……」
おや、涙を浮かべている?
妻がいきなり金切り声を上げた。
「仕方ないじゃないの! お金がなくなっちゃんたんだから!」
「みんなあんたが欲を出したせいだろうが!」
何やら、大変な事態が持ち上がっている……。
「だって、あの人たちがお金は倍にして返すって……」
妻も涙を吹き出させていた。
「いやだよ……こんなの……」
「いやでもなんでも、この家を売らなかったら暮らしていけないじゃないの……」
誰かに騙された? 金を奪われたのか? 誰だ? あの人たちって、いったい誰だ? 誰が二人を騙したんだ?
「大体、何でそんなバカな話に乗ったのさ⁉」
「何度も話したでしょう⁉ やさしかったのよ、あの人たち! 父さんの会社の資産も運用しているって言うから、すっかり信用しちゃったし。警察も、足取りが掴めないって!」
「そんなの、ちょっと調べれば分かっただろうに!」
「母さんを責めないでよ! あたしだって悔しいんだから!」
「何が悔しいだよ! 全部あんたの責任じゃないか!」
醜い罵り合いが始まった。
止めてくれ……家族なのに……。
自然に、身体が前に出た。妻の肩を抱く。
幽霊になった俺に気づくはずはないし、何の意味もないと知りながらも、そうせずにはいられなかった。
と、肩をふるわせていた妻の動きが急に収まった。
ん? 俺が触れたのが分かるのか⁉
妻はしばらく沈黙してから、静かにつぶやいた。
「そうよね……私が悪かったのよね……」
だが、息子は怒りをぶちまけた。
「そうに決まってるじゃないか! 母さんがバカ過ぎるから――」
身体を翻して、息子の肩を抱く。
息子の身体から怒りが消え去っていくのを感じた。
「母さんが……」
二人とも、ぎすぎすした怒りを一瞬で冷ました。つかみ合いのケンカでもしそうな勢いが、突然冷静に変わった。
俺が触ったから……か?
俺にも力があるんだろうか? 人の怒りを和らげるような力が……。
妻がしみじみと言った。
「あんな大金がいきなり入ってきたのがいけなかったのよ……。父さんみたいに臆病で、身の丈に合わない夢なんか持たないで、安全に地道に事なかれ主義で生きていけばこんなことにならなかったのに……。そうしていれば暮らしていけるお金を、ちゃんと残してくれたのにね……。でも、そんな父さんにずっとイライラしてたから、こんなバカな話に飛びついたんだと思う。もっと違った生き方をしたいんだって……。でも、あたしも父さんと一緒。何の取り柄もない、どこにでもいる普通のオバサン……。そんな人間が、欲なんか出しちゃいけないんだよね。できることだけをコツコツ続けて、目立たないように生きてくしかないんだよね。きっと、それが幸せなんだよね……。やっと分かった。父さんは父さんで、私たちのために精一杯生きていたんだって。きっと、バチが当たったんだよね……」
息子も神妙な口調で応えた。
「父さんに叱られたのかな……」
違う。俺はそんなことはしない。どんなにおまえたちに笑われていようと、蔑まれていようと、家族だ。お前たちが不幸になって喜ぶようなことはしない。
最初は、互いに世間体を満たすためだけの見合い結婚だった。それでも嫁は、こんな俺にも我慢して付いてきてくれた。単に世間体や親の目を気にして、離婚したくないからだったのかもしれない。だが、息子もできた。二人の血を受け継いだ命だ。二人の命から生まれた、新しい命だ。俺たちと一緒に、すくすくと育ってくれた。特別に成績が良いわけではないし、目立った才能があるわけでもない。三人が三人とも、普通の人間だ。どこにでもいる、ありふれた人間だ。
だけど、家族だった。
それが、家族だ。
お前たちの不幸を望むことなど、俺は決してしない。
お前たちを不幸にするものなど、許せない。
誰だ? 誰なんだ? 俺が残した金を奪っていった奴らは⁉
許さないぞ!
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