第2章・取扱品目
1・営業方針
とはいうものの、何ができるかも分からないうちに三日が過ぎた。幽霊たちの会話はとりとめがなく、純夏の意欲を削ぐばかりだ。
だらだらフワフワと純夏の後ろについてまわり、ごちゃごちゃとうるさい。アルバイトの神社ではもちろん、自宅での食事の時も、部屋でのくつろぎの時も、片時も側を離れない。純夏の自宅は2DKのマンションだから、母親との二人暮らしなら狭くはない。しかし大人三人が加われば、視覚的には異常に窮屈になる。幽霊が見えない母親の和子は、その窮屈さを全く感じていないのだが……。
幽霊たちは一瞬で別の場所に移動できるのかと思えばそうではなく、歩く速度で道順通りにしか動けないという。筋肉もないので疲れはしないが、歩けば時間がかかるのだ。だから彼らの移動は、おおむね狭い軽自動車にぎゅうぎゅう詰めになった。
治に至っては、純夏のベッドに潜り込もうとしたことすらある。幸い直恵が気づいて引き戻したが、純夏は生きた心地がしなかった。
純夏は恐れていた。
相手は幽霊だ。壁をすり抜けてどこにでも侵入できる。その気になれば、純夏の身体の中に入り込むことも不可能ではない。そうされたところで害を与える霊力があるとも思えないが、不愉快であることに違いはない。まだ生身の男に触れさせたこともないのに、幽霊に身体を与えるのはご免だ。それも、鼻垂れのガキに……。
今も三人の幽霊は、ぼそぼそと言い合いを続けている。一応純夏に気を使って声を落としているようだが、聞き取りにくいつぶやきがかえって神経に触る。すでに深夜十二時を過ぎているのに、眠ることもできなかった。
純夏は、頭をかきむしって叫びたかった。だが、夜中に大声を出して母親に心配をかけるわけにはいかない。幽霊のことは、まだ話せずにいるのだ。
苛立ちをぐっと呑み込んで、うめいた。
「だからさ、あんたたち、あの会社をどうしたいわけ? それが分からなけりゃ、わたしだって手伝いようがないじゃない。順番に言ってみなさいよ!」
直恵は純夏に食いつきそうな勢いで叫んだ。
「そんなこと決まってるじゃない! 社長にあたしと同じ思いをさせてやるのよ!」
純夏はその大声に顔をしかめ、視線をそらせる。
「だからそれって、なに? 殺したいの?」
「殺したって気がすまないわよ。あたしは幽霊にされたのよ! まだ結婚もしていなかったのに!」
治が、ぽつりと言った。
「勝手に事故ったんじゃないか……」
直恵は一瞬、厳しい視線を治に向けた。だが、言葉はすぐに和らぐ。
「だからそれはお姉さんのせいじゃなくて、あの社長が――」
治は直恵と目を合わせようとはしない。
「結婚たって、相手もいなかっったんでしょう……?」
気の弱い治も、最近は何かが吹っ切れたように自分気持ちを素直に出せるようになっている。
直恵は、口調まで厳しく変えた。
「だから――!」
健司が割って入る。
「だが、殺したくたって方法がない。殴っても、脅しても、向こうは気づかない。鈍感すぎるんだ。せめて、姿さえ見せられれば……」
純夏は慰めるように言った。
「できないことをくよくよ悩んでも仕方ないわ。できる範囲で方法を考えるしかない。だから、目的をハッキリさせてよね。そうじゃなければ計画の立てようがないし。で、あなたは社長をどうしたいの? 脅かせれば、それでいいの?」
健司は口ごもり、返事が聞こえない。
直恵があざ笑う。
「なにさ、人の言うことに文句ばかりつけて。自分がどうしたいのかも分からないくせに。あなたは、生きてた時からそう。自分じゃなにも考えられないし、考えようともしない。あのクソ社長に操縦されたロボットみたいに、あっちにうろうろ、こっちにうろうろ――しかも、出来損ないだったし」
健司は怒りもしない。
「死んでから、思い知ったよ。確かに出来損ないだったらしい。だけど、俺なりに一生懸命働いていたんだ。そんなに責められることか?」
治が、びくっとしたように健司を見つめる。その目が、直恵に向かう。
「僕の父さんも、出来損ないだよね……」
直恵は勢いでまくしたてた。
「そうそう、営業から飛ばされたんだもんね。業績悪かったくせに、あの手この手でそれを隠そうとしたらしいわ。そんなところだけ知恵が回って――」
治はうなずいたが、直恵の言葉を聞いているわけではなかった。
「僕も、死んでから知ったんだ。父さんは、自分に能力がないことが分かっていた。それを少しでも隠さなくちゃ、家族を養っていけないことも知っていた。努力しなかったわけじゃない。会社からの要求に追い付けなかっただけだ。でも、一度辞めたら、他の会社で出直しだ。そんなこと、能力に自信がある人間にしか出来やしない。だから、僕を一人前にしたくて……一人前になれるまで、会社から離れられなかったんだ……」
純夏が驚いたように治を見つめた。そこまで家族を思いやっていたことに、気づいていなかったのだ。
「で、君は社長をどうしたいの?」
「べつに、殺さなくたっていい。でも、あの会社には、もっと良くなってほしい。まだ父さんが勤めているんだし……」
「具体的には、何か考えてる?」
「父さんみたいな男だって、何か自信を持ってやれる仕事があるはずなんだ。それを見つけられる会社になって欲しい」
健司が言った。
「絵空事だな。仕事は厳しい。会社はそんなに甘くない」
直恵がククッと笑いを漏らす。
「それ、クソ社長の口癖じゃない。まだそんなもの引きずってるの? それこそ絵空事。あいつ、真剣に働いてなんかいやしない。親が作った財産を食いつぶし、社員の努力に寄生してただけ。会社の金で遊び回ってたのよ。偉そうなことを言ってたけど、全部『プレジデント』の見出しの受け売り。口先だけ。あんたも、口先だけ」
健司は下を向いた。
「俺だって、自信を持ちたかった……。胸を張って、堂々と仕事をしたかった。いつも、仕事をしているふりばかりで、不安しかなかったんだ……」
「じゃあまず、クソ社長の猿真似をやめることね」
純夏もうなずく。
「それはいえる。自信を持ちたいなら、自分になることから初めなくちゃ。あなたは社長じゃない。あなたはあなたなんだから」
だが、健司の声は浮かない。
「俺はもう、俺でさえない。能力がない幽霊に過ぎない。今さら、俺自身になれって言われてもな……」
不意に、直恵も寂しそうにうなずく。
「死んじゃったんだもんね……確かに、今さらよね……」
純夏は言った。
「わたし、幽霊のことに特別詳しいわけじゃないけど……でも、生まれ変わりは信じている。前にも言ったけど、この世に未練を残したままぼんやりと漂っていたんじゃ、記憶を失って生まれ変わることもできなくなる。それって昔、霊感が強かった駄菓子屋のおばあちゃんに聞いたんだ。説明も証明もできないけど、わたしは信じてる。同じように、感じる。でも、生きていた時にできなかったことをやり遂げて魂が成長すれば、今度はきっと幸せな人間に生まれ変われると思うの。だから、幽霊になったって努力する意味はあると思うわ」
半分は本心だった。残りの半分は、当然、打算だ。
幽霊たちには、一刻も早く消えて欲しい。何がなんでも成仏させて、完璧に消し去りたい。
治が自問する。
「僕、あいつをどうしたいんだろう……。一族そろって消えてしまえばいいのに、と思ったことはあったけど……」
直恵が改めて言った。
「あたしは殺したい。脅かすだけなんて、生温い。あんただって働かされ過ぎて死んだんでしょう? 目にもの見せてやれば?」
しかし健司の声に勢いはない。
「そうはいっても、あれは事故のようなものだったし……」
「はっきりしないオヤジね! 過労死が事故のはずがないでしょう⁉ あれは、人権無視のれっきとした殺人なの。しかも時代が求人難に変わったっていうのに、経営陣はいまだに脳内が切り替わらない。有能な人材から逃げていくし、入ってくるのはどこも見向きもしないカスばっかり。だから余計に古参には無理がかかるし、給料も上げられない」
「俺は命令を拒否しなかったし……」
「口答えする人間はクビにしてるんだから、当然でしょう? あたしはあなたの気持ちが知りたいのよ。社長、殺してもいいの?」
健司はしばらく考えてから答えた。
「殺すのはかまわない。ただ、会社が倒れるのは喜べない」
「は?」
「鴻島印刷は、会長に実権があった頃は働きやすい会社だった。だが今じゃ、子供たちが牛耳るブラックまがいの企業になり下がった。しかも、ワンマン社長の浅知恵で全てが振り回される。社長が死ねば、あとを継ぐのは金の亡者の専務か印刷のことは何も知らない社長の娘夫婦だ。次男の常務が輪をかけてアレだからな。どっちも社長以上に能力がないことは、俺にさえ分かる。となれば、鴻島印刷は業績が悪化して――」
直恵が呆れ果てたようなため息を漏らした。
「だからなんなの? 会社が潰れようが何しようが、もう関係ないじゃない。あんたの奥さんだって、もらうもんは全部もらったんでしょう?」
「そんなことじゃない……ただ、鴻島は俺のすべてだったから……。君だってそうだろう? 高校出てからずっと、鴻島で働いていたじゃないか。愛着はないのか? 同僚たちの将来を台無しにしてもいいのか?」
直恵も一瞬口ごもった。
「そりゃまあ、気にはなるけどさ……」
不意に激しい眠気におそわれた純夏は、議論を終えさせたくて言った。
「つまり、今はまだ目的が決まらない、ってことね。それならそれで仕方ない。でも、このまま何もしないわけにもいかないし。ねえ、あなたたち、明日から情報収集に出かけて」
治が首を傾げる。
「情報?」
「社長にどうやって復讐するにせよ、情報は必要でしょう? 特にあなたたちは力が弱くて、ただ呪えば願いが叶うってわけじゃない。会社内部の秘密や一族の内紛とか、会社と銀行との関係を調べ出して、なんとか利用する方法を考えるのよ。あなた方にできるのは、どこでも忍び込めるってことだけなんだから」
ゴシップ好きのお局らしく、直恵が飛びつく。
「それ、面白そう! やるやる!」
健司がつぶやく。
「でも――」
純夏は、健司の意見を聞くつもりはなかった。
「じゃあ、今から出かけて! 最初は手分けして、社長、常務、専務の家に入り込むのよ。家族関係や一人一人の弱みをじっくり探し出すの。会社の始業時間になったら、幹部にくっついて行って、取引先の情報も集めること。それが終わったら、他の親戚も残らず調べて!」
直恵が含み笑いを漏らす。
「社長の妾も調べるわ」
純夏がうなずく。そして、膝の上のミケをなでる。
「それでいいわね、ミケちゃん。みんな、仕事に行くんですからね。引き止めたりしないでよ」
健司がつぶやく。
「こんな時間に、会社まで歩いていくのか……?」
純夏は苛立たしげに言った。
「当たり前でしょう! それが嫌だったら、タクシーにでも便乗しなさいよ! じゃあ、ただちに作戦開始!」
三人の幽霊は、純夏の命令に弾かれたように部屋を出ていった。
純夏はベッドにひっくり返り、つぶやいた。
「やっと一人になれる……」
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