3・高山 治(たかやま おさむ)

 自殺なんて、弱い人間がすることだ。

 だから、僕は弱い。

 社長の孫と付き合うぐらい、どうして我慢できなかったんだろう。今さらながら思う。なにも死ぬことはなかったのに……。

 だが、直恵のババアにしがみつかれるだけで、今でも吐き気がする。社長のクソ孫に抱きつかれた時は、あんなもんじゃなかった。あの不愉快さを思い出すと、死んで正解だったと胸を撫で下ろしたくなる。

 なにしろあのクソ孫、バアア以上のデブで、社長そっくりのブサイクなんだから。なにも、人間を見た目だけで判断したいわけじゃない。僕だって、できるだけの我慢はした。我慢して、あのデブのいいところを少しでも認めてやろうと努力した。

 いいところ? そんなもの、結局一つもありゃしなかった。

 地方の中小企業とはいえ、地元では大手の印刷会社の社長の孫だ。金はあるし、いいだけ甘やかされている。自分は特別の人種だと、物心付いた時から教え込まれてきたんだろう。たかが社長の孫だというだけで一生わがままを通していけるなら、それでもいいだろうさ。

 だが、並みの知能を備えた女なら、中学生にもなってまでそんなおとぎ話を信じられやしない。嫌でも世の中の決まりが目に入ってくるし、現実の厳しさに気づく。父親の会社なんて、いつ潰れてもおかしくない中小企業なんだ、ってね。なのにあいつは、自分は〝お姫さま〟だと信じ込んでいた。つまり知能も、はるかに標準を下回っていたわけだ。

 そんなガキに目を付けられたのは、不運でしかない。

 僕は、会社の家族レクリエーションなんかに参加したくはなかったんだ。費用は全て会社持ちだからって、つぶれかけた遊園地を貸し切りにすることが、そんなにありがたいか? しかも両親が、会う上司みんなにぺこぺこ頭を下げるのを見せつけられて。僕は勉強好きでもガリ勉でもないが、間近に迫った受験の準備をしていた方がましだった。

 滅多に話もしたことがない父親が、どうしても一緒に来て欲しいというから貴重な休日を割いただけだ。

 行ってみて驚いた。ほとんどの社員が来ていない。総勢三百人程度の企業だから、遊園地が溢れるほどにはならないことは最初から分かっていた。だが、予想以上の醜態だった。家族で参加したのは数えるほどだ。

 今時の若い社員は、会社主導のイベントを避けるという。社員旅行も不参加、飲み会もパス。僕もそれが当然だと思う。会社に全人生を捧げるなんて、バカバカしくて。

 会社側もそんな傾向に勘づいていて、少しでも賑やかにするために父親に『必ず子供を連れてこい』と命令したようだ。

 会社の命令には絶対に逆らわない優良社員。それが僕の父親だからだ。そうまでして体裁を繕うぐらいなら、こんなイベント企画しなければいいのに。だが、企業は家族、全社員が運命共同体だという大時代な幻想に冒された経営陣は、時の流れに順応することができない。経営トップ全てが親戚という同族会社だから『外の世界』が見えないのも当然だが。

 社長の弟――つまり次男の常務が、またとんでもない逸話を持っていることを幽霊になってから教えてもらった。とてつもなく頭が悪い上に常識がないらしい。なんでも、大口の客に年始まわりに行く前にギョーザを食って、オマケでもらったガムをくちゃくちゃ噛みながら頭を下げてきたそうだ。そんな不作法は、中学生の僕だってできやしない――あ、僕、無事に受験を済ませていれば今頃は高校生だったはずだけど。

 当然のことながら、嫁が子どもを連れて逃げていったそうだ。原因は、そいつがキャバ嬢と立て続けに浮気をしたこと。会社の金に手を付けて、大金を貢いだんだとさ。当然、元嫁に訴えられている。慰謝料と養育費がたんまり取れるなら、鴻島の名前なんか捨ててもいい程度のもんだってことだね。

 鴻島一族の遺伝子は、二代目にしてすでに大幅に劣化していることが証明されている。

 僕の父親は、そんな井の中の蛙たちの、さらにそいつらがひり出した糞――ってところだ。その子供の僕は、糞に湧いたバイ菌、か?

 そこに、ブサイクなガキが来ていた。中学二年生の、社長の孫。社長の子どもは娘が一人だけで、表向きは鴻島印刷に関わっていない。だが、娘の亭主がやってるリサーチ会社は鴻島のお抱えのようなもので、業績をはるかに超える金額が流れていると大垣のババアが言っていた。ババア、経理だけあって鴻島印刷の裏事情には異様に詳しい。

 ま、社長の娘の遺伝子がさらに劣化しているなら、孫にも法則が当てはまる。社員レクリエーションに遊園地を選んだのは、実はその孫だったという噂も聞いた。じいちゃんが孫の機嫌を取るために、遊園地を貸し切ったわけだ。むろん、会社の予算を使って。

 実際、ガキは我が物顔ではしゃいでいた。無能な社長と無能な娘、この二人にそこまでちやほやされて育った孫に常識が備わるはずもない。

 で、僕が目を付けられた。父親が社長に呼びつけられ、その直後、家族三人で乗ろうとしていた観覧車にガキが割り込んできた。それ以後ずっと、僕にくっついて離れない。リボンを結んだシーズー犬のように付きまとい、ぎゃんぎゃん吠えっぱなしだった。ブサイクな顔で心底楽しそうに笑い続けるのが無気味だった。これがシーズーなら、思い切り蹴飛ばしてやるところだ。

 だが、父親は社長から指示されていた。

『うちの孫が君の息子さんとお付き合いしたがっている。よろしく』

 父親は後で、別に命令されたわけじゃないと言い訳した。それならガキと付き合わなくていいのかと問い質せば、それは困ると答える。母親まで、我慢して言うことを聞きなさいと懇願してくる始末だ。

 たかが中小印刷会社、社長の機嫌を損ねるのがそんなに恐いか? たとえクビになったって、生きてく方法はいくらでもあるだろうが。工場の片隅で印刷物を梱包しているだけの父親だから、クビを恐れるのも分からなくはないが。元は営業だったものを、業績が上がらずに工場に飛ばされたことぐらい、子供だって勘づいている。

 でも、男だろう? 能力がないならないなりに、踏んばって見せてくれよ。息子の気持ちを売り渡すようなことまでして、会社にしがみつくなよ……。

 ちなみにガキは、僕の顔が気に入ったそうだ。

 僕の両親の容姿は、十人並みだと思う。顔もスタイルも、良くもなく悪くもなく、だ。鏡を見て、なんで僕はこんな顔に生まれ付いたんだろうと不思議に思うことさえある。両親のどちらにも似ているのに、妙に整っている。自慢したいわけじゃないが、きっと二人のいいところだけを集めて生まれたんだろう。

 小学生までは、この顔がとても嬉しかった。母親も、僕を宝物のように大事にしてくれた。中学になっても、バレンタインのチョコは鞄から溢れた。父親が、そんなことでいい気になるなよとつぶやくのを、うっとうしく聞いていただけだ。

 だが結局、父親が言った通り、この顔が不幸をもたらす結果になったわけだ。しかもこの不幸を父親が倍増させたとなると、自分はずっと憎まれていたんじゃないかと疑いたくさえなる。

 まあ、父親はそんな男だったんだと諦めるしかない。

 家出をする度胸もなかった自分を、諦めたように。

 思いきって飛び出してしまえば、自分一人の人生を生きられたかもしれないのに……。きっと僕にも、父親の弱さが遺伝しているんだろう。

 遊園地で出会った後、僕は毎週ガキに呼び出された。常々、お父さんみたいにならないように頑張って勉強しなさいと言っていた母親まで、我慢しろとつぶやいた。

 二人で会うたびに、ガキは人混みを選んで僕を連れまわした。僕の腕にしがみつき、必ず自分の友達にも会わせようとした。イケメンのカレシをを自慢したかったのだ。

 僕は、アクセサリーか⁉

 何度も会った後、意を決して『もう言うことは聞きたくない』と、父親に懇願した。母親なら助けてくれるかもしれないと、泣きついた。二人は、僕に頭を下げた。父親は僕の前に土下座して、ぼろぼろと涙をこぼした。

 家のローンがある。今、クビにはなれない。

 その夜、僕は冬休みの学校に忍び込んで、屋上から飛び下りた。

 その瞬間、ふと思った。ああ、これでもう受験勉強もしなくていいんだ……って。結局、それが苦しかったのかもしれない。あのガキのことは、自分自身に対する言い訳だったのかも。きっと、両親の期待に応えるために勉強を続けることが辛かったんだよね……。

 それでも学校で死んだのは、心のどこかで両親に迷惑をかけたくないという気持ちが働いたんだろう。はたから見れば、学校での悩みが原因の自殺だと思うはずだから。それとも、両親だけを責め続けるために、あえて逆の方法を選んだのか。あんたたちには僕が死んだ本当の理由が分かるはずだ、って苦しめようと……。

 自分のことながら、はっきりとは分からない。自分のことだから、余計に分からないのかもしれない。

 でも、あのガキが嫌だったことは間違いない。社長やあのガキは、自分達が〝人殺し〟だと気付いてはいない。

 それが悔しい。

 たかが会社の社長が、部下の人生をそこまで私物化することが許されるのか? 部下を幸福にする責任は感じないのか? それができないなら、事業など続ける資格はない。

 僕は、復讐したかった。だからきっと、幽霊になったんだ。

 純夏さんもそう言っていた。

 そう……僕は幽霊になって、やっと両親から解放されたような気がする。純夏さんに出会って、普通の人間になれたような気がする。幽霊を〝普通の人間〟と呼ぶには、ものすごい抵抗を感じるけれど。

 だけど、これが運命だったのかもしれない。

 もしかしたら僕は、純夏さんに合うために自殺したのかもしれない。

 でも、なぜ社長に恨みを持つ者ばかりが純夏さんのまわりに集まったのか……? 純夏さんは強い霊感を持っているのに、どうして他の幽霊が群がってこないのか? 死んでから半年近くも経って、なぜ僕はいきなりこの世に現れたのか?

 いまだに解けない疑問ばかりだ。

 でも今は、幸せだ。純夏さんのそばにいられるから。直恵のババアが邪魔だけど、あんなの、無視すればいいんだし。

 純夏さんさえいれば……。

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