2・大垣直恵(おおがき なおえ)

 そりゃあ、あたしは幽霊よ。

 自分でも身体が透けて見えるし、着ているものなんか棺桶に入った時の薄っぺらい着物が一枚だけだし。別にシャネルのスーツが着たいってわけじゃないけど、シャネルなんて生きてた時だって買えなかったし、せめてナイキのジャージの方が嬉しかったな。あれなら、身体の線も隠せるしね……。

 まあ、着ているものがあるだけラッキーだけど。小娘の話じゃ、裸でうろうろしている幽霊も多いらしいし。幽霊だからって、この年で素っ裸じゃ、むちゃくちゃ侘びしいものね。

 裸の幽霊は、すごく霊力が弱い連中らしいわね。小娘の話だから、もちろん信用できないけど。だって、雨宮のオヤジだって一応はスーツを着ているのよ。ヨレヨレの安物だけど。生きていた時から死んでるみたいな能無しだったのに、不公平よね。ただ、毎日欠かさず通勤していただけのお荷物社員。会社で一番のグズだったんだから、幽霊になってからも霊力なんてないはずじゃなくて? それともあのオヤジ、死んでから別の能力が芽生えたんだろうか……? でも、治ちゃんだって学生服着てるし、あたしばっかり……。

 でも、幽霊だからって、なんであんな小娘の言いなりにならなきゃいけないの? 人生経験なら、負けないのよ。恋だって、たくさんしてきたんだから。

 まあ、うまく行ったことはなかったけど……。

 だけど、あたしにだって若い頃はあったのよ。肌のつやだって、あんな小娘よりずっと良かったし。体重は、少しは多かったかもしれないけどさ。

 だいたい、おかしいわよ。なんで、あの小娘にしかあたしの姿が見えないわけ? 巫女さんって言ったって、ただのバイトでしょう? なのに、どうして特別なの?

 小耳に挟んだ話じゃ、この神社、ハローワークに巫女さんの求人出してたって言うわよ。霊感があろうがなかろうが、関係なしじゃない。巫女さんの衣装を着せて一番かわいい娘を選んだって言うのも、本当らしいし。

 仕事って、もっと真剣にするもんじゃなくて? バイトだからって、可愛きゃいいってもんじゃないでしょう? そのくせ、神主の息子まででれでれしちゃって……。このところの高校生なんて、ガキのくせして男を手なずけることだけは早いんだから……。

 そりゃあ、あの娘には助けられているわよ。自分が幽霊だって気付いても、どうしていい分からなかったし、仲間がいるってことさえ知らなかったし。可愛い治ちゃんに会えたのも、あの娘のおかげよ。

 あの娘が苦労してるっていうのも分かってるし。何たって、小さい頃に父親が死んで母子家庭だからね。でもお母さんの和子さん、そんなにお金に不自由してないのが不思議よね。別れたんだったら、子どもの養育費とか貰えるかもしれないけど。誰かパトロンがいるのかしら。ん? 斉藤和子? どっかで聞いたことがある名前よね……ま、いいか。ありふれた名前だし。そんな芸能人とかがいたのかもね。

 それはそうと、だからってあの娘が言うことが全部本当だとは限らないのよね。

 この世に未練があるから幽霊になる、ですって? 確かに、恨みはあるわよ。鴻島の助平社長のおかげで、死んじゃったんだから。復讐しなければ死にきれないわよ。そんなことは当たり前だけど、だからって、どうして鴻島を恨んでる三人だけが小娘のまわりに集まったの? なんで、他の恨みを持つ幽霊は来ないの? 都合が良過ぎて納得できないのよね。

 それにしても、腹が立つ。助平じじいのことを思い出すと、頭をかきむしりたくなるわ。社長だからって、社員に何を言ってもいいわけ? 自分が会社を作ったわけでもないのに。たかが二代目じゃない。偉いのは、あんたのオヤジさん。会長は身体を壊して入院したっきりだけど、あんたはその息子に生まれただけの、ぼんくら。優秀な社員はみんな、あんたが社長になってから、会社を見限って逃げていくし。なのに、あの言い種? あんなひどいことを言われたの、生まれて初めてよ。失礼だったらありゃしない……。

 あれ?

 あれ……?

 あたし、社長に何を言われたんだっけ……。

 やだ! 小娘の言ったこと、本当なの⁉ ずっと幽霊のままでいると、だんだん記憶が薄れていくって……。未練が残ったまま記憶を失うと……生まれ変わることもできないって言ってたわよね⁉

 やだよ、そんなの! 

 まだ結婚だってしてないのに! 生まれ変わって幸せになることもできないなんて! いやよ!

 思い出さなきゃ……思い出すのよ……社長に言われたこと……されたこと……忘れるはずなんてないんだから……。

 あ、そうだ。

『死んじゃえ』って言われたんだ。

 ほら、思い出せるんじゃない。あたしったら、なにを慌ててるんだろう。バカみたい。

 でも、なんで死んじゃえ、なんて……?

 そうだ、幹部の忘年会の時だ。銀行のお偉方も顔を出してて、若い娘にばっかりお酌をさせて。経理部長なんて、自分の兄さんが銀行の偉いさんなもんだから、ふんぞり返っちゃってさ……。

 そりゃあ、あたしはもう若いとは言えないわよ。少し太ってもいるわよ。でも、仕事はちゃんとしてるでしょう? 世間知らずの新入社員だって、厳しく鍛えてきたじゃない。会社の財産をきっちり守ってきたのよ。

 なのに男どもときたら、入社したばかりのガキばかり甘やかして、若いからってちやほやして、酒が入るとすぐにべたべた触ろうとしたり……。

 そうだ! あのガキがいけないんだ!

 なにが、『やめてください』よ。融資担当のオヤジに尻を撫でられたぐらいで、一人前に騒ぐんじゃないわよ。そんなもの、減りゃあしないでしょうが。セクハラ、セクハラって、バカの一つ覚えみたいに、偉そうに。

 あのガキが銀行さんをひっぱたいて出てったもんだから、座が静まり返って。社長が大慌てで土下座して。だから、あたしが後を取り繕うとして……。

 そうだ、お酌に行ったんだ。だって、ベテランなんだから。ガキどもの見本にならなきゃいけないんだから。会社のためなら、身を投げ出したって……。何をされても我慢する覚悟で、ラブホにだって行ってもいいって思って……。

 そしたら銀行のオヤジ、君はまだ結婚してなかったのかって、嫌そうな顔をして。あたしのおなかを見て、出産が近いんじゃもうすぐ寿退社かって大笑いして……。

 バカやろう。妊娠に見えるほどデブってるって言うのかよ!

 ガキに殴られたのが恥ずかしくて、あたしをダシにしてとぼけようとしたんだわ、あのハゲ。それでもこらえてお酌をしようとしたら、クソ社長まで……。

 おお、そうか。妊娠か、寿退社か。よかった、よかった――だと?

 相手が銀行だからって、へらへら調子を合わせてるんじゃねえよ! 妊娠なんかしてないこと、知ってるくせに!

 それでも、嫌な顔は見せなかったはずよ。作り笑いで、お酒を注いで。我慢するのがあたしの仕事だと思ったから。

 でも、社長が笑いながらあたしの腕を引っ張って。妊婦は酌をしないでいいから、さっきの娘を連れ戻して来い、って……。だから出てったガキを探しに行ったけど、とっくに店から消えてて、携帯も切られてて……。

 戻って報告したら、君はそんな簡単な仕事も出来ないのか、新入社員に何を教育しているんだって怒鳴られて。だから泣きながら、あたしなら何でもします。身体だって捨てられますって言ったら、誰がお前のふやけた身体なんかって。先方が気にしているのはあの娘だ、売れ残りの年増じゃないって。

 それでもきっと、我慢していたはず。怒ったりしなかったと思う。

 でも、社長。そんな役立たずはいらない。やめちまえ。消えちまえ。死んじまえ、って……。

 そりゃあ、銀行の機嫌を損ねるのが恐いことぐらい分かっているわよ。会社の業績だって、ネットに押されてしぼむ一方だし。だけど世の中には頑張ってる印刷会社だってたくさんある。あんたのアタマが足りないから融資が細るんじゃない? 先代の作った会社を食いつぶすだけのバカ息子だって、見抜かれているからよ。辺り構わず怒鳴ってりゃあ社員が働くとでも思ってるわけ?

 それを、新入社員をダシに機嫌を取ろうだなんて。女を抱かせるなら、商売のお姉ちゃんを連れてくりゃいいのよ。甘ったれるのもいい加減にしやがれって。

 だいたい、二重帳簿を管理してるのは誰だと思ってんの? あたしがうまく操作してるから、あんたがお姉ちゃんたちにばらまく金が出てくるんじゃない。あたしがちょっと気を許せば、背任だぞ、背任! 形ばかりとはいえ株式会社なんだから、刑務所行きなんだぞ! 自分一人で会社を切り盛りしてるような気になるんじゃないぞ! てめえなんか、いない方が業績は伸びるんだからな!

 悔しくて、悲しくて、店から飛び出して……。

 かっとして、周りを見回す余裕なんかなかったもんね。まさか、あんな町中を突っ走ってる車があるとも思わなかったし。

 はねられたのよね。なんだか、他人事みたいに感じてたけど。全然痛くもなかったし。

 急に空に飛ばされて、ネオン街の風景がぐるぐる回って、落っこちたら、ふわって気持ちよくなって……。あ、死んじゃうのかな……って。

 別に、幽霊なんかにならなくてもよかったのに。悔しい思いはしたけれど、死んじゃったならそれでおしまいよ。復讐なんかしなくても、普通に生まれ変われればそれでいいのに。

 どうして?

 なんであたし、鴻島に復讐しなくちゃならないんだろう……? そんなこと、誰が決めたの? それに、あたしが死んだのは忘年会の時。何ヶ月も前。その頃は幽霊が珍しかったから、あっちこっち走り回ってあれこれ情報を集めて……あれ? あたし、あの時、どんなことしてたんだっけ……? やだ……覚えてないし。なのに、今はもう五月よ。その間のことが全然思い出せないって、なんで……?

 どうして急に、こんなに意識がハッキリしたんだろう……。

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