幽霊会社《ゴースト・カンパニー》

岡 辰郎

第1章・社員名簿

1・社内会議

 神社の駐車場に停めた軽自動車の助手席で、斉藤純夏は結論を下した。

「だから、幽霊の正体って、電磁波だと思うんです」

 その目には、ついに自然の神秘を解き明かした充実感がキラキラと輝いている。この発見が、重荷を下ろすきっかけになるかもしれないと期待もしていた。

 札幌の春は遅い。それでも今日は、車内に明るい日差しが差し込んで暑いほどだった。ただでさえ瑞々しい十八歳の頬が汗ばみ、興奮で紅潮している。

 だが、彼女の意見にうなずく者は一人もいない。純夏の膝で丸くなった三毛猫が、あくびを漏らしただけだ。

 最初に反論を口にしたのは、経理課のお局、大垣直恵だ。後部座席から、顔を斜めに向けて細めた目で純夏をにらみ、粘り着くような声を絞り出す。

「犬が電磁波で気配を感じるからって、強引すぎない? 人生経験が少ないあんたが簡単にだまされるのは仕方ないけどさ」

 かつての直恵なら、さらに一言付け加えていたはずだ。『若けりゃ何を言っても許されると思うんじゃないわよ』と。

 むろん、相手を傷つける気持ちなど微塵もない。三十歳を過ぎてから身についた習慣――単に、若い同性に対する〝ごあいさつ〟なのだ。それがパワハラに相当するなどという認識は、頭の片隅にもなかった。

 だが今の直恵は、考えなしの言葉を抑える術を学んでいる。それは直恵を襲った悲劇が彼女に与えた、最大の収穫だった。

 三十二歳になるまでそれに気付かなかったことが、悲劇の根源ではあったのだが……。

 一方の純夏は、振り返りもしない。直恵の声から発散される苛立ちにも無頓着だ。純夏は高校を卒業したばかりだが、納得できる就職先を見付けらずに神社でのアルバイトを始めた。気持ちの上では、まだ高校生そのものだ。

 今時の高校生は、オバサンたちが叩き付けてくる非難の視線を跳ね返すバリアーを標準装備している。バス停で地べたに座り込もうが、バスの中でスマホにしゃべり続けようが、降りる寸前まで化粧を続けようが、このバリアーは破られない。

 しかも純夏は、常に男子生徒に後を追いかけまわされる『美少女』だ。オバサンに遠慮する理由など一つもない。選考基準が容姿だけのアルバイトに採用されたことが、その美しさを客観的に証明している。むろん、自分の若さとスタイル、そして整ったルックスが直恵の苛立ちの原因であることにもおかまいなし。無視しているのではなく、気付かないのだ。臆することなく、自分が信じる理論を主張する。

 純夏は、テレビのバラエティー番組で得た情報から、〝幽霊の正体〟を推測したのだ。そこでは、犬が主人の気配を感じるメカニズムを解説していた。

「だって、人間は歩くだけで電磁波を出しているんですよ。しかもそれって、指紋みたいに一人一人違っていて、犬には誰が近づいてきたのか、見えなくても分かるって……」

 直恵の目が、ぷっくりと丸い顔の中で一段と細くなる。

「だからそれは、犬のことでしょう」

「人間だって、電磁波を感じられるんですってば。番組で実験してたって言ったじゃないですか。弱い電磁波を浴びた人が、寒気とか何かの気配を感じたんです」

 直恵は取り合わない。

「どこの局? そんなの、ヤラセに決まってる」

「そんなことないですよ、わたしだって、そういうの、すごく感じるし」

「あたしは感じたことなかったわよ」

「霊感って、個人差が大きいから」

「鈍感だって言う気?」

「はい?」

 噛み合ない二人の間に、少年が割って入る。

「電磁波って言ったって……」

 十五歳になったばかりの高山治だ。純夏の後ろで、直恵に押されて窮屈そうに縮こまっている。なぜか最近は、そこが治の定位置になっていた。

 彼もまた、整った容姿の持ち主だった。しかも、ジャニーズ事務所のタレントに酷似している。普通の十五歳にとっては福音ともなるその現実が、彼には悲劇の要因だった。

 純夏が急に振り返り、治に微笑む。

「ねえ、治君、そう思わない?」

 無視された直恵が、さらにふくれる。ぶいっと小さく鼻を鳴らして、窓の外に目を向けた。

 治は不機嫌な直恵を気にしながらも、考えをまとめて反論する。

「電磁波って、それを発生させる元が必要なんじゃないんですか? 電線に電流が流れる……とか。なにもないところにいきなり電磁波は発生しないでしょう。幽霊にも、その発生源があるってことですか?」

 治は難関の高校を目標にハイレベルな勉強を続けてきた〝秀才〟だった。学校で習う程度の科学的知識は、完璧に身に付けている。とりわけ治は、物理や数学が好きだった。

 いったんは顔を背けた直恵が、治に顔を向けてしなだれかかる。

「そうそう!」

 治には分かっていた。

 直恵は、電磁波のなんたるかなど理解していない。知的レベルは、小学校高学年にも届いていない。ただ純夏を言い負かしたいだけだ。〝女〟を張り合うには絶望的なハンディがあることを感じてもいない。

 それとも、自分に話を合わせようとしているだけなのか……。

 このところ、直恵はやたらと治に同調する。しかもその時には、必ず腕にしがみつこうとする。母親ほどにも思えるオバサンに、ねっとりと脂ぎった感じがする腕や、ぶよぶよした胸を押し付けられるのはうんざりだった。〝男〟に対する媚びを隠そうともしない無神経さがよけいに腹立たしい。

 やはり直恵の腕がのびてきた。二の腕をつかまれた治は、内心でうんざりとしたため息を漏らした。だが、わずかに身体をずらすだけで、あからさまに嫌な顔をすることもできない。

 気が弱いのだ。でなければ、こんな場所で、こんなことはしていない。

 救いは、純夏だ。三歳年上の彼女は、理想の女そのものだった。わずかに乱れた髪や額の汗が治を興奮させる。目に前にある唇は、ふっくらとして柔らかそうだ。到底手が届かない〝大人〟に思える。それでも、その唇を見ているだけで目眩さえ感じる。たとえ手に入らなくても、いつまでも見つめていたい宝物――。

 純夏がいなければ、直恵の近くに留まる必要もないものを……。

 だが、それを口にしたことはない。態度に見せたこともない。

 気が弱いから――。

 治の目を真正面から見つめる純夏の笑顔は、はちきれんばかりだ。

「でもね、電磁波は人がいなくなった後でもその場所に残るんですって。ほら、誰もいない部屋に入ったのに気配を感じることって、ない? それって、前にいた人の電磁波が家具や何かに染み付いているせいだって」

 治は、同意したかった。純夏と手を握り合って、素直に『そうだよね!』と喜びたかった。なのに、口に出る言葉は気持ちと裏腹だ。

「でも、それじゃ幽霊は決まった場所にしか出られないじゃないですか。家具に染み付くて言っても、永遠に残っているわけじゃないし。もしそうだったら、どこもかしこも電磁波が溜まって幽霊だらけになっちゃうし」

 直恵が胸を押し付けてきた。

「そうそう! 治ちゃん、すごい!」

 治は顔を伏せた。のど元に込み上げる言葉を、いつものように飲み下す。その言葉は、引きつって歪んだ表情から読み取れた。

〝おえ。吐きそう……〟

 純夏は、視線を前に戻して座り直した。顔を曇らせて、治の意見を考えてみる。

「そうか……やっぱり電磁波っていう説明には無理があるのかな……」

 運転席でじっとしていた雨宮健司がぽつりとつぶやく。

「どうだっていいさ……」

 五十歳をとうに過ぎた健司の声には張りがなかった。高校を出て印刷会社に勤め始めた頃の輝きは、その後の数年で消え去っている。五年前に単身赴任で地方の支店を任された時には、全てに張りを失った〝ミイラのような男〟だった。もちろん、会社からは無能のレッテルを貼られていた。

 支店長に任命されたのは、いつ潰れてもおかしくない支店のトップを、有能な人材に務めさせておくわけにいかなかったからだ。大手クライアントの撤退に伴う支店消滅は、社内では既定路線だったのだ。支店は、〝業績改善不可能店舗〟として見捨てられていた。だが支店を潰せば、支店長が腹を切らなければならない。でなければ、銀行が会社を切り捨てるからだ。

 健司は、自分が捨て駒としてすげ替えられたことを知らない。むろん、社員が全員自分の無能を笑っていたことにも――いや、自分が無能だという事実にさえ気付いていなかった。

 その支店が細々と存続できたのは、単なる偶然でしかない。町が苦し紛れで始めたゆるキャラ事業が、『キモ過ぎ!』と全国的な評判になったおかげだ。大小様々な印刷物が増えたおかげで、健司は詰め腹を切らされずにすんできた。その僥倖すら悲劇の原因なってしまうことが、健司の宿命なのだ。

 健司は、ひたすら無能で運がない男だった。

 純夏の全身から熱気が消え去っていく。膝の三毛猫をなでながら、ふて腐れたように小声で語りかけた。

「私こそ、どうでもいいけど。ねぇ……ミケちゃん」

 健司に備わった唯一の才能は、〝他人の意欲を削ぐ〟ことだった。

 三毛猫が、あくびのついでに純夏の手を軽くかじる。その動きは緩慢で、くつろぎきっていた。

 健司がもう一度つぶやく。

「どうだっていい……」

 背後で、直恵がふんと鼻を鳴らす。

「なにさ、また自分だけが不幸だみたいな口をきいて。年ばかりとって、何の役にも立たないオヤジよね」

 健司は、挑発されても反応を示さない。

「どうでもいいんだ……」

 純夏は三毛猫につぶやき続ける。

「どうでもいいわよね……わたし、頼まれただけなんだから。助けてあげなきゃならない理由なんかないんだから」

 直恵は治の腕から離れて、健司の横に身を前にのり出した。

「どうでもいいなんて、本気? 悔しいって言ってたのは嘘? 復讐はどうするのよ⁉」

 健司はため息を漏らしただけだった。

 自分にのしかかるよう前に出た直恵から身を離し、治がつぶやく。

「悔しいよね……今だって……。でも、僕らに復讐なんてできるの……?」

 直恵は治にぐいと顔を近づけた。

「できるわ! 信じていれば、きっとできる! お姉さんとがんばろうね!」

 治は恐怖に目を丸くした。

 まさか〝お姉さん〟とは……。

 だが、車から逃げ出す勇気は、やはりない。窓の外に目を移すのが精一杯の抵抗だ。

 今度は、純夏がため息を漏らす。

「困るんですよね、そんな弱気じゃ。早く復讐を終わらせて、わたしの前から消えてほしいのに。一生付きまとうつもりなんですか」

 直恵が純夏に向かって吠える。

「あんたなんかにくっついていたくないわよ!」

「じゃあ、さっさと消えてください!」

「だから、手伝いなさいよ!」

「その前に、あなた方がしっかり協力してください!」

「そんなこと、この腑抜けオヤジに言ってよ!」

 またしても、泥沼の論争だった。

 と、治がぽつりと言った。

「純夏さんといたい……」

 一瞬、車内が静まり返った。治もその沈黙に気づく。

「あ……僕、なにか……あれ? しゃべっちゃいました? うそ……なんか、ぼんやりしていて……」

 直恵が治の腕を抱え込む。

「治ちゃん、バカなことを言わないで。こいつは別の世界の人間なのよ。あなたにはお姉さんがついているんだから――」

 治は直恵の腕を振り払った。

「やだよ、そんなの!」

「やだって……なんのこと……?」

 治は不意に泣き出した。

「やだよ……やだよ……」

 純夏はじっと治を見つめた。そして初めて感情を爆発させた。

「なんでわたしが付きまとわれるの⁉ 普通に生きたいのに! 恋だってしたいのに!」

 直恵が純夏を睨みつける。

「なにが恋よ! ふざけてるんじゃないわよ!」

「あなたこそ、さっさと消えてよ!」

 治が不思議そうにつぶやく。

「純夏さん、キレイなのに……恋したことないの?」

 純夏は反射的に叫んでいた。

「あんたらみたいのに付きまとわれるから、いつもうまくいかないんじゃないさ!」

 直恵も叫ぶ。

「小娘のことなんかどうでもいいわよ!」そして怒りが健司に向かう。「ほら、あんた。何とか言いなさいよ!」

 直恵はそう言ったものの、答えなど期待していなかった。答えが返ってきたことは、一度もないのだ。

 だが、異変が起こった。

「そうだよな……恋、か……。そんな頃もあったよな……」

 全員が言葉を失った。健司が注目を集める。

 顔をめぐらせた健司はいきなり微笑んだ。

「みんなでがんばろう。でなければ、いつまでたっても罵り合いが終わらないから」

 三人は、ぽっかりと口を開いたままだった。

 と、純夏の腕で電子音が鳴った。ハローキティの腕時計のアラームだ。純夏が、何も起こらなかったかのようにつぶやく。

「休憩時間、終わり……」

 そして、車を出た。

 駐車場には、すでに上司が現れていた。神主の息子だ。狐を思わせる風貌に衣装がぴったりと決まっているが、夜な夜なクラブ通いにうつつを抜かす放蕩者だ。

 二十五歳になったばかりの坂上陽介は、肩に担ぐようにしていた竹箒を純夏に向かって差し出す。

「車で居眠り、かい?」

 純夏は真っ赤な巫女の袴のしわをのばし、箒を受け取る。

「すみません、うとうとしてて」

 陽介は錆だらけの軽自動車をじっと眺めてから、おもしろそうに純夏の目をのぞき込んだ。

「話し声がしたようだけど。てっきり、誰かと喧嘩でもしているのかと思った」

 純夏は目を伏せ、恥ずかしそうに首を傾げる。

「寝言……かな」

 しかし内心では、本当のことを話したら陽介は何と答えるだろうかと考えていた。

 三人の幽霊を相手に言い争いをしていた、なんて……。

 霊が見えない鈍感な陽介に、信じられるはずはないのだ。自分も鈍感な人間の一人だったら、幽霊に付きまとわれることなどなかったのに……。

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