4・雨宮健司(あまみや けんじ)

 死んでみて初めて分かったことは多い。

 どこにでも忍び込め、何でも盗み聞きできるは愉快なことだと想像していた。とんでもない。他人が俺をどう思っているかなんて、聞くものじゃない。

 自分の間抜けさを思い知るだけだ。

 それでも、陰で笑っていた奴らを懲らしめられるなら、我慢もしよう。だが俺には、そんな能力もない。

 脅かそうにも、向こうにはこっちの姿が見えない。物をぶつけてやりたくても、俺の手がすり抜けてつかめない。安物のスーツを着ているだけで精一杯なんだ。念力で家具を動かすなど、もってのほかだ。

 全て、俺の霊力が劣っているからだ。斉藤君ははっきり言わないが、そう思っていることぐらいは分かる。

 人間に能力の違いがあることは嫌というほど経験している。だからといって、幽霊になってまで無能さを引き継がなくてもいいものを……。死んでも浮かばれないと言うのは、このことだ。

 霊力が強い幽霊なら、人間を呪い殺すことさえできるという。しかし、斉藤君のまわりに集まった幽霊は、私と同じ半端者ばかりだ。共通点は、鴻島印刷と社長を恨んでいるということだけ。

 恨んでいる?

 本当にそうなんだろうか? 斉藤君はそう信じて疑わない。だが俺には、それすらよく分からない。

 恨むと言うなら、妻に対して抱いた感情の方がそれに近かった。

 支店を任されると決まった時、妻は手放しで大喜びした。それを見て、単身赴任での五年間も、息子の大学入試の資金を稼ぐためだと割り切れた。そして、死に物狂いで働いた。

 まさか、本当に過労死するとは思わなかったが。

 最後の一か月は、冗談抜きに地獄だった。師走の年賀状印刷を集めるために、早朝から走り回り、徹夜で校正までした。支店長自らが、だ。町と組んで〝ゆるキャラ〟を育てて利益を上げてくる部下に、そんな半端な仕事は押し付けられないからな。それでもミスは発生し、刷り直しとお詫びにまた走り回った。大口のチラシとは違う、廃品回収レベルの業務だ。

 だが、業績は落ちないだけで、一向に上がって行かない。

 ある夜、いや、明け方前だ。いきなり目の前が真っ暗になった。目が覚めた時は、自分の死体を空中から見下ろしていた。

 一度だけ、妻に弱音を吐いたことがある。死の、一か月ほど前だ。

 自分の葬式が終わってから、息子と二人で俺の遺影に語りかける妻の声を聞いた。

 あなたが『死にそうだ』って電話してくれて良かった。保険の金額を大きくすることができたから。すぐに死んでくれたおかげで、保険料なんて払わないも同然だったし。会社は過労死だと騒がれることを怖れて、大金を置いていったわ。ほんと、あなたは役にたつ夫ね。死ぬ時だけ、だったけど――。

 妻は笑っていた。心の底から楽しそうに、笑っていた。

 高校生の息子も笑っていた。

 息子とは、最近、何を話したか覚えていない。楽しく遊んだ記憶も、幼児の頃しか残っていない。単身赴任も長く、俺がいなくて当然だという環境になっていたのだ。

 息子は笑いながら妻に言った。

 あんな人、いたっていなくたって、同じだからね。大金に変わってくれれば、その方がずっといいもの。

 妻がすかさずたしなめる。

 バカ言わないで。あなたは男だから、妻の立場なんか分からないでしょう? あんな夫なら、死んでくれた方がずっと助かるのよ。

 二人は笑い合っていた。

 おまえら……なんで笑えるんだよ……なんで俺を笑えるんだよ……

 俺に霊力があるなら、あの時二人を呪い殺していたかもしれない。しかし今は、そんな力がなくて良かったと考え直した。

 少なくとも、俺の死によって二人の生活が困ることはなかった。残された家族は、新たな人生を送ることができるのだ。俺は、家族を守った。男としてなすべき仕事を、きちんとやり終えた。ただの格好付けじゃない。実際に財産を残してやったんだから。

 命と引き換えに……。

 それでいいではないか。

 問題は、会社の方だ。

 妻と息子の本性を見せられ、俺は今までの生き様に疑問を抱いた。俺はまわりから、どう見られていたんだろうか……?

 家族に打ちのめされた傷が癒える間もなく、会社へ出入りし始めた。新年会の席で、支店の部下たちはやはり大笑いしていた。

 ほんと、あいつの頭の悪さには振り回されたよ。名刺と伝票、ゴミ仕事しか取ってこられない能無しだからね。捨て駒にされるために飛ばされてきたのに、昇進したつもりでいたんだからおめでたいよ。でもさ、年賀状では張り切ってたよね。毎年のことだけど、異常に――。

 極め付きは、俺の尻にくっついてまわっていた下っ端の言葉だった。

 だって支店長――あ、元支店長、あの程度の仕事しか理解できないから。あ、違った。あの程度の仕事だって、間違いばかりだったか。結局、怒鳴るだけで何にもできない人でしたよね。あ、これも違った。僕らの足は、しっかり引っ張ってくれましたっけ。

 座は、大笑いで締めくくられた。

 本当の自分など、探すものではない。二度も打ちのめされたのに、俺は本社へ向かうことをやめられなかった。

 社長は経営陣を集めた会議で困り果てていた。集まっているのは、皆、親族だ。

 立て続けに三人もの関係者が死ぬなんて、こりゃ、お祓いが必要ですね、社長。

 三人? 死んだのは二人だろう?

 ほら、配送の何とかいう……。営業くずれの息子が自殺して。

 おお、孫のお気に入りだった奴か! あんなのは数に入れるな。孫ももう、次の男を探しとる。

 他にも問題が……。

 まだあるのか?

 経理の大垣君ですが……。

 あんな出がらしはどうでもかまわん。

 そうじゃなくて、帳簿を……。

 代わりはいくらでもいるだろうが。若くて、かわいくて、素直な娘が。何なら、わしが面接するぞ。なに、もう一人ぐらい囲ったって――。

 だから、裏の方です、裏。大垣君がいなければ帳簿の形が整いません。

 大垣が……? 裏の方は、全部お前がやってたんじゃないのか? 妹の亭主だから経理部長を任したんだぞ!

 自分で手を付けたら、わざわざ二重帳簿を残してる意味がありません。私は本業の方で手一杯ですし。もう、会長の目からも隠しきれないようで……。

 バカもん、これからどうするんだ。

 代わりを見つけますよ、なるべく早く。

 金は今まで通り出せるんだろうな? 滞るとナオミが逃げる。

 そんな端金はどうにでもなりますが、それより、支店はどうするんですか? 次の支店長は?

 うん、それも問題だな……。どっちみち、あの支店は今年限りだが、支店を潰したとなれば、銀行だって口を出さないわけに行かない。支店長には責任を取らせる必要がある。だからって、もう飛ばせる首は残ってないぞ。都合がいい出来損ないは、そうそう見つかるもんじゃないからな。ほんと雨宮は、最後まで役に立たない社員だったな。どうせ死ぬなら、あと一年こらえりゃ良かったものを――。

 怒り狂った俺は、後先も考えずに社長に殴りかかった。テーブルを引っくり返そうとした。お前こそ死んじまえと声を張り上げた。

 何も起こらなかった。

 皆、大口をあけて笑ったままだ。

 俺が何をしようと、彼等には通じない。握った拳は顔面をすり抜けていくし、指が素通りするのではテーブルだってぴくりとも動かない。叫び声も、自分にしか聞こえない。

 自分の限界を思い知って、大声で泣いた。

 俺の霊力が乏しいことだけが原因ではない。現に、斉藤君には姿が見えるのだから。社長一族が、とてつもなく鈍感なのだ。

 全く世の中は不公平だ。鈍感な経営者は、社員をどこまで傷つけても平気でいられる。化けて出ているのに、気がつきさえしない。

 不公平すぎる。

 だから俺は、復讐を願ったのだ。生きている時は陰で笑われ続けていたんだから、死んでからぐらい、その程度の憂さ晴らしが許されていいはずだ。

 思えば、一生をこの会社に捧げてきた。高校を卒業して以来、ずっと営業として社長――今の会長の言葉を守り続けてきた。

 小さな仕事をおろそかにするな。名刺や伝票を着実にこなすことから、大口のチラシや出版物に食い込めるんだ。信用が全てだ。一歩一歩、足跡を確かめながら進め――。

 支店を任されてからも、その言葉を実践してきた。自分が支店長の器ではないことは分かっていた。売り上げの数字を思い浮かべるたびに心臓が痛むし、部下を前にすると気が効いたことを言わなくてはならないと緊張する。それでも、部下に弱みは見せられない。上司として、毅然と振る舞わなければならない。だから、怒鳴る時は怒鳴った。社長の言葉を部下に徹底させるために、自ら進んで小さな仕事を処理した。会社の信用を高めるためだ。鴻島一族を信じていたからだ。

 全ては幻想だった。

 俺の人生、全てが……。

 正直、もうどうだっていい。復讐への関心も薄れた。どうせなにもできない能無しなら、そのままで消えていくだけだ。裏切りも侮辱も全てを忘れ、生まれ変わることもできずに、ふらふら漂うちっぽけな魂。

 それなりに魅力を感じるのはなぜだろう。もうこのままでいいや……と思ったのが、今年の始め頃だ。

 だが、もう一度。もう一度だけ、最後のあがきを見せるのも、また悪くない。恋にときめき、社会に夢を抱いていた頃のように、夢を追うのだ。どうせ失った命だ。それぐらいのバカをしてみたって、誰が文句を言う?

 ある時、なぜかそう考えた。そして気がついた時には、五ヶ月も経っていた。五ヶ月間、自分が何をしていたのかの記憶はない。

 本当に不思議だった。

 それにしても、どうして俺たちは斉藤純夏のまわりに集まってきたんだろう?

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