4月8日(水)夜

死の存在をふと感じ取った時、内から照らし出される、"生"の存在について、最近考えるようになった。

雨が降っている。スーパームーンの翌日の残光が見えるはずの今夜は、屋根を打つ雨の音が絶えず響いていた。


1人部屋が与えられた。一人暮らしをしているようで、とても満たされている。自分が一人でいられる空間は、自分が愛でたいように時や物、空間を掌握できる。いや、味わえる、と言う方が相応しいかもしれない。

"好ましい自分"と対峙できる場所でも、ある。

手を拭くタオルは厚手のもので、触った時に起毛で包まれるような感覚が好きだ。

毎日タオルを変え、手を洗うたびに乾いた布に触れる。清潔感で、心が満たされる。少し‘音’が多くて不安定だった五感も、無重力の空に脈絡なく考えが放り出されていた脳も、もはや無意識化で動いている身体も、手を洗ってタオルに触れた瞬間に、一つにまとまる。私にとってそれは、洗心、という儀式に近い。

はあ、戻ってきた、調律された心身に安堵を覚える。


今年の2月、その人と2人でイタリアに行った。

1週間の旅の最終日、帰国する飛行機で、ある本と手紙がその人の手から渡された。

筆まめなその人から貰った手紙は、もう幾つに上るだろうか。

今、その手紙と本は、部屋に入ると自然と視線が配される最適な場所に、展示するように飾ってある。


近くのものを整理していたら、振動で手紙が伏した。

ポストカードの裏面に書かれた、その人からのメッセージが目に飛び込んでくる。

当時、その人の心中から手紙へと託された愛情が、文字、文から伝わってくる。

今月いっぱいは会わないと決め、距離の差を埋めるために様々な方法を二人で試みているが、触れられない距離にいる今、贈られた手紙というのは、電話での交流とはまた異なる温もりを、普遍的に媒介してくれるものだと感じた。

既に、何をしなくてもここに在るのだということを、手紙は動かずにただそこに在ることだけで、知らせる存在であった。


生とは。

悔いなく愛を伝えられたかどうか。

ゆくゆく、私という形が消えても、健やかに日々を過ごせるように。愛は、もう十分に在る、ということを伝え続けることなのかもしれない。

欠けることではなく、在ることを伝えていくこと。


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