ココロ、ウバワレ

沖野唯作

A-side

『最近、フードとマスクで顔を隠した不審者の目撃情報が多く寄せられています。小さなお子さんをお持ちの方は、十分ご注意ください』


 回覧板に視線を落として、飛永諒子はうんざりしたように唇を歪ませた。この手の文書はご注意くださいご注意くださいとしきりに警告してくるくせに、具体的な方策は一つも書いてくれない。いったい私にどうしろと言うのだ? ドローンに監視カメラでもつけて、息子を追い回せばいいのか?


 あほらしと軽蔑の念をこめて、諒子は閉じた回覧板を近くのソファに放り投げた。時刻は午前八時十五分。今頃、夫は会社のデスクでふんぞり返り、息子の翔太は教室で、友達たちと昨日見た動画の話で盛り上がっているのだろう。こっちは洗濯やらトイレ掃除やらで大忙しだというのに。まったく、いい気なものだ。


 いつもの習慣でテレビのリモコンになんとなく手を伸ばす。電源ボタンを押してすぐに、諒子はテレビをつけたことを後悔した。朝の情報番組で、またしても例の誘拐事件が報じられていたのだ。


 諒子は『誘拐』という犯罪を心底嫌っていた。正義感が強いからではない。他人が稼いだ金で楽をしようという、金持ちのお坊ちゃんみたいな発想が気に食わないだけだ。節約のために外食を我慢している私の苦労も知らないで。金が欲しいのはこっちのほうだ。


 テレビを消して、布製のソファにもたれかかる。誘拐、誘拐……頭にこびりつく誘拐の二文字。被害者の家族にはお気の毒だけど、まあ私には関係のない話だ。我が家から小学校までの距離は約八百メートル。ゆっくり歩いても十分ほどしかかからない。通学中に息子がさらわれるなんて、奈良公園から鹿が消えるぐらいありえないことだ。


 さて。いい天気だし、庭の手入れでもしようかな。そう思い、重い腰を上げた時、リビングにインターホンの音が鳴り響いた。


 こんな朝早くから、どこのどいつだ。いまいましげに舌打ちし、玄関のカメラから送られてくる映像をモニターで確認する。


 扉の前に、学校に行ったはずの翔太が立っていた。背中のランドセルとは別に、茶色いトートバッグを手に持っている。


 釈然としないものを感じながら、諒子は玄関の扉を開けた。翔太は無言のまま、家の中に入ってきた。


「どうしたの? 忘れ物でもした?」


 諒子が尋ねると、翔太の顔つきが変わった。口角を上げて、不敵な笑みを浮かべたのだ。七才とは思えない邪念に満ちた表情。


 諒子は不安に襲われた。


「翔太、いったい何があったの? お願いだから返事をして!」


「……奥さん、最近ニュースは見てるかい?」


 バッタ並みの素早さで、諒子は後方へと飛び跳ねた。テレビで何遍も見たニュースの記憶が脳裏に蘇る。目の前にあるのは、間違いなく翔太の体だ。口から発せられる声も、たしかに翔太の声だった。


 ただ一つ、体の中身だけが違っている。


「あんたの子供は預かっている。返して欲しかったら、一千万円用意しろ」


 気丈さを保つ余裕もなく、諒子は弱気な声でつぶやいた。


「大変! 翔太の人格が誘拐されちゃった!」

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