scene 3 守りたかった夢
美優が言い終わらないうちに、突然。
腕を強く引かれて顔と上半身に受けた衝撃と共に、言葉が詰まってしまった。それと同時に世界は暗転し、一瞬、なにが起こったのか見失う。
さっきまでうるさいくらいだったのに、風の音がくぐもって聴こえる。
それに少し、温かい。
暖かな温もりの中、美優は大きく息を吸った。そして次第にぽつりぽつりと頬にあたる暖かな水の気配に、ゆっくりと目を開ける。
目の前は暗く、少しだけ顔を上げた。すると見えてきたのは、自販機の明かりに照らされた、端正だがまだあどけない森永さんの顔。
未だ美優の頬を打つのは、彼の両の瞼から零れ落ちる涙だった。
「……森永、さん……?」
そこで初めて美優は自分の状況を理解する。
森永さんに、抱きしめられている。
おそらく彼は、美優のあの言葉を遮るために、美優を抱きしめたのだろう。
だって、そう考えなければこの状況は不自然だ。
「あの……」
状況がうまく把握できなくて、美優はおずおずと彼を伺った。未だ零れる涙は
森永さんのまつげや頬を濡らし続けて止まらない。
震える心を押さえつけて押さえつけて、それでも抑えきれなかった涙だと思った。
「……キミがそんなこと、決めなくてもいいんだ……。俺のためにそんなこと……っ。……俺は、全然売れてないですし、輝いてもいないですよ……。なのに……っ、こんな俺のためにそんな覚悟……っ」
そう語尾を詰まらせる様子に、森永さんの後悔の念が見えた。
自分の言動が、美優にそこまで言わせてしまったと思っているのだろう。
だから美優は、頭を振る。
「……あたしのためです」
「え……」
「……あたしも、小一時間前から……ううん、出会ったあの日に森永さんに魅了されちゃったんですよ……。本当は森永さん、ずっとキラキラ輝いて見えてました……」
一時は嫌いで嫌いで恨んだ時間もあったけど、レッスン初日にレッスン室で出会った時から、森永さんは輝いて見えた。
それに、あたしが声優になったら楽しそうだなって思ってくれた人が、あたしに役を捨てるなって叱ってくれた人が。
あたしが見つけた一番星が。
急に廃業するなんて言い出して、はいそうですかご自由に。なんて、言えっこなかった。
「だからあたしは、腹を括らなきゃなって思ったんです」
この人が声優を止めるというなら、全力で繋ぎ止めようと思った。
そう呟いて、不意に緩まった腕から抜けた美優は、未だ悲しげに自分を見下ろす彼を安心させるように微笑んだ。
「でも、森永さんが言葉を遮ってくれなかったら、あたし、今頃どうなっていたかわかりません」
あたしに生きる意味を教えてくれた『声優』という職業。
その憧れを捨て去るなんて考えるだけで、半身を捥ぎ取られる思いだ。
もしかしたら卒倒してしまっていたかもしれないし、泣き喚いてしまったかもしれない。
森永さんは止まりかけそうな涙を瞬きで落としながら、目を細める。
「……だから言わせなかった。言い切る前に、キミの口を噤んでしまおうと思った……。キミが声優になることは、俺が夢見た未来でもあるから……」
言い終わって鼻を啜ると、また、溢れだす涙。
美優にとって、声優という夢はいのちの次に大事なもの。
同時に森永さんにとっても、美優が声優になることは願いでもある。それを改めて知った美優は、大きな瞼から、ひとつ、またひとつと涙を零し始めた。
最初は意地悪で嫌いだったのに、恨んだ瞬間だってあったのに、一目置かれてると知って嬉しくて、仕事を隣で見て憧れて。
そんな彼が、美優が声優になった未来を見てくれている。
それがたまらなく嬉しくて、愛おしくて、切なくて。
同じ想いでいてくれたと、涙が溢れてしまったのだ。
胸の奥が苦しくなる。
混乱する。
この初めて抱く感情の名を、美優はまだ知らない。
急に泣き出した美優を見て、森永さんは美優から体を離すと、自分の後方に落ちたスマートフォンとジップパーカーに目をやる。そしてしゃがんでそれらを拾い上げた。
スマートフォンは一先ずジーンズのポケットにしまい、ジップパーカーの埃を叩き落とした森永さんは、ポケットを探ってハンカチを取り出すと、今一度美優に差し出した。
美優は小さく頭を下げてハンカチを受け取ったけど、どうしても涙を拭えなかった。
そんな美優に涙を拭けと促すわけでもなく。
森永さんは未だ溢れ出る自分の涙を手の甲で拭いながら、
「キミにこんな覚悟をさせるために言った言葉じゃなかったんだ……」
と呟いて続ける。
「……でも、キミは自分の夢と引き換えに、俺を引き上げようとしてくれたんですよね?」
森永さんの言葉に美優は、ひとつだけ強く頷く。
「……あたし、精一杯がんばります。レッスンだって休まないし、与えられた課題も全力で取り組みます……。だから、森永さんもあたしと頑張ってくれませんか……?」
そして願わくば。
「あたしの新しい夢を……、あなたともう一度共演する夢を叶えさせてください」
溢れる想いを言葉にしただけなのに、告白みたいだなと美優は思った。
いや。
溢れる想いを言葉にして告げるから、告白なのだ。
森永さんは美優の告白を受け、途中から目を丸くしていたが、しばらくして表情を緩ませ始めた。
「……そっか。……そうだったのか、はは」
そう独りごちるなり表情を柔らかく破顔させたので、今度は美優が目を丸くしてしまう。
「そっか。俺は君に『選ばれた』のか……」
そう言って穏やかに目を細めた森永さんの表情は、まるで憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔。
彼が言う『選ばれた』の意味は、美優にはよくわからなかった。
だけど。
「……キラキラしてるとか、もう一度共演したいとか。初めて言われました。俺も、キミともう一度マイク前に立ちたいです」
告げて森永さんは、美優の頬に流れる涙を親指の腹でそっと拭ってくれた。
「ありがとう、藍沢さん。俺を見つけてくれて。そして、俺を選んでくれて」
美優には自分に向けられた笑顔の意味がいまいちよくわからずに「はい」と返事をしたが。いつも以上に柔らかな表情の彼に、なぜか急に胸が高鳴ってしまう。
彼の親指が撫でた頬も、急にぽっと火照り出した。
自分に向けられた優しい瞳が、キラキラしてる。
森永さんの瞳だけじゃない。
姿が、声が、全部キラキラして見える。
何これ……!
未だ涙が残る中、胸がドキドキと高鳴る理由も、頬が熱くなる理由もわからない。
そんな美優を尻目に森永さんはふとガラス扉を眺め、
「もう、大丈夫……みなさんにも謝って、お礼言わなくちゃですね。戻りましょうか」
と、ゆっくりとした足取りと晴れやかな笑顔でガラス扉に向かって歩き出した。
「……はい」
美優も彼の後に着こうと踵を返したその時、「そうだ」と森永さんが振り返った。
「喉渇きましたよね? 泣かせてしまったお詫びにもう一本奢らせてください」
と、自販機を指差したので、美優は鼻を啜りながら答えた。
「……じゃぁ、レモンティーで……」
小一時間前にもらったレモンティーは全て飲み切ってしまっていたから、お言葉に甘えることにした。
自販機へ向かう彼の後ろについた美優は、自販機のサンプルに映える鮮やかな黄色を眺めながら、思った。
ちょっと苦くてちょっと酸っぱくて、甘い。
森永さんいみたいだ、と。
だけどそれ以上に森永さんが戻ってきてくれたことが嬉しくて、少しだけ気恥ずかしくて。
だけど自分が立てた覚悟は、早速美優を追い立てているように感じて。
レモンティーのペットボトルを受け取ってからあのガラス扉をくぐるまで、美優はずっとレモンティーのペットボトルばかりを見ていた。
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