scene 4 元・天敵、今は……
「……ご心配をおかけしました」
森永さんはスタジオのガラス扉を開けるなり、エントランス延いてはロビーに向けて深々と頭を下げた。
その様子に、下駄箱奥の壁際に寄りかかりながら腕組みをしていた星野さんが目を丸くする。
ロビーの奥に設置された椅子には、他の声優陣やレッスン生が腰を下ろしていて、まるで星野さんが、森永さんと美優のやり取りを誰にも聞かせまいとしてくれていたのかの様だと、美優は思った。
「……え、本当に、受け止めたの……?」
これは星野さんが、森永さんに言ったセリフではない。
森永さんの後ろにいる美優に投げた言葉だ。
自分に向けられた言葉ではないと気づいた森永さんは、顔を上げるなり「え」と怪訝な声をあげたが、星野さんの奥に見えた光景に思わず身を引いてしまう。奥の椅子から立ち上がった小倉さんが、ズンズンとこちらに向けて迫ってきたのだ。
小倉さんは星野さんの前を勢いよく通り過ぎると、森永さんを勢い任せに抱き締め始める。
「ビッキーこのやろー! 立ち直んのくっそおっそいんだよ!! 心配しすぎたじゃねぇか!」
「いたたた、手加減って言葉を知らない人ですか……!? むさ苦しいから離れてください!」
森永さんはさっきまでドン底まで落ち込んでいた人とは思えないほど饒舌に、小倉さんからの抱き締め固めから逃れようとしている。
「あ、ビッキー、泣いてたの? ほっぺ濡れてるけど!!」
「なっ……!! 泣いてなんかいませんっ!!」
そんな戯れ合う二人を引き剥がしたのは、総監督の星野さん。
「はいはい、離れて離れてー。女子高生にむさ苦しい抱擁見せつけないで教育に悪いよー」
と、後輩二人を棒読みで嗜めて、
「もう結構な時間なんだからとっとと帰るよ! 森永は奥から自分の荷物取ってきて。藍沢さんのもね! ほら、カズも帰る用意!」
とテキパキ指示を出しながらロビー奥へ追いやるなり、今度はそのロビー奥に向けて声を張った。
「アツ、ゆうちゃん、あゆちゃんも。レッスン生さん連れてきて。帰るよー」
するとロビー奥からは、はーい。と明るい声が帰ってきて、「さて」と、星野さんは美優に向きなおった。
「藍沢さん、森永を連れてきてくれてありがとう」
そう向けられた柔らかな微笑みに対し、美優は困り顔でレモンティーのペットボトルを持つ手をキュッと鳴らす。
「……あの星野さん。あたし……」
「ん?」
「森永さんを『受け止めた』かどうか、わからないんです……」
美優の言葉に星野さんは小首を傾げた。
「あの、詳しくは言えないんですけど、……無理やり、粗治療で引き上げた、というのが正しくて……」
それは美優が森永さんに対して、自分の夢と引き換えに押し付けた一年間のモラトリアム。
年末から始まる所属オーディション突破と引き換えに、今年度中は引退の『い』の字や、廃業の『は』の字を出さないという、一方的な約束だ。
結果、森永さんは立ち上がってくれたけど、果たしてその交換条件がされたのかもよくわからない。
後で本人に確認してみないと……。
「粗治療……?」
困惑する美優にそう呟いた星野さんは、ゆっくりと振り返ってロビー奥に視線を投げた。
ロビーの奥では、森永さんが自分の荷物を手に取ると、さよりさんから美優の荷物を受け取ったところ。レッスン生たちに微笑みながら謝る仕草に、
「……いや、あれ、粗治療された人間の顔? ……なんならすごい清々しい顔してるし……」
と、鳩が豆鉄砲を食らったような表情で眺めながら呟いていた。そしてふっと微笑んで、今度は美優を見た。
「やっぱり藍沢さんは、森永を受け止めたんだよ……って言うより、憑き物を落とした感? すごいね。総監督の俺もびっくり」
総監督にそう評されたら、謙遜も無意味だ。
「……ありがとうございます」
美優は星野さんの言葉を素直に受け止め、礼を告げた。すると星野さんはもう一度、見る笑顔を美優に向けたが。
「でも、俺たち声優とレッスン生がこうして接する機会ってもうないから、今後森永が闇堕ちしたらどうしたらいいのかわからない……」
と表情を変えて嘆き出したのだ。
星野さんの言葉の意図は、主に森永さんにあるのだろう。けど美優はその言葉の冒頭に、引っ掛かってしまった。
そうか。
この見学が終われば、プロで活躍されてる皆さんとこうして会う機会も無くなってしまう。
森永さんとも、偶然でしか会えなくなるんだ。
だけど今は寂しさに浸っている場合ではない。星野さんの後ろには、帰宅準備を済ませた声優陣とレッスン生たちが迫ってきていた。
「ビッキーの闇堕ち、長いしクソねちっこいし、大変なんだよなぁ」
小倉さんも星野さんと一緒になって嘆くと、顎に手を当てて唸っているのは田神さん。
「毎回藍沢さんに、出動要請願うわけにはいきませんし……」
と、どんどん狭くなる下駄箱前。
美優は一足早くガラスの扉の外に出ると、扉のすぐ脇に留まる。
どやどやと皆が出てくる中、最後尾についた森永さんも外に出てきて、美優に荷物をそっと手渡してくれた。
それを受け取った美優の表情が曇っているのを見て、森永さんが美優の顔を覗き込む。
「どうしました? 基礎科ちゃん」
その呼び名に無意識に反応してしまった美優は、怪訝な表情で森永さんを見上げる。
「……基礎科ちゃんじゃありません。……やっぱりその呼び名で呼ぶんですか?」
もう会えないかもしれないのに。
そんな寂しさを隠すように頬を膨らませて拗ねる美優に対し、森永さんは穏やかに「いえ」と答えた。
「基礎科ちゃんって呼ぶたびに君が怒るのが少し面白かったし、かわいかったんです。大丈夫、もう呼び納めましたから」
そう言うと森永さんは美優に向けていたずらっ子のように笑いかけると、さらに続ける。
「藍沢さんって、お家は銚子でしたっけ」
この流れ、見学前の再来みたいだ。と思いながらも、
「柏です。もうこのやり取り不毛ですって……」
とツッコむ自分は律儀なのだと美優は思う。
一方の森永さんは、美優の口から柏の言葉を聞いて、
「柏だったんですね。よかった」
と軽く安堵の息をついた。そしてこう続ける。
「もうすっかり遅くなってしまったので、女性陣を男性陣が分担で最寄り駅まで送っていくことになったそうです。それで、俺が藍沢さんを送っていくことになりました」
この言葉に美優の声が跳ねないわけがない。
「え、いいんですか? だって、森永さんお家……」
「俺の家は鶯谷……事務所や養成所のすぐ近くなので。上野からも徒歩で帰れるので大丈夫です」
そう言うと森永さんは「それに」と続ける。
「まだ君とは話さなきゃいけないことがありますから」
森永さんの言う『話さなきゃいけない』ことは、おそらく美優が話したいことと同じだろう。
まだもう少し一緒に居られることが、美優にとっては嬉しくて。
「っ、はい。よろしくお願いしますっ」
歩き出す森永さんについていきながら張った声は、ビルの谷間にキンと響いた。
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