scene 5 あの日のレモンティーの真相

 上野駅までの道のりは、六時間前とは打って変わって、とても賑やかだった。

 他愛のない日常の話や、声優さんたちのレッスン生時代の話、そして今度の仕事の話などを、入れ替わり立ち替わり、会話をする人を変えながら盛り上がる。


 美優もこの十数分の道のりの間に、全員と言葉を交わしただろう。

 まさかこんな賑やかな帰り道になるなんて、六時間前の自分は想像出来なかったであろう。


 そうしてたどり着いた上野駅までまでの道のりは、あっという間だった。

 この先の帰路は、男性陣が女性陣を最寄り駅まで送っていくことになっている。


 まず、中央線で新宿に出るさよりさんと最上さんが小倉さんと一緒に改札をくぐると、今度は京浜東北線に乗るという田島さんと田神さん、十時さんと御門さんに、星野さんが同行する。


 美優は振り返った皆に手を振り返すと、隣に並んだ森永さんはジーンズのポケットから財布を取り出した。切符でも買うのかなと思ったら、出てきたのはむき出しの交通系カード。


「じゃぁ、俺たちもいきましょうか」


 そう言って歩き出した森永さんに「はい」と返事をして、美優は彼の後ろに付きながらカバンの中からパスケースを取り出すと、改札をくぐった。


 駅構内は平日の夜とあって人も多かったが、人混みに流されてはぐれるというほどでもない。それでも歩きやすいのは、森永さんが気を遣って少し遅く歩いてくれているからなのかもしれない。

 欲を言えば。

 はぐれないようにどこか掴んでおきたい気もしたけど、女子高生と手なんか繋いだら色々と誤解されるのだろうな、と自分を納得させる。


 自分の胸で芽生え始めたこの気持ちも、恋というにはあまりにも曖昧で。

 そもそも相手は芸能人で、自分はまだ一般人。

 社会人と高校生。


 吊り合いが取れるわけがないのだ。



 柏までは上野駅始発の常磐線快速で6駅。美優と森永さんは停車している列車に乗り込んだ。車内はまだ人混みもまばらで、運良く椅子に腰を下ろすことができた。


 ふぅと息を吐き、そういえば買ってもらってたなと、カバンの中に入れたレモンティーを飲もうとペットボトルを取り出すと、電車の蛍光灯に照らされて、美優の制服に鮮やかな影を落とす。


 ふと森永さんの方をチラと見ると、彼も同じようにレモンティーのペットボトルを取り出したところで、蓋をひねり開けてペットボトルに口をつけた。


 美優はその唇がボトルの口から離れたタイミングで尋ねてみる。


「森永さんって、レモンティーお好きなんですか?」


 尋ねられて森永さんはペットボトルの蓋を閉じながら、

「ストレートもミルクも好きですけど、なぜかレモンを選んじゃうんです。喉にもいいですし」

 と、自分の手の上にとんとペットボトルを乗せた。

 すると森永さんの手のひらに、黄色に近いオレンジの柔らかな光模様がゆらめく。


「なんか光に透けた時に落ちる色味が好きというか」


 確かに。

 森永さんの手のひらに落ちる柔らかな光が、綺麗。


「そうだったんですね。あの日も、レモンティーでしたから、どうなのかなって思って」

 と、美優が口にした言葉に、森永さんが引っかかった。


「……あー、あの日……」


 それは初めて美優と森永さんが出会った日。

 自己PRの模擬オーディションの審査中も、口に含んでいた。


 美優は思い切って尋ねてみる。


「……あの日、どうしてあたしを助けたんですか?」


 助けた。という表現が合っているのかは、わからない。

 だけど、美優があの時リテイクの機会を得ることができなかったら、森永さんのお眼鏡にかなうことはなかったはず。


 結果的にあのレモンティーが、美優とその先の夢や出逢いの橋渡しをしたと言っても過言ではなかった。


 森永さんは今一度レモンティを一口含むと、ごくんと喉に流し込んだ。そして、顔を美優の方へと向ける。


「藍沢さんって、ジュニアコースの時に『レッスン室の魔物』に襲われたことはないですか?」


「レッスン室の魔物、ですか?」


 初耳です。と美優が小首を傾げると、森永さんは「はい」と言って続ける。


「発表者の脳内から言葉という言葉を全部食べてしまう魔物です」


 森永さんの説明を聞き、美優は2年前から在籍していたジュニアコースでのことを思い出す。けど、脳内の言葉を食べられたという記憶も思い出もない。


「……あたしがレッスン中に言葉を失ったのは、先々週が初めてです。……ジュニアコースではみんな仲が良かったので、発表中にセリフが出なくなったら、オーディエンス側から次のセリフを言って教えてあげてましたから」

「プロンプを出しあって魔物を撃退していたんですね。では、自己PRの時は?」

「伊坂先生が「発表にはしっかりいい『反応』してあげて」って」


 それは今思えば、これから声優を志す子供たちがレッスン室で怖い思いをしないようにという伊坂先生や養成所側の教育方針だったのだろう。


「……万が一言葉が消えても、仲間がフォローしてくれるし、落ち着くことができたんですね」

「はい。でも、本科ではそういうことがなくて。『昨年度はジュニアコース』って言った瞬間、空気感が変わったのを感じてしまって……」

「……わかりますよ。あの時確かに僕の周りの空気が急に冷えた」


 無理もない。

 本科二年目と基礎科から進級してきた人間ばかりのクラスだと思っていた矢先、ジュニアコースから本科へ飛び級したなどという特例が、急に目の前に現れたのだから。

 森永さんは続ける。


「皆、無意識に息を呑んだりかすかに声を上げました。多分、それをあなたは感じ取ってしまい言葉を引いてしまたんでしょうね。でも」

 と言葉を打ち消した森永さんが表情を硬くする。

「魔物を生み出すのはオーディエンスではありません。レッスン室のセンターに立つ人間の不安が、魔物を産むんです」


 そう言われて、納得する。

 あの時『レッスン室の魔物』を生み出したのは、美優の心。


 自分は期待されている。


 そう思いながらも、心のどこかでは思っていた。


 基礎科を飛ばして大丈夫? やっていける?


 そんな不安は皆の雰囲気と共鳴して『レッスン室の魔物』を生み出したのだ。


「本来なら俺は、あのまま君の発表時間が過ぎるのを黙って見守らなければならなかった。俺の行いは完全に悪手です。だけど……」


 森永さんは言い吃ると、また一口、レモンティーを口に含んだ。すると、発車時刻を告げるメロディがホームいっぱいに鳴り響く。

 じきにメロディは止み、ドアが閉まって列車が動き始めたタイミングで、森永さんは再び口を開いた。


「……あの時の俺は、考えるより体が動いたんです。気づいたらレモンティーのペットボトルを前方に吹っ飛ばしていました」

「……なんだ。あたし、『下手くそ引っ込め』の線もあるなって思ってたんですよ……」


 そう胸を撫でおろした美優だったが、

「下手くそって、君まだあの時点で何も発表してなかったでしょう。下手くそも何もないですよ」

 と苦笑で突っ込まれ、そうでしたと軽く気落ちしてしまった。


 そんな美優に、森永さんは続ける。


「メンタル朧豆腐でイラついたのは確かですけど、抜き打ちオーディションで君の話を聞けないのは、あまりにも勿体無いなとは思いました」


 結果、美優は発表することができ、今日もあんな素晴らしい経験ができた。

 それもこれも森永さんのおかげだったのだ。


「あの、ありがとうございました」


 頭を下げた美優に対し、森永さんは、

「いや……お礼を言われることはしていません。あの時も言いましたけど、君の発表が素晴らしかった。高崎もキミの可能性を認めてましたし、ただそれだけのことです」

 と、謙遜し、美優を誉めた。


 その言葉に美優は嬉しくなって小声でお礼を言うと、もうひとつと森永さんを伺った。


「あの、もしあの時、レッスン室の魔物に喰われたのがさよりさんだったり、早坂さんだったりしたら、森永さんは助けてました?」


 そうじゃなきゃフェアではない。そう思って尋ねたが、森永さんはキョトンとして見せたのち、

「あの二人は共に自信家なので、魔物に食われるタイプじゃないですよ」

 と、どキッパリと言い切った。


「……確かに……」


 これ、さよりさんが聞いたら、一緒にしないで! と怒るんだろうななどと思った。


 

 柏駅へと向かう快速電車は、順調に夜の東京を駆け抜けていく。車窓の向こうは乗客でよく見えないけれど、時折、暗がりに家々の灯りや繁華街の明かりが目に飛び込んでくる。


「……あの、藍沢さん」


 会話の途切れ間。

 風景をぼんやり眺めながら、寝不足の瞼が少しだけ重く感じていた美優に、森永さんが伺うように声をかけた。


「っ、はい」


 軽く瞼を擦って森永さんの方に目線を向ければ、森永さんは言いにくそうに美優からは目線を外し、尋ねる。

 

「……本当に来年度所属を狙うんですか?」


 それは、美優が勢いで言ってしまった『覚悟』の話だ。


 一年間は森永さんに廃業を考えさせない代わりに、美優が来年四月に声優として事務所に所属する。

 それができなかったら、森永さんは自分の去就を好きにしていい。美優も声優になるのを諦める。


「はは……無謀ですよね? あたしが所属審査を突破するなんて」


 自虐で笑ってみるが、森永さんの反応は悪い。


「まぁ、……はっきり言ってしまえば……」


 経験者は語るとは、まさにこのことだろう。

 森永さんは体を捻って美優を伺う。


「今から撤回しても、いいんですよ。藍沢さんはまだ若いですし、何も一年以内だなんて自分の首を絞めるようなこと……」

「撤回は……しません」


 森永さんの説得に美優は、間髪いれず言い切る。

 彼が責任を感じているのもわかるし、自分の実力の無さも理解している。

 だけど、引けない理由が美優にはある。


「あの時は確かに勢いで言ってしまった感は否めません。けど、今更撤回するのもなんか違う気がするんです。それに……撤回したら、なんのために森永さんに大口叩いたのかわからなくなりますし、あたしの覚悟も揺らいじゃいます」


 まだ若いんだから、チャンスはいくらでもある。とか。

 未熟なんだから数年かけて力をつけたらいい。とか。


「やる前から無理そうだから撤回するなんて。そんな生き方してたら絶対に夢なんか掴めません」


 言い終えて目を合わせた森永さんの表情は、辛そうで。


「藍沢さん……」


 美優を呼ぶ声も揺れていた。

 

 美優はこれ以上心配かけまいと美優は、にっと口角を上げる。


「それに、あたしはクラスでも最底辺なので、これくらいの目標掲げてないとダメなような気がしてるんです。一番下なら這い上がるのみですから」


 だけどそれも強がりだって、自分でもわかる。


「でも……、ちょっと弱音いっちゃっていいですか……?」


 伺えば森永さんは、静かに「はい」と答えてくれた。

 不意に上がった両手が両頬に触れたのは、何だが溢れた時すぐに拭えるようにだ。


「……あたしがちゃんとやれなかったら、森永さんは声優をやめるかもしれない。あたしは夢を捨てなきゃいけない。怖いですよ……」


 美優は自分の声が震えてることに気づき、口を噤んだ。これ以上言葉にしたら溢れ出てしまうから。


 森永さんはそんな美優を伺っていたが、大きく息を吐くと体勢を戻し、腕組みをして何やら考え事をし始めた。


 列車は今、隅田川にかかる鉄橋を渡ったところ。

 自分で決めた覚悟が辛いのに、森永さんもこんなに悩ませてしまっているのに。

 列車の揺れと暖かな左側に、寝不足の瞼はゆっくりと重くなって、頬に当てていた両手もいつの間にか膝に置いた鞄の上で。


 あぁ、緊張の糸が解けてしまった。


 重くなった頭を少しだけ左に傾けたら。優しい声が聞こえた。


「南柏付近で起こしますので、少し眠ってもいいですよ」


 美優は少しだけその言葉に甘えようと目を閉じた。

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