scene 2 夢と引き換えにしても

 四月も中旬とはいえ、夜風はまだ暖かいとはいえない。

 美優が扉を開けると、真正面に立つ自販機が辺りを煌々と照らしている。その隣には約一時間前に美優が腰を下ろして項垂うなだれていたたベンチがあるが、そこにも誰も座ってはいなかった。


 ならばと左側を見た。そちらには路地へと昇る鉄筋の螺旋階段があって、美優は階段を下から上へ、上から下へと舐めるように目を凝らしたが、誰もいない。


 じゃぁ、どこへ。


 美優はローファーを地面に下ろして爪先をつっかけるなり、右手にある植え込みに目をやる。すると、暗がりの植え込み前。うなじを天に向け膝を抱えてしゃがみ込んでいる人物を見つけた。

 植え込みに設置された街灯の灯りに明るい茶色の髪が照らされ、春の夜風にそよいでいる。しかし、左腕でジーンズ履きの膝を抱えこんで、前に投げ出した右手でかろうじて握られているスマートフォンが物語る。


 結果を確認してからずっとこのまま、気持ちを立て直せていないことを。


 彼の心中は察するに余りある。だけど美優はほっと胸を撫で下ろした。


 よかった。

 いてくれた。


 美優は森永さんから借りていたジップパーカーを脱ぐと、その丸まっている背中にふわりと掛けた。

 その時。


 ぬるりと上がった顔に、背筋が凍った。


 自分を見上げた森永さんの表情に瞳に、輝きがない。

 いつもキラキラ輝いていた瞳だったのに、絶望で暗く濁る。


 こんな彼は、初めて見る。


「……なんで……」


 周辺道路からの雑踏に消え入りそうな声は、辛うじて美優の耳に届いた。


「……なんで、君なんですか……?」


 そう呟くと森永さんはまた顔を伏せてしまう。


「……君も連れて、先に帰ってていいって言ったのに……」


 今にも消え入りそうな息混じりの声に森永さんの無念さが滲むようで、美優に胸はギュッと締め付けられる。


 皆さんに心配かけたくないし、情けない姿を見せたくない森永さんの気持ちも解る。だが、森永さんが心配だから、合流してくる時まで待っていたい星野さんたちの気持ちも理解できる。


 それはまるで、小一時間前の自分のようだった。


 星野さんにあんなこと言って、今ここに、森永さんの前にいるんだから、引き下がるわけにはいかない。美優は夜風に揺れる姫カットを右手の指で抑えながら、左手を膝について中腰になった。


「……皆さん、森永さんのことが心配なんです……皆さんが、こんな状態の森永さんを置いて、先に帰るわけないじゃないですか……」


 右手も膝について、再びその顔が上がるのを待つ間、時折風はビルの谷間を吹き抜けて、甲高い音を立てる。


 まるで、木枯らしみたいだ。

 悩める者に容赦なく吹き付ける北風のようだ。


 強風に目を細めつつも、美優は彼の声を聞き漏らさないように耳をそばだてていた。しかし風に煽られて、うずくまる背中にかけたパーカーが、風に煽られずり落ちそうになる。

 美優は中腰のままそっと両手を伸ばし、パーカーが落ちないように上へと弾きあげたところで、微かな声を聞いた。


「……誰に聞いて、来たんですか……?」


 美優は彼の方にしっかりとパーカーを下ろすと、風に負けないように声を張る。


「……ほ、星野さんです。森永さんに今日のことお礼言おうと思ったら、いなくて……その時に事情を、伺いました……」

「……で? ……迎えに行けって言われて来たんですか……?」

「……い、いえ。……星野さんには、止められました。いかないほうがいいって……」


 星野さんが行かないほうがいいって言った理由も、ひとつじゃないって解ってる。


 今、あたしが一個でも間違えたら、森永さんを傷つけてしまう。あたしだって無傷ではない。

 誰が赴いても、差し違えたら、元には戻らない可能性は高い。


 だから皆さんは、森永さんが自力で戻ってくることを最良とし、敢えて迎えに行かなかったのかもしれない。


 だけど、ひとりは寂しい。

 絶望の淵にいるなら、なおさら。


 それは美優もよく解っていた。


「……あたしは、あたしの意思で、今ここにいるんです」


 そう声を発して、自分でもびっくりする。


 さっきまで出ていた声が、震えて、うまく出ない。

 胸が締め付けられて、鼻の奥が痛い。

 脚も震えてきた。

 手も。


 だけど、何か言わなきゃ繋ぎ止めていられない気がして、美優は必死で自分の心と頭の中の言葉を手繰り寄せて組み立てて。

 言葉を紡ぐ。

 正解かどうかはわからないけど、森永さんを引き上げるため。


「……も、森永さん、まだ若手一年目ですよね? ……まだチャンスはいくらでも――」

「……チャンス? そんなもの全部坂下のもので、俺は廃業まっしぐらです」


 紡いだ言葉は打ち消された。


 不正解だった。

 じゃぁ次はなんて言葉をかけたらいい?

 どれが正解なの?


 先ほど、森永さんは『芸術に正解はない』って言ってた。けど、人間関係には少なからず正解はあって。

 その正解を手探りあぐねる自分がもどかしくて、歯を軋ませた美優がぎゅっと目を閉じた。

 その時。


「……俺の気持ちは、君にわかりっこない……!」


 森永さんの憤懣ふんまんやるかたない気持ちを抑えた震える声に、美優は思わず脚を一歩引いてしまう。

 

 言葉を尽くす前に、一線引かれてしまった。


 森永さんはさらに続ける。


「……先に帰っててください……これ以上君に酷いこと言って醜態を晒したくない……」


 美優は痛感する。

 苦しそうな声で呟いた言葉は、森永さんの本心なのだろう。

 なら、森永さんの希望を希望通りにするのが最善なのかもしれない。


 悔しい。

 あたしじゃ、この人を引き上げられない。

 

 誰か、助けてほしい。

 一緒に彼を引き上げてくれないだろうか。


 自分の無力感を感じながら美優はスタジオのガラス扉へと振り返った。もし先輩方がガラス扉をうっすら開けて見守っていたら、助けを求めようかとも思った。

 あの扉は防音性能に優れていて、こちらの会話を聞くには隙間を開けなければならない。

 けれど、ガラス扉はしっかりと閉じたまま、誰もこちらを覗いてはいなかった。

  

 皆、あたしを信じて待っているんだ。


 勘違いかもしれないし、思い上がりかもしれないけど。

 こうでも思っていなければ自分を強く持てなかった。


 だけど、どうしたら。

 再び植え込み側を振り返ると、やはり森永さんは蹲ったまま項垂れていて。


「……わかりませんよ……俺の気持ちなんか……誰にも……」


 美優の耳には届かないと思って呟いている嘆きの言葉は、風の止み間にしっかりとよく聞こえたのだ。


「……ジュニアコースから飛び級して本科に入った、期待されているキミに……今期のオーディション全敗の俺の気持ちが――」


 その言葉の羅列は、美優の逆鱗だった。


「っ、わかりますよっ!」


 大きな目をさらに見開いて鼻声で叫んだ大声はコンクリートにビンと響き、森永さんがハッと顔を上がった。


「……っ、わかりますよ、今の森永さんの気持ち。……っ、馬鹿にしないでください!」


 しゃがみ込んで泣き出したい気持ちをグッと堪え、美優は自分の両手をぐっと握り込んだ。


「……さっきは言いませんでしたけど、一昨日のレッスン、オフィーリア……あたし、人形すぎて、……もっともっと上手い人に変えられちゃったんです! オフィーリア剥奪されたんですっ! こんな人、本科にも、基礎科にもいないでしょ?」


 口にして不意に漏れるのは、自嘲の笑み。

 美優は続ける。


「リテイク自己PRと人形オフィーリアチェンジで、あたし、今クラスの最底辺です……! 期待なんか全っ然されてないです! こんな人間、誰が期待しますか!?」


 言ってて本当に泣きたくなってくる。

 でも自分の惨めさがおかしくて。


 確かに小一時間前のブース内では名誉挽回できたかもしれない。けれど、あと数日経てばまた、本科土曜14時クラスの落ちこぼれへと戻ることになる。

 ジュニアコースから本科へと進級を果たした期待の飛び級なんて、所詮こんなもんだ。


 そんな美優を見つめる森永さんは、呆気に取られているからなのか。それとも。

 ただ、憐れむような表情を浮かべていることは確か。


 だけど美優は自分の中から溢れ出る言葉を止められなかった。

 さっきまで、あれだけ掛ける言葉を探していたと言うのに。


 自嘲の笑みはだんだん崩れ、握り込んだ拳は力無く緩む。


「あたし……森永さんに見つけてもらわなかったら、この二週間の間に夢を捨てる瞬間なんていくらでもあった。……本当は今週末のレッスンだって怖い。……だけど、今もこうしてここにいるし、レッスンだって頑張ろうって思えたのに……」


 美優の独白に対し、森永さんの瞳はまだ輝きを取り戻さない。それどころか、右手でかろうじて握っていたスマートフォンがコンクリート敷の地面に落ちた。


「……キミはキミで頑張ってくださいよ……。こんな崖っぷちの俺に、そんな期待かけられても困ります……。来期、レギュラーゼロですよ……。それに今年中に廃業するかもしれません……」


 コンクリート敷きの地面にスマートフォンが落ちて鳴った硬質な音とともに、地を這って届いた言葉は、美優の心を焚き付けるのに十分だった。


「……あたしを……あたしを、ここまで引っ張りあげてきておいて、自分は廃業なんて……絶対に認めないっ!」


 心からとめどなく溢れる言葉を相手に伝えるだけなのに、なんで体が震えてしまっているのだろう。

 なんて、口がちゃんと開かないんだろう。


 覚悟を扱う時、人は震えると聞いたことがあるけど、それは今なのかもしれない。

 そう思う余裕など、今の美優にはないのだけど。


「……なら、あ、あと一年……」


 息混じりの自分の震える声に、自分で驚きながら。それでも美優は言葉を紡ぎ続ける。

 伝え続ける。

 じゃなきゃ、引き上げられない。


「あと一年……廃業するの、待ってください……! オーディション落ちても、がむしゃらに、しがみついてください……」


 口はうまく開かないし、喉も緊張してちゃんと声が出ない。揺れる。

 けど、伝えなきゃ。

 森永さんが行ってしまう。


「……あたし、来年の所属オーディションで受かって、声優になります……」


 その宣言を耳にした森永さんは、「え」とかすかな声をあげる。


 美優が言うそれは、東京ボイスアクターズ所属オーディションのこと。

 年末に行われる進級審査と並行して行われるオーディションで、基礎科、本科、専科の事務所に所属していない全レッスン生が対象となる。

 審査対象人数はおよそ400強。

 だが、その審査を通過できるのは一クラスで平均3人。


 今の美優の実力では、通過できる可能性は無いに等しい。

 なのに、その一次審査を通過した先、二次、最終と進んで所属すると言い切ったのだ。


 森永さんは小刻みに頭を横に振って無理だ不可能だを伝えている。美優だって、今の自分の実力では箸にも棒にも引っかからないことなど百も承知。

 だけど、ここまで覚悟を示さなければしなければ、森永さんを引き上げられない。

 子どもなりに考えた上での決意だった。


「……なので、あたしが声優になったら、森永さんも声優やめないでください。死ぬまで。ずっと……!」


 なんて脅し文句だ。

 一年位内に事務所に所属するなんて、不可能じゃないか。


 口にする言葉と現実の乖離が激しすぎて、眩暈がする。

 有言不実行も甚しくて、泣き出したい。

 逃げたい。

 倒れそうだ。


 だけど美優はぐっと脚を踏ん張った。


 こんなボロボロなこの人に無理を言うんだ。

 あたしも自分の大事なものを差し出さなければならない。


「……でも、でもっ。もし、あたしが……あたしが一年で声優になれなかったら……。……森永さんもやめたらいいです……。廃業でも、引退でも……!」


 美優の覚悟を垣間見ながら、森永さんは眉尻を下げて今にも泣き出しそうな表情を見せている。が、途中から声を震わせ息混じりに言葉を紡ぎ続ける美優の様子に何かを察するなり、表情をぐっと固くこわばらせた。そして右手を地面に着いてゆらりと立ち上がる。


「……ダメだ……」


 背中に掛けていたパーカーがするりと落ちる。


「……やめろ……それ以上は、言うな……」


 美優は投げかけられたその言葉に、歯を食いしばって頭を横に振った。


「……やめない……! ……そのかわり、あたしも……っ」

「……言うな……」


 ばっと顔を上げた森永さんは、美優の強い意志のこもった瞳を見つめ、頭を振る。


「……言うな……それ以上は望んでないっ!」


 あなたが望んでなくても、あたしの夢を救ってくれたあなたを救えるカードはこれしかない。

 自分がもっと大人だったら、もっと最良の選択肢を思いつくのだろう。だけど、たかだか十五歳の小娘の手持ちカードなど、種類も限られてくる。

 その限られたカードの中でも、今のあたしにはこの手しか切れない。


 あなたと声優という仕事……いや、あなたとあたしを繋ぎ止めておくには、これしか切れるカードが無い。


 それは、来年の今、事務所に所属できなかったら――。


「その時は、あたしも、夢を――!!」

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