Act 2.5 似た者同士

Side Egg of Voice Actress

scene 1 声優の現実

 ミキサールームではこれから編集作業が行われるという。美優たちはロビーに出ると、各々踵を返して「お疲れ様でした」と室内に一礼し、扉を閉めた。

 そしてパタンと閉まる扉の音を聞くや、お互いの顔を見合わせながら安堵の息をつく。


「終わったねぇ……」


 最上さんが脱力気味に言うと、いつも姿勢の良い十時さんも今回ばかりは脱力気味に肩を落とす。


「緊張しまくったわ……」

「まぁ、なんにせよ無事に終わってよかったわね。これで先輩たちの威信もわたしたちの威信も保てたかしら……」


 そう言ったさよりさんの表情はまだ明るくない。

 無事、今回の収録が全部終わったと言っても、自分達はやっと及第点に届くか届かないかと言うところ。支倉音響監督から肯定的な言葉を貰えたとはいえ、オンエアに耐えうる演技ではないことは確か。

 皆、自分の実力不足を痛感していた。


 もちろん美優も、自分の実力ではまだマイク前に立てないと実感している。

 だけど、後悔だけではない感情もあって。

 マイク前を思い出すだけで胸が温かく高鳴る。


「でも、楽しかったよね」


 美優の言葉を聞いて、十時さんと最上さん、そしてさよりさんが驚いたようにお互いの顔を見回して、微笑み合った。


「まぁ、確かにな」

「……そうだね、なんだかんだ楽しかったよね」

「わたし、また四人でマイク前に立ちたいわ。その時はブースからいなくならないでよ? 美優さん」

「それは、音響監督次第なんじゃないかな」


 美優がそう返すと三人は、ぷっと吹き出して穏やかに笑った。


 数時間前にこの二重扉をくぐるまでは、ただ、アフレコの現場を見学するのだろうと思っていた。

 仮にそうであったなら、こんな学びも、悔しさも、絶望も、喜びも、味わうことはなかった。

 だがそれぞれの心には、電波に乗って日本中へと配信される作品の一欠片になれた経験が生み出した、新たな課題や目標が息づいている。

 そんな四人に声をかけたのは、ロビーの壁に沿うように並べられていた椅子に腰をおろした小倉さんだった。


「終わったかい。お疲れさん!」


 小倉さんの隣には星野さんが座り、田神さんと田島さんは二人の前に立ち。その奥には御門さんも手を振りながらこちらに笑顔を向けている。


「はい、本日はありがとうございました」


 先輩方にお礼を言いながら最上さんがそちらに足を向けたのを皮切りに、十時さん、さよりさんに続いて、美優も殿について先輩方の元へと向かった。そして、それぞれ担当についてくれた先輩にお礼の挨拶を述べ始める中、美優は自分の担当声優がその場にいないことに気がついた。


「あのっ」


 美優が思い切って声をかけた先は、御門さん。

 収録前、ことあるごとに美優を励ましてくれた。


「――収録中はたくさん勇気づけてくださってありがとうございましたっ」

「どういたしまして。藍沢さん、最後すごく良くなってたよ」


 そう感想を告げるとにっこり笑んだ御門さんに、美優は、

「ありがとうございます」

 と礼を告げると、あの、と彼女の顔を伺った。


「あの、森永さんは……」

「あー、森永さん……」

 と、誤魔化し気味に呟く御門さんの視線の先には、『studio cue』とステッカーが貼られたガラス扉が見切れている。


 もしかして、外? 


「ありがとうございます。森永さんにお礼言ってきます」


 声を跳ね上げながら小走りに下駄箱へ向かった。その時。

「藍沢さん、待って」

 と柔らかな声と共に呼び止められた。


 振り返ると先ほどまで椅子に腰を下ろしていた星野さんが、雑誌で見せるようなの柔らかな笑顔のまま、眉尻を下げて微かに頭を振る。

 わざわざ立ち上がって、美優を引き留めたのだ。何か深刻な状況なのかと悟った矢先。


「今は、行かないほうがいいかも……」

 と、外へ行くことを止められたのだ。


 星野さんが声を顰める理由は、曲がり角の向こうのみんなに悟られないためだろうか。


 いや、それとも。

 皆さんは知っているのだろうか。


 こんなシチュエーションでもなければ、人気声優と喋れたと飛び跳ねて喜んでしまうところだが、美優は切なそうな星野さんの表情を見つめ。


「……どうしてですか?」

 と、やっと絞り出せた言葉は、星野さんの行動原理がまだ理解できない証拠でもあった。


 星野さんは美優の純粋な問いに、困り顔で笑み続けていたが、

「……ごまかしても意味無いな……」

 と呟くとひとつ息をついて、続けてくれた。


「君も声優になりたいなら、もう一個現実を見せる必要があるのかな……」


 星野さんはため息混じりに苦笑すると、そっと携帯電話の画面を美優に見せてくれた。


「……多分、これが原因」


 覗き込めば、表示されているのは数時間前に配信された記事。

 先月にアニメ化が発表された戦記小説の主人公役の声優が決まったと言う報だ。


『グランセティディア物語 主人公の少年騎士グラン・セティー役に注目の若手・坂下晴矢が抜擢』


 東京ボイスアクターズ期待の最若手・坂下さんが、あの大作の主人公役を射止めたのだ。このニュースは声優ファンを大いに沸かせていることだろう。


「っ、坂下さんに決まったんですね。グランは絶対に坂下さんがいいなって思ってました」


 密かに、だが確かに跳ねた美優の声に間髪いれず、重ねられるのは、星野さんの少し重々しい声と言葉。

 

「……これ、森永もオーディションに参加したんだよ」

「え」


 息を引いて出た喉の音がロビーの布製品に吸収される。


「森永にとってこれが初めての主役オーディションで、俺もカズもアツも、この現場で演技プランとかキャラクター作りとか、意見を求められたから。ゆうちゃんもあゆちゃんも、みんな知ってるんだよ」


 森永さんが、並々ならなぬ思いでこのオーディションに挑んだことを。

 その一言に、なぜ、東京ボイスアクターズの面々がロビーの一角で溜まっていたのかを理解する。


 ブースを追い出された美優を黙って待ってくれていたさよりさん、十時さん、最上さんのように。誰一人欠けることなく、一人挫折感と戦っている森永さんが気持ちを立て直して戻ってくることを待っているんだ。


 星野さんの肩越しからロビーの奥を覗くと、所属声優の皆さんが心配そうにこちらを伺っていた、さよりさんと十時さん、最上さんもさわり程度の事情を聞いたのだろう。彼の気持ちに想いを寄せているようだった。


 そんなことも知らずに。

 森永さんの努力も知らずに。

 星野さんや小倉さん、田神さんや田島さん、御門さんの気持ちも知らずに。

 坂下さんが主演でよかったと口にしてしまったなんて。


 無意識に美優の手が口元を覆う中、星野さんは物言いたげに微笑みかけてくれた。そして今度はドアの向こうで揺れる影を憂げに見つめる。


「藍沢さん。キャストオーディションは、公式に決定発表が出て、初めて落ちたことを知るんだよ」


 それは何も若手だけではない。ベテラン声優だって同じように味わう絶望だ。

 たった一つの役を、新人からベテランまでが取り合うのだから、おそらくこの人気声優でもある星野さんも同じ傷に苦しんできたのだろう。


 挑んで、手が届かなくて、嘆き悲しんで、また立ち上がる。

 その前。


 その嘆き悲しむ瞬間に、美優は思いがけず立ち会ってしまったのだ。


 扉に目線を向ければ、中庭の街灯がゆれる。


 森永さん。

 今、どうしてる?

 何を感じてる?

 そこにいる?


 足先が無意識に扉を指し示す。


 今、あの人のそばに行けるのはあたししかいない。

 森永さんのそばにいてあげたい。


 だけど。

 あたしに、森永さんの痛みを受け止めることができる?


 そう自問自答する美優に、星野さんから投げられる問いは、さらに美優を揺さぶる。


「藍沢さん。君に、森永を受け止めることができるの?」


 同じ痛みを知らないあたしが。

 ジュニアコースから基礎科を飛び級し、少なからず期待をかけられている、あたしが。


 リテイクの自己PR審査で、このアフレコ見学を射止めたあたしが。

 せっかくもらった役を、自ら捨てようとした、あたしが……。


 自問して、美優はハッと息を呑んだ。


 そうか。

 だから森永さんは、あの時あんなに怒ったんだ。


 役を捨てるな。

 せっかく掴んだチャンスを手放すな。って。


 あたしが手にした役は、同じクラスの人たちが喉から手が出るほど欲しかった役で。

 坂下さんが手にした役は、森永さんが喉から手が出るほど欲しかった役で。


「……星野さん……あたし……」


 呟き始める美優の気持ちはとても重い。


「あたし、ユウを一度、手放そうとしたんです。……ユウを、捨てようと……」


 誰かが喉から手が出るほど欲しかった、あの子を。


「……だけど……森永さんにすごく怒られたんです。「ユウを捨てるな」って。……そして、いっぱいいっぱい励ましてもらったんです……。あたしがブースに戻ってこられたのは、森永さんのおかげなんです。じゃなきゃあたし……」


 きっとマイク前を楽しむことなんてできなかった。


 美優は星野さんへと向き直ると、泣き出したくなる気持ちをぐっと押さえながら告げる。


「まだスクール生のあたしが、森永さんの気持ちに寄り添える訳ないって解ってます。だけど、あたしは森永さんに救ってもらった。……あたしは、知ってしまった森永さんの絶望や悲しみを見殺しになんてできません。……行かせてください」


 美優の言葉に決意に、星野さんはさらに眉尻を下げた。

 行ったら怖い目に遭うかもしれないよ。そう言ってるようだった。

 だが星野さんは目を閉じて小さく息をつくと、ゆるりと微笑んだ。


「……そうだね。あの時俺は、総監督として自分が君を迎えに行こうと提案した。けど、森永はそれを蹴って君を迎えに行ったんだ。「オーディションであの子を選んだのは俺だから」って」


 そう言うと、星野さんは美優の肩をポンと叩く。


「俺が君を迎えに行ったら、多分君はこの見学をいい思い出として、声優になることをやめてしまったかもね……」


 ため息混じりにつぶやいた言葉は、美優の心にすんなりと落ちる。

 多分他の人声優さんが迎えにきたなら。

 いい子を演じてブースへ戻るものの、またリテイクで打ちのめされて、夢を捨ててしまっただろう。


「あの時、森永を行かせて正解だった。まさかずっと不安そうにしている女の子が、こんなに強くなってくれるなんて」

 

 星野さんは美優から目線を外し独り言のように呟き微笑むと、瞬き一回。今度はしっかりと美優を見つめる。


「そして君は選んだんだ。森永に寄り添いたいって。……森永のこと、頼んだよ」


 森永さんを心配する声優さんが、美優の背を押してくれる。

 今の森永さん寄り添えるのは、美優しかいないと。


 美優は信頼してもらえたことが嬉しくて、

「はい」

 とはっきりうなづいた。


 時刻は8時半。

 今度はあたしが森永さんに恩を返す番。


 しっかりした返事の後。

 美優は、下駄箱にしまっていたローファーを手にガラス扉の取手に手をかけると、ゆっくりと押し開いた。

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