scene 3 北原さよりという少女

 美優が振り向く先には、灰色のパンツスーツを着た女性と、清楚な小花柄のワンピースと淡いピンクのカーディガンを身に纏った少女がいた。

 声をかけたのは女性のほう。スーツ姿からして、おそらく事務所付きのマネージャーか、養成所担当の事務員だろう。

 少女の方は、美優と同い年……いや、二つくらい学年は上か。長い前髪をサイドに緩く垂らし、ふわりと開く大きな瞼に緩やかに上がった口角は、お淑やかで大人っぽい印象だ。


「あなた、本科土曜14時所属のレッスン生ですか?」

「はい、本科土曜14時クラスの所属です」


 女性スタッフに尋ねられて美優が答えると、彼女は僅かに表情を和らげて美優の近くへと歩み寄る。そして自分の後ろについてきた少女の背をそっと押した。


「ちょうどよかった。今日初めてレッスンを受ける方なんですけど……」

北原きたはらさよりです。よろしくお願いします」


 女性スタッフから紹介されると、少女――北原さんは丁寧にお辞儀をして、ふわりと笑んだ。花のような可憐で清楚な笑顔はもしかしたら、テレビで見るアイドルよりも可愛いかもしれない。

 声は決して特徴的ではないが、真っ直ぐ響く清らかな声質は、正統派ヒロインボイスそのものだ。


「あ、藍沢美優です。よろしくお願いします」


 美優も倣って頭を下げると、傍らの事務所スタッフが美優を見、申し訳なさそうに眉を下げた。


「本当は私の方でレッスン室まで案内する手筈だったんですけど、この後も別のレッスン生さんの案内が入ってしまって……。なので藍沢さん、北原さんをレッスン室まで案内して欲しいんですけど、大丈夫ですか?」

「っ、はいっ!」


 スタッフの申し出に、美優は思わず声を震わせて返事をした。

 事務所スタッフに名前を呼ばれたということ。それはすなわち、自分の顔と名前を覚えてもらったということで、役者として名を売るための第一歩を踏めたということ。

 そのうえ、自分を頼りにしてくれる。こんなことは後にも先にもないだろう。


 美優の意気揚々とした返事を聞いて、事務所スタッフはにこやかに笑んだ。そして扉まで歩を進めると擦りガラスの扉をそっと開け、

「北原さん、レッスン室は三階です。では二人とも、レッスンがんばってくださいね」

 と、ふたりを激励した。


「はい、ありがとうございます。失礼します」


 北原さんがお辞儀をしてロビーに出たので、美優も続いて頭を下げ会釈をした。すると、事務所スタッフはその会釈に笑顔で応え、静かに扉を閉めた。


 扉が閉まったのを確認して頭を上げた美優は「じゃぁ行きましょうか」と北原さんを伺いながらカーペット敷きの床を歩き始めた。そして辿りついた下駄箱前、一段下がったリノリウムの上に揃えた靴に足を通しながら「あのー」と声をかけた。

 聞きたいことがあったのだ。


「北原さんは――」


 すると北原さんは、ふるっと頭を振ると美優の言葉を遮った。


「歳も近そうだし名前で呼んで? 敬語もナシで。わたしは16歳の高校二年なの。美優さんは?」


 美優を早速名前で呼んだ北原さんは、下駄箱から綺麗なパンプスを取り出すとリノリウムの床にそっとおろした。そして靴に足を通した北原さんは、つま先を軽く小さくトントンとさせた。


「あたしは、15の高校一年で……一年」


 敬語が出そうになって言い直すと、北原――さよりさんは、ぱっと安堵の笑顔を見せて嬉しそうに声を上げた。


「あ、やっぱり歳近かった。あ、レッスン室って三階だったっけ?」


「うん。三階」


 美優は返事をすると、さよりさんは外階段に通じる扉に手をかけて開け放つ。すると桜の花びらを伴った風はふわりと、二人の髪を揺らした。

 さよりさんの綺麗な髪が陽の光に辺り、茶色く輝き出す。

 その髪を手で抑えながらさよりさんが先に階段を下り始めたので、美優も彼女の後を追って、そして、改めて彼女を伺う。


「さよりさんは今日初めてのレッスンなんです……レッスンなんだよね? それって、入所試験で本科合格したってこと?」


 敬語が混じって言葉が危うくなりながらも、美優はさよりに尋ねた。


 本科生で今日がレッスン初日。すなわち入所試験で本科合格を成しえていないとあり得ない。それを本人の口から直接聞いてみたかったのだ。


 さよりさんは振り返り、頷く。


「入所審査で本科志望して、合格したの」

「えぇ! すごいです!」


 予想通りの返答だったが、思わず感嘆の声が上がってしまう。


 基礎科の入所審査も受けたことはないが、先の進級審査を受験してもわかる。

 本科入所生に求められる資質は、もっと高度で繊細で緻密だ。


 さよりさんは軽くはにかんで謙遜するわけでもなく礼を言うと、でも、と続ける。


「そんなこと言ったら、美優さんだってジュニアコースから基礎科を飛び越えたんでしょ? 正直、クラスの最年少はわたしかなって思ってたし、基礎科を飛び越えたのもわたしだけだと思ってた」


 桜の花びらが蒼い空に溶けていく中、さよりさんはふんわりとした表情に自信家の顔をのぞかせて、三階フロアの扉に手をかけながら美優を見上げた。


「負けないわよ。お互い、がんばりましょうね」


 その柔らかな笑みと言葉の意味を、美優はまだ深く読み解けないでいたが、

「うん、あたしも負けない。一緒に頑張ろうね!」

 と、無邪気に返事をした。

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