scene 4 藍沢美優 VS 森永響
三階のフロアへと続くガラスの扉を開けた美優は、リノリウムの上で靴を脱ぎ、左手側にある下駄箱に靴を入れた。
扉から真っ直ぐ奥の部屋がレッスン室なのだが、今日はこの時間から電気が煌々とついていた。
もう誰かいるのか。
さすが本科生は意識が高い。
感心しながらもちらと下駄箱を見ると、男性用のスニーカーが一足、きちんと揃えて入っていた。
美優に倣って、さよりさんもパンプスを下駄箱に入れたが、ちらと後ろのスペースを伺った。
そこはパーテーションで仕切られた一角で、レッスン生の立ち入りは許されてはいない。
布製のパーテーションの隙間からは、南向きの大きな窓とガラスのテーブルが見えていて、今日はガラステーブルに置かれているレモンティーらしき淡いオレンジの液体が、キラキラと日の光を反射していた。
誰かいたのかな?
美優がパーテーションの隙間からそちらをチラと覗き見ようとした時、さよりさんに声をかけられた。
「美優さん、あの」
さよりさんは恥じらいながら続ける。
「……お手洗いの場所を教えてもらってもいい?」
「うん、大丈夫です……だよ」
油断すると敬語になってしまいそうになる口調を修正しながら、美優はレッスン室の方へと進んでいく。すると下駄箱の奥に、給湯室とお手洗いへと続く細い廊下が横たわる丁字路に行き着いた。
「あの奥がお手洗いだよ」
手を差し示して案内すると、
「ありがとう。美優さんは先にレッスン室に入ってて」
と、さよりさんはお手洗いへと向かっていった。
美優はその綺麗な背中を一瞥すると、いよいよレッスン室へと視線を向けた。
室内には本当に誰かいるらしく、影が左右に揺れていた。時折、腹式呼吸からのスタッカート「あ、あ、あ」の声や、ロングブレス「あー」という声が部屋いっぱいに響く。
明るい男性の声。
癖がなく素直で真っすぐで、耳にすんなりと届く声。
この声、好きだなぁ。
こんな早くから自主練するなんて、どんな人なんだろう。
美優は一歩二歩とレッスン室の扉へと進み行くと、磨りガラスの扉へと手を伸ばす。この伸ばした指が扉に触れれば、後はもう扉を開けるのみ。
ドアノブに手をかけドアを押すと、腹一杯に息を吸い込んで。
「おはようございます!」
扉を全開にして声を張った。
人口密度の極めて低いレッスン室の中に響くのは、甘く高めの自分の声。
三方鏡張りの部屋で美優の黒くて大きな瞳が捕らえたのは、鏡越しの自分の姿と、若い男性の後姿だった。
彼はくるりと振り返ると、ぱっちりとした明るい茶色の瞳で美優を捉える。蛍光灯に照らされキラキラ輝く茶色いアシンメトリーなショートヘアや、少し大きめなジップパーカーにジーンズも相まって、どこかあどけなくも見える。
彼は振り向き際こそ驚いた表情を見せたが、美優を見るなり人当たりがよさそうに微笑んだ。
「おはようございます」
さすがは声優養成所の本科クラスのレッスン室にいる人。挨拶の声もよく通っているし発声も発音も綺麗だ。
美優は会話を途切れさせないように、
「あ、あの、レッスンでご一緒させていただくことになります、藍沢美優です。よろしくお願いします!」
と挨拶をするなり、ばっとお辞儀をしてぱっと頭を上げた。
しかし、目の前の彼は美優の渾身のあいさつにキョトンとしている。それどころか、顎に手を当て首をかしげ、
「……レッスンでご一緒させていただく?」
と、美優の挨拶に対して、明らかに困惑の表情を浮かべていた。
いや。あの。
困惑してるのはこっちですよ。
名乗ったんだから名乗り返されるのが普通だと思っていたから。
彼の態度に拍子抜けした美優は彼と同じような表情を返す。
「はい……。レッスンで、ご一緒させていただきます、が……」
彼の言葉を反芻して、あれ、様子がおかしいぞと思う間もなく、目の前の彼の声で、こう聞こえたのだ。
「ここ、本科のレッスン室ですけど。階数をお間違えですか?」
美優が喉を鳴らした音は多分、声に出た。なぜなら、彼も同じように、ん? と喉を鳴らしてこちらを見ているからだ。
どうやらこのひと、美優のことを本科生だとは思っていないようだ。
「ここ本科のレッスン室ですよね?」
「ですよ」
「なら間違えてません」
彼の言葉を反芻して失礼のないように応えながら、自分の正当性を訴える。
しかし何科と間違えられたのだろうと考えるにつれて美優の表情が強張っていく。
もしかして、本科生だって思われてない?
外見が幼いから?
いやいや、身長は160センチメートルある。15歳女子の中では高い方。
服装?
いや、今日はレッスン初日だから、パステルグリーンのカーディガンに無地白ブラウス、ボトムは淡いブルーのチュールスカート。この服装はいつもよりは大人しいし、子どもっぽくはない。
断じてない。
なら、このノーメイクに近いナチュラルメイク? 前髪眉上ぱっつん姫カットと耳横ツインテール??
……雰囲気?
ぐるぐると思考を巡らせて混乱している美優に対して、彼は顎に手を当て何かを思案していたが、目線を余所に外して独り言のように、こう呟いた。
「そっか、本科生か。てっきり基礎科生かと――」
彼の棒読み口調が、さらに言葉を強調させる。
そっか、ほんかせいか。てっきり、きそかせいかと?
「はい?」
頭の中で彼の言葉を反芻して、今度は脊髄反射でしっかり声に出た。そんな美優の返事に触発されたのか、彼はくりっとした目を意地悪く細め、口角を上げながら美優を伺う。
「うっかり者の基礎科生が、書類に書かれていた階数を間違えて、上がってきたのかと」
「はぁ?」
ワザとだ! ワザと言ってる!!
彼のどぎつい念押しに美優の勘がさえわたったが、両手で口をふさいでここはぐっとこらえる。こんなスタートのスタート、まだ始まってもいない段階で『クラスメイトに何か言われて噛みついた』なんて悪評がついたら、この先業界で生きていけない。
声に出して「はぁ?」って言ってしまったけど、まだ間に合うはず……!
これからなるべく理性的に接しようと考えながら、美優は短く息を吐いて相手と対峙する。
「……開校日、4月X日土曜日。本日ですよね?」
「ですね」
「ここ、東京ボイスアクターズのビル、3階。ここですよね?」
「ここです。間違いなく」
「14時クラス。今からですよね?」
「はい。14時クラスはこれからです」
「本科土曜14時クラス。全部プリントに書いてあり、覚えてきました」
間違えるはずがありません、と美優は口を尖らせた。
養成所から進級審査の結果が届いて以来、あの文書に目を通さなかった日はなかった。何度も何度も見返して、本科に進級できた幸せを噛み締め、これからもがんばろうと決意した。
絶対に声優になるんだ。
声優になったら、『あの人』に直接お礼を言うんだ。
いちファンと声優の立場ではない、対等の立場で――。
なのにあたしは、なんでこんなに必死になってこの人に『自分は本科生です』だなんていう証明を繰り広げているんだろう。
あの文書さえ手元にあったら取り出して見せつけるのに。
対して相手は、目の前で大層必死に猛アピールを繰り返す少女を見つめて逐一返事を返していたが、ふと目線を上に上げた。
レッスン室に掲げられた時計だ。
美優からは正面の鏡越しに反転して見える――。はっと振り返って扉の脇の掛け時計を見ると、長針が水平になっていた。
13時45分。
レッスン開始15分前と言ったら、普段ならもう着替えて柔軟体操をしている時間だ。
こんなところで言い争ってる暇はないし、これ以上この人の相手をしている場合ではない。
「では改めまして、よろしくお願いします」
美優は着替えが入ったトートバッグの肩ひもをぎゅっと握ってぺこり一礼し、会話を切り上げようと踵を返した。
それなのに彼は「ちょっと」と美優を呼び止め、続ける。
「女子はどこで着替えるか知ってますか? あちらのロッカーの――」
「裏に着替えの空間があることも、荷物置くスペースがあることも、存じてオリマスヨ」
振り返りざまに良い笑顔を作って言葉を返す。ジュニアコースと階は違えど、基本的にレイアウトは同じなのだから、美優が知らないはずがない。
だが、彼はまたきょとんとしている。
「……まだなにか?」
少々語尾を強めて訝し気に伺うと、彼はまた顎に手を当てるや否や、はっと顔を上げた。
「あ、継続受講だったんですか。てっきり、基礎科生が階を間違えたかと……」
「そのくだりはさっきもやりました! 何度同じところをループする気ですか! あなたのボケは永久機関なんですか!?」
思わず声を荒らげた美優は、しまったと口をふさいだ。
イやな奴とはいえ、あきらか年長者に突っ込んでしまった。
レッスンもまだ始まってもいないスタートのスタートで『レッスン生のボケに突っ込んだ』なんて悪評がついたら、この先業界で真っ当に生きていけない。
そう考え青ざめる美優に対し、相手はあちらを向いて肩を震わせている。
鏡に映った正面顔を見なくてもわかる。
笑いをこらえているのである。
……遊ばれてる! この人あたしで遊んでる!!
美優はいまだ肩を震わせている彼をじっとりと睨んだ。
初対面のレッスン生にこんなにいじられる理由など、美優には到底解りかねるからだ。
対して彼は、さっきから笑いが止まらないようで、声を漏らしながらフルフルと肩を震わせ続けている。
もう、こういう失礼な手合いは無視するに限る。
せっかく数週間ぶりに大好きな元講師に会えたというのに、養成所も事務所も期待もしてくれているってわかったのに。
こんなところで揶揄われて微かなプライドをへし折られて、悔しくないわけがない。
美優の怒りは徐々に悔しさに変わる。そのうち、悲しみになってしまうのはいつものことだ。
相手があちらを向いている隙にロッカー裏に避難しようと、美優が眉間にしわを作りながら抜き足差し足で後ずさっていると、不意にドアが音を立てて開き、彼の意識がハッとそちらを向く。
レッスン室の入口に立っていたのは、さよりさんだった。
さよりさんは彼と目を合わせると、丁寧に頭を下げた。
「おはようございます。本日からレッスンを受けます、北原さよりと申します」
北原さんの可憐で丁寧な挨拶に、彼も小さく頭を下げる。
「おはようございます」
返ってきた挨拶を聞いたさよりさんは彼に軽く会釈し、美優の隣へと駆け寄ってきた。
「美優さん、お待たせ……ってどうしたの? 何かあった?」
問われて美優はフルフルと頭を横に振る。眉間にしわを入れながら口を尖らせていたのを見られたか……。
心配させまいと、
「ううん、なんでもないです……よ」
と笑って見せるが、またまた変に敬語になってしまって、さんの向こう側で彼が微かに吹き出した。
これも睨みつけ案件だし噛みつき案件だけど、聞こえなかったことにする。
聞こえなかったといえば。
レッスン室の壁は厚い。とはいえ扉はガラス一枚。
さよりさんにこの不毛なやり取りを聞かれていたのだろうか。
「あの、さよりさん。聞いてまし……た?」
美優が尋ねると、さよりは一瞬だけ小首をかしげた。
「何を?」
「……ううん、なんでもない」
尋ねられて美優はまた笑んで見せた。その笑みと入れ違いで、ぱたんと扉の閉まる音が聞こえた。
「あれ、あの人出てっちゃった?」
扉の音に反応して振り返ったさよりさんが独り言のように呟くが、対する美優は安堵の深い息をついた。
あの激しいやり取りを誰にも聞かれていなかった。
さよりさんにも、だれにも。
それだけが救いだ。
ひとまず安心と胸をなでおろした美優は、扉を見つめる彼女に声を掛けた。
時計を見れば、レッスン開始10分前。
彼と入れ違いで続々とレッスン生がレッスン室へと入ってきていた。
「さよりさん、着替えしちゃいましょ? あの人なら、すぐ戻ってくると思う」
ジーンズでレッスンを受けるわけには、いかないんだから。
そう言ってみたものの、彼はレッスン開始時間になってもレッスン室に入ってくることはなかった。
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