scene 5 初課題は自己PR

 本科土曜14時クラスのレッスン生は、男性8名、女性8名の計16名。開始五分前にレッスン着に着替え、ストレッチや発声練習などをして体と喉をを温めていた。

 

 14時になり、レッスン室に入ってきたのはハンチング帽とベストが似合う小太りの中年男性。このクラスの担当講師・酒井さかい雅之まさゆきさん。舞台俳優で、大手ミュージカル劇団で数々の舞台を踏んできたバイプレーヤーだという。


 彼の自己紹介を聞いたのちにレッスン生が行ったのは、養成所全クラスで行われているストレッチ運動と呼吸法、そして発声法。それらを一通りこなしていると、あっという間に1時間が経過する。

 レッスン生たちは次の課題開始までの間、休憩をとっていた。


 美優も床に座って水分を摂っていたが、少し背筋を伸ばして誰かを探すように辺りを見回していた。


 誰か。

 それは、レッスン開始前に自分と一悶着あっただ。


 よくもこの本科生を引っ捕まえて、基礎科だと罵ってくれた。


 なので、が近くにいたら離れるし、極力関わらないようにする。

 今後課題でペアになるときも、絶対に一緒には組まない。

 本科レッスン最後の最後まで避け続けてやる。


 そう意気込んでいたものの、レッスンが始まって1時間。

 はどこにもいなかった。


「あの人、いないね」


 突然、隣で水分補給をしていたさよりさんが呟いたので、美優は思わず肩を揺らしてしまった。


「あああ、あの人って……?」

「レッスン前に美優さんがお話してた人。あれ? 探してるんじゃないの?」

「べべべ、別に、あんな人探してなんかっ……!」


 口をとがらせて抗議をするが、後の祭り。さよりさんはくすっと笑っている。


「きょろきょろしてたから、てっきり探してるのかと思った」


 図星を指された格好だ。

 そんなに意識していたつもりはなかったのに……。


 さよりさんは、ごめんね、と小さく詫び、そういえば、と話を切り出した。


「本科のレッスンって何をするの? マイク使ってアフレコとかやるの?」


 声優養成所は世の中にたくさん存在し、基礎科相当からアフレコ実習を取り入れている養成所もある。しかし東京ボイスアクターズスクールは違う。


「マイク実習は専科に進級してからだって、前の先生が言ってた」


 美優が自分が知りうる情報を伝えると、新たな単語の出現に、さよりさんが食いついた。


「専科って、事務所所属者とか、所属相当実力がある人のクラスよね」

「そう。本科までは『声優の前に俳優であれ』って感じで、実際に体を動かしたりする実習が主だよ。専科でやっと『声優』としての技術や知識を学べるの」


 東京ボイスアクターズスクールは、『声優』を育成する前にまず、『俳優』を生み出すことに力を入れている。


 美優の説明にさよりさんは顎に手を当て、うんうんと頷いた。


「……いい声優になるには、まず、いい俳優になれって理念なのね……。なるほど……」


 と、さよりさんが頷いている間に、レッスン室に酒井講師が入ってきた。それはすなわち、休憩時間の終わりである。立っていた者はその場に腰を下ろし、座っていた者は彼に体を向けた。


 酒井講師は全員が自分の方を向いたことを見届けると、コホンと咳ばらいをした。


「えー、今日は本クラス初日でもある。本来であれば今から課題のプリントを配布し、ペアを組んだ後にさっそく演技プランの擦り合わせと発表……と行きたいところだが、急遽、事務所所属声優と事務所マネージャーがこのクラスの見学をされることとなった」


 酒井講師が大きな声で告げた『事務所所属声優とマネージャーが見学する』というフレーズに、レッスン室内が微かに騒めき立った。

 プロとして事務所に所属している本物の声優と新人発掘も行うマネージャーが、レッスン初日に直々にレッスンを見学してくださるというのだ。

 だが、その騒ぎも微かであるところはさすが本科。

 これがジュニアコースだったら、この時点で皆キャーキャー声を上げているところでもあるし、そもそも予科クラスにこんなチャンスがあるわけもなく。


 これが本科か。


 すごいな。と美優は感心するが、その関心はすでに別のところに移り行く。


 この教室にお出ましになられる雲上人声優が、誰なのかということだ。


 声優と一言で括っても、失礼な物言いだがピンからキリまでいる。アニメにも洋画にも出演し、ナレーションもでき、ラジオでは冠番組を持ち、歌手デビューまで果たし、その声が世に流れないクールはないほどの人気声優もいれば、声優以外のバイトに明け暮れ、めったに声の仕事をできない声優もいる。

 件の声優は、直々にレッスンを見学されるのだから、それなりに時間に融通の利く新人か若手の声優だろうと読む。それでも、名を知っている声優が来たらいいな。と思ってしまうのは人の常。

 もちろん美優も、知ってる声優さんがきたら嬉しいと思っている一人だ。


 周りを見れば、平然を装っているレッスン生もいる。しかしこのレッスン室にいるほとんどが、声優の演技を見て聴いて感銘を受けた上で声優を志し養成所に通っているのだ。内心は、このレッスン室に入って来る声優が誰なのか。期待に胸が膨らんでいるに違いない。

 そんなレッスン室内の騒めきをよそに、酒井講師が磨りガラスの扉を開けてレッスン室に招き入れたのは、紺のパンツスーツ姿の女性とパーカーにジーンズというラフな出で立ちの男性だった。


 あ!


 本物の声優の登場に色めきだった囁き声が漏れる中。異質な大声を上げそうになって、美優は慌てて手で口を覆った。


 酒井講師の隣に立ったのは、ぱっちりとした明るい茶色の瞳にアシンメトリーなショートヘアの男性だった。 


 ……あの人、知ってる……!


 あれは忘れもしない30分前。

 レッスン前に美優を基礎科と言い、不毛な問答を繰り広げた相手。


 どおりで!

 どおりでレッスン生の中に姿を見かけなかったわけだ。


 レッスン生じゃなかったんだから。


 美優は目を細めつつ眉間にしわをたくさん作りながら彼を見つめる。

 知っている声優のお出ましならば控えめにミーハー心を爆発させていただろうけど、今やそんな気持ちすら湧いてこない。


 レッスン生ではないなら、あの人は何だ?

 マネージャーか? 声優か?


 美優は女性に目を向けた。長い髪を後ろで一つにまとめ、綺麗めのパンツスーツをしっかり着こなした、穏やかそうな顔つきの女性。

 しかし、インターネットや声優雑誌などでは全く見ない顔だ。


 だけど男の方もメディアでは見たことがない。


 この道を志して以来、贔屓にしている声優雑誌は毎号買うことにしている。

 好きな小説やコミックスのアニメ化となれば、メインキャラや推しキャラの声優は、公式サイトにまで赴いてチェックしている。


 なのに、どちらの顔も知らなかった。


 今のところはどちらが所属声優かはわからないが、もしかしたらスーツ姿の女性が声優で『レッスン生の前に出ていくんだから、きっちりした衣装で来るように』と事務所側に言われたのかもしれない。


 そう考え、いや待てよ。と思考を止めた。


 伊坂先生に本を返しに行った事務所内、養成所講師以外のスタッフさんはほぼスーツ姿だった。


 声優とマネージャーのご登場に色めき立ったりしている他のレッスン生達の中、美優は一人で勝手に気まずい空気を纏い俯いていたが、静か顔を上げた。

 そろそろが何者かがわかる時がやってくるからだ。


 酒井講師がふたりに自己紹介を促すと、彼らは揃って一歩前に出る。そして先に口を開いたのは、スーツ姿の女性だった。


「おはようございます。東京ボイスアクターズでマネージャーをしております、高崎たかさき颯子そよこと申します。みなさん、よろしくお願いいたします」


 丁寧な口調で名乗った女性――高崎マネージャーはきれいな所作でお辞儀をしたので、レッスン生も「よろしくお願いします」と声を揃え、頭を下げる。

 それを見届けた高崎マネージャーは半歩引き、続いて口を開いたのは、あの人だった。


「おはようございます、はじめまして。東京ボイスアクターズ所属の声優、森永もりながひびくです。昨年度末に無事新人期間を終えまして、この四月から正式に所属となりました。僕も一年前までは皆さん同様にこの養成所で学んでいました。今日は皆さんのレッスンの様子を見学させていただくこととなりましたので、どうぞよろしくお願い致します」


 ――森永響のしっかりとした自己紹介にレッスン生が声を揃えて「よろしくお願いします」と返事をする中。

 美優だけは人知れずあんぐりと開いた口を手で覆い、そしてそのまま顔まで覆ってしまう。


 やっぱりの方が声優だった。

 というか、自分が通う養成所の母体事務所に所属する声優の顔すら知らなかったなんて……。


 そもそも東京ボイスアクターズは、数百人規模で所属声優を抱える大手事務所。それ故に知らない声優が所属していても無理はないし、他のレッスン生たちも初めて森永響を知ったという人も多いだろう。


 だけど所属声優に向かって、『レッスン生』はなかなかの失礼だ。

 そりゃ機嫌悪くなるよ。


 穴があったら入りたい。

 今すぐ森永響が自分を認識しない世界に行きたい。

 こういう『現実世界から消えたい』と願った時こそ、異世界転生させてくれよ。とさえ思う。


 一方の森永響といえば。

 美優の落胆など全く意に介していないようで、レッスン室の床に座るレッスン生たちにお辞儀をして、爽やかな笑顔を見せていた。


 逆に、それがせめてもの救いだ。


 目が合ってしまったら、その場で息の根が止まってしまっていたかもしれない。


 そんな美優の意識をレッスン室へと戻したのは、酒井講師の手拍子一拍。


「ということで早速だが、お前たちには俺と森永くん、そして高崎マネージャーの前で自己紹介がてら、1分間の自己PRを披露してもらう。普段ならば申告順に発表してもらうところだが、今回はこちらからの指名順の発表となる。順番は昨年度本科、昨年度基礎科二年目、基礎科一年目相当の順だが、その括りでいつ呼ばれるかは完全ランダム。今のうちにしっかり話す内容を考えておくように」


 酒井講師からの本科最初の課題説明に、レッスン室内の空気がピンと張りつめる。


 講師と声優とマネージャーの前で発表だなんて、売り込みの大チャンスだ。これは逃す手はないと静かに闘志を燃やすレッスン生もいれば、平常心のまま聞く者もいた。

 美優はといえば、やはり内心穏やかではない。

 

 森永響の前で、自分をアピールしなければならないのだから。


 レッスン室の隅には会議机が一台と、パイプ椅子が数却がそれぞれ折りたたまれていて、それに近い場所に座っていたレッスン生が自主的に立ち上がった。そして会議机とパイプ椅子を展開し、三人が座れるようにセッティングを終える。


 レッスン生たちも発表スペースを開けるため、展開された会議机の両側へと移動する。

 美優もさよりさんと一緒に移動し、集団の隅の方に座った。


 その傍らでは、酒井講師が、ホワイトボードにマーカーで文字を綴っていた。


 本名。

 年齢と職業or学年。

 出身県・在住県。

 前年度のクラス(基礎科一年目/二年目・本科etc)。

 芸歴(芸能活動をしている者orしていた者)。

 以下自由。


 これからの課題で披露する内容だ。


 酒井講師は机と椅子を設置し終えたレッスン生に礼を言うと、高崎マネージャーと森永響に椅子に掛けるように促した。するとふたりは軽く会釈して椅子に腰を下ろし、各々鞄やファイルから筆記具を取り出し始める。

 森永響は最後に鞄からペットボトルを取り出して、丁寧に机に置いた。

 中身はレモンティー。

 パーテーションの向こうにあったのは、あのレモンティーだったのか。

 黄味が強いオレンジ色がキラキラと反射して思わず見とれてしまった美優の意識を、酒井講師のハスキーボイスが遮った。


「あと1分で開始するぞ」


 その言葉に少々ざわついていたレッスン室内が、またしんと静まり返り、各々が自分の課題に取り組み始める。ある者は紙にペンを走らせて話す内容を整理し、またある者は、あらかじめ作り上げたのであろうPR文を頭の中で静かに暗唱している。

 美優も森永響から目を外した。そしてジャージのポケットからメモ帳とペンポーチを取り出すと、メモ帳の真新しいページを開く。


 自己PRの発表順は、前年度の所属クラス。ということは、自分はジュニアコースだから基礎科相当の部類に入る。だけど、その括りの中でいつ呼ばれるかはわからない。真っ先に呼ばれる可能性も最後になる可能性もある。


 だけど今は、どのタイミングで呼ばれてもいいように、心を動かすより頭を働かせる時と、美優はジュニアコースの課題で自己PRを披露したときのことを思い出す。


 自己紹介と自己PRは違う。

 自己紹介は、自分の人となりを伝える行為。

 対して自己PRは、いかに自分という人間が魅力的かをわかってもらえるように宣伝する行為。

 相手に『自分という人間を好いてもらって、選んでもらうか』。

 それが重要だ。


 そう教えてくれたのは、ジュニアコースの担当講師であった伊坂先生だ。


 伊坂先生は美優に言った。


 期待してるぞ。


 美優は数時間前にかけてもらった言葉を心の中でリフレインさせながら、頭の中で発表する内容を組み立てる。それからは発表の時間内にまとまるように内容を削ったり、話したいことは肉付けしたりする。

 発表時にメモは見ることはできない。だから伝えたいことはしっかりと頭の中でキーワードとして紐づけておく。


「よし、1分経過」


 酒井講師の声がレッスン室内に響き渡り、一番最初に呼ばれたのは昨年度も本科の男性であった。年齢も若くもなく上でもなく、名字の五十音も『あ』でなければ『わ』でもない。

 発表順は本当に完全にランダムのようだった。


 自己PR課題は、全て話し終えるか、話し始めて一分が過ぎると、酒井講師が手を一つ打って発表を締める。そしてダメ出しをしつつ良かった箇所をほめて次の発表者へと交代となる。


 昨年度も本科だったり基礎科二年レッスン生は、今まで何度も自己PRを発表してきたのだろう。自分の強みを明文化した、明朗明確な発表を披露していた。

 それを酒井講師も高崎マネージャーも森永響も真剣に聞いている。


 皆の発表を聞きながら、美優は思う。


 あたしを本科に進級させてくれや養成所の事務局や、本科進級を喜んでくれた伊坂先生の期待に応えるためにも、しっかりやらなきゃ……。


 それが誰の前のスピーチだろうと、気まずい人物の前であろうと。


 真剣な眼差しで発表者を見つめる美優は知る由もない。

 森永響が一瞬だけ横目でちらりと自分を見るや口、の端をかすかに上げたことなど。

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