Side Egg of Voise Actress

scene 2 藍沢美優という少女

 土曜昼下がりの山手線鶯谷駅。

 美優は耳の後ろで結ったツインテールを揺らしながら南口の改札を抜けると、軽快に跨線橋を渡り切った。

 ここは首都の大動脈沿路線の駅前ということもあって、人通りはそれなりにある。しかし、眉のちょっと上で切りそろえられた前髪のおかげで視界は良好。歩道をゆく歩行者を驚かせないように目的地へと向かって走っていた。


 大通りを超えて少し南下すれば、入谷口通りのすぐ先に見えるのは養成所のビル。

 彼女の鼓動はさらに跳ねた。


 あたしは今日から、大手声優養成所・東京ボイスアクターズの本科生。

 どんな課題をやるんだろう。

 先生はどんな人なんだろう。

 新しいクラスメイトはどんな人たちなんだろう。


 期待と不安が交錯する。


 ちらりと腕時計を見れば、時間は13時20分。まだ急ぐほどの時間ではない。

 しかし彼女にはジュニアコース所属時からの日課があった。


 それは、誰よりも早くレッスン室に入り、あらかじめアウェイな場所を自分のホームにすること。

 誰よりも先にレッスン室に居て、軽く掃除をするなりストレッチや発生練習で体を温めるなりしていると、後から来るレッスン生と否応なく顔を合わせ挨拶を交わすことになる。するとそのうち、他のレッスン生も掃除と発声練習、ストレッチの輪に入ってくる。


 美優はこうして、ジュニアコースで友達を増やしていった。


 こう見えて、人見知りの気がある。今も少しの不安が美優の足を止めようとする。

 だからなおさら、弱い自分を律する必要があったし、何より常に『声優になる』という希望と野心を燃やし続けることによって、美優は自分の気持ちを奮い立たせていた。


 入谷口通りを入れば、ビルはすぐそばにそびえ立っていて、ビルの脇の植え込みの中ではテナントの案内板が進む先を教えてくれる。


 一階から四階は東京ボイスアクターズスクールの名が、五階に養成所の母体組織である声優芸能事務所・東京ボイスアクターズの社名が書かれていた。以前、誰かから聞いた話によれば、六階には所属声優のための勉強会の教室があって、七階は少し大きなホールになっているらしい。

 この建物の一階はジュニアコース専用のフロアで、三月までは美優もそこでレッスンを受けていた。そして二階が基礎科で三階が本科、そして四階が専科専用のフロアとなっている。


 今月からは――と、美優の黒々とした大きな瞳が見据える先は、主に本科専用のフロアである、三階だ。

 いざ三階へ! と意気込むその前に、美優には立ち寄る場所があった。

 それは、五階にある、事務所のオフィス。そこは養成所生はめったに立ち入ることができないフロアではあったが、美優は前年度の担当講師から特別に許可を得ていた。

 それは、担当講師から『声優を志すうえで大事なことがたくさん記されている』と貸していただいた大切な本借りていた本を返すためだ。

 

 五階までは建物の中のエレベーターに乗れば楽に行けるのだが、養成所生のエレベーター使用は原則として禁止されていた。なので美優は、今まで一歩も足を振り入れられなかった外階段を登り始めた。

一段一段と段を登るたびに、緊張で心臓が早鐘を打つ。それを落ち着かせるため、深呼吸をしながら階段を踏みしめてゆく。

 

 階段を登っていると、時折春の風に舞い上げられた桜の花びらに追い抜かれる。

 夢という名の蒼穹へと登っていく桜の花びらはまるで自分みたいだと、美優は嬉しくなった。


 桜の花びらが空へと舞い上がるのを追いかけながらも、三階を通り越して五階までも息切れなく上がってこれた。これは幼少のころから習っている弓道と、日頃の自主練で行っている呼吸法や発声のおかげでもある。


 美優は、外階段とフロアへと隔てる曇りガラスの扉で立ち止まると、深く息を吸いながら扉を開けた。すると、まず目に飛び込んでくるのはロビーの壁一面に貼られているポスターだった。テレビアニメのポスターはもちろん、劇場アニメ、洋画、ドラマCDにラジオのポスターが、整然と掲げられていた。すべて東京ボイスアクターズ所属の声優が声の出演をしている作品だ。奥には、一見声優の仕事とは関係ないようなバラエティや報道番組などのポスターも張られている。これはナレーションを担当している番組だろう。

 中には声優本人のポスターもある。これは人気声優になって歌唱も得意であると、CDを発表する機会もあるからだ。


「はぁぁー。すごい……」


 ポスターがずらりと並ぶロビーを眺め、美優は思わず感嘆の息を吐いた。


 自分もいつかこうして出演作のポスターを張ってもらえるかなぁ。

 もらえたらすごいな。

 がんばろう。


 静かに決意を固めていると、燦然と並んだポスターの奥に扉を見つけた。その扉の窓ガラスにはカッティングシートの切り抜き文字で、こう記されている。


 東京ボイスアクターズ


 それは声優マネジメントオフィスの扉であり、まさに関係者しか入ることができない、夢の扉。


 美優はリノリウムの床でパンプスを脱ぐと、振り返って靴を揃えた。そして踵を返すとカーペットの床をそっと踏みしめて廊下を進んでいく。

 廊下を進みながら壁の貼られたポスターを眺め、この廊下を何人もの声優が行き交ったかを思うと、許可は得ているとはいえなおさら胸が高鳴った。


 自分もこの廊下を自由に行き来できるようになりたい。

 そう心に思いながら美優は、いよいよ事務所の扉まで辿り着いた。銀色のハンドルに手をかけながら深呼吸を繰り返し、最後の一呼吸は素早い吸気。


 業界のあいさつはいつでもどこでも『おはようございます』。

 挨拶をし終えたら所属クラスと名前を告げて、呼び出したい人の在室を聞く。用件は尋ねられたら答える。


 頭の中でしゃべる言葉をシミュレーションして、美優はドアを開けた。


「おはようございます」


 明るく甘やかな声が、オフィスいっぱいに響き渡る。

 室内にいた人たち十人程度が一斉に美優を見たが、

「本科土曜14時クラス、藍沢美優です。ジュニアコース担当の伊坂講師はご在室でしょうか?」

 と、シミュレーションしていたことを全部言い終えた。

 緊張でほほがあつい。


 するとスタッフさんが動き始める前に目当ての人物は、広い事務所のさらに奥の扉を乱暴に開けて飛び出してきた。

 前年度、美優が所属していたジュニアコースの担当講師であり、東京ボイスアクターズ所属のベテラン声優・伊坂いさか時生ときお先生だ。


「先生!」

 数週間ぶりの恩師に、美優の表情はパッと明るくなる。

 対する伊坂先生は、驚き一瞬前みたいな表情。

 慌てて飛びてできたのだろうか、腕に抱いた書類やファイルはてんでバラバラ、整っていない。その上、まっすぐに元教え子を凝視しながら歩いてくるものだから、やや細身の体をあちこちにぶつけてこちらへやってきた。


「伊坂先生。おはようございます」

「あ、あぁ、うん。おはようさん……」


 目を見開きながら小刻みに頷く伊坂先生の様子は、何やら少し異様だったけど。


「昨年度末に貸していただきました御本をお返しに来ました」


 美優は肩にかけていたトートバックに手をかけ、着替えやらなんやらたくさん入った袋から目当てのものを手繰り寄せていると、伊坂先生にガシッと肩を掴まれた。


「……! 先生?」


 急に肩を掴まれ、美優はかすかに肩を震わせて伊坂先生を伺った。いつもは愛嬌のあるファニーフェイスが、今日はちょっと、いやかなり様子が違って見える。


「……藍沢……ささ、さっき、なんて……なんてった?」

「? お借りしていた本を――」

「ちゃうちゃう! その前っ! 所属クラス、なんてった……?」


 伊坂先生の食い気味の質問にたじろぎながら、美優は尋ねられた答えを伝える。


「……本科土曜14時クラス……ですけど」

「……本科!?」


 腹式呼吸から発せられた驚きのハイトーンボイスが、事務所内いっぱいに響く。


「はい、おかげさまで、本科生です!」


 美優が誇らし気に答えると、美優の肩から手を離した伊坂先生の表情が、驚きから喜びに変わっていく。


「え、ええぇ! ま、まじか本科生か!!」


 伊坂先生の表情は目まぐるしく変わっていく。美優を見下ろしながらそっかそっかと何度か繰り返し、今度はうんうんと何かを肯定的に納得したように頷いて、

「ジュニアコース初の快挙は、藍沢だったんだなぁー」

 と、教え子の飛躍に喜びをかみしめながら独り言ちた。


 その『飛躍した教え子』はいまいち話の状況がつかめずに戸惑っていたが、

「あの、先生。……初の快挙、とは?」

 と尋ねた。すると、はっと現実に戻ってきた伊坂先生は苦笑いを浮かべた。そして、ごめんごめん、と美優の頭をポンポンと撫でる。


「去年、『ジュニアコースは基本的に基礎科へ進級する』って教えたと思うんだけど、実は、本科への飛び級の道も閉ざされてはいないんだ。けどな、ジュニアコースから基礎科への進級は簡単。でも、本科への進級ってのは本当にハードルが高くて、今まで誰も成しえてなかったんだ」


「はい……」


「で今年、スクール史上初めてジュニアコースから本科への飛び級が出たーっつって、事務所でも噂になってたんよ」


「……史上初、ですか?」

「そ。俺たち講師は担当レッスン生の審査結果は教えてもらえないから、だれだろなー。俺のクラスの誰かだったらいいなぁ、そうだったら誇らしいなぁ。って思ったわけ。そしたら、藍沢の声が聞こえて入ってくるなり『本科』って名乗るじゃん! 俺もう、うれしくってうれしくって!」


 真っ直ぐに喜びを表現していた伊坂先生は、ポンと美優の肩を叩いた。


「藍沢はやる気も演技力もある。そのうえその特徴的に可愛い声は声優としてやっていく上で大きな武器になる。養成所の事務局も声優事務所も、藍沢に期待してる。もちろん俺もな」


 ――皆から期待されている。

 声優を志しているものとして、これ以上の嬉しい言葉はあるだろうか。


「……っ、はい。がんばります! ありがとうございます!」


 嬉しさのあまり満面の笑みを浮かべて美優は頭を下げる。と、今だ鞄に入りっぱなしの本の存在を思い出した。


「で、先生。お借りしていた御本をお返しに参りました」


 先ほどと同じようにトートバッグの中を探れば、美優の指先に当たるのは透明ブックカバーのつるりとした感触。

 それは新書サイズの本。東京ボイスアクターズ所属の大ベテラン声優が執筆した本で、自身の新人時代のエッセイから声優になるための心構えまで、内容盛りだくさんで記された本。


 片手で取り出した本だったが、もう片手を添えてそっと差し出す。


「ありがとうございました」


 伊坂先生は美優が差し出した本を、片眉を下げながら屈託ない笑顔で受け取った。


「律儀だなぁ。養成所在籍中だったら返すのはいつでもいいって言ってたのに」

「あたしも、もっと借りてようかなって思ったんですけど、自分で買っちゃいました」


 それに。と続けた美優は、この本の表紙を初めて開いた時に見つけたものがあった。それは、表紙裏に記された達筆な筆記で記されていた大御所声優のサイン。


「この御本は先生にとって大切なものだと思ったから」


 サイン上部に『伊坂時生くん江』と記されたサイン本は、先生にとっては聖書に違いない。


 伊坂先生は今一度くしゃり笑むと、受け取った本を胸に引き寄せると、反対の手で美優の頭をくしゃりと撫でた。

 それは伊坂先生がレッスン生をほめるときや励ますときにするしぐさ。


「……本当に律儀だなー。ありがとな」

「はい!」

「んで、本科もがんばれよ。何かあったらいつでも……とはいかないけど、相談に乗るから」


 去年は何度、この笑顔と言葉と温かい手に励まされてきただろう。

 懐かしさとともに込みあげてくるのは、寂しさ。

 もうこの人に褒めてもらえる機会も、そうそうないだろう。

 だけど心配をかけるわけにはいかない。


 美優はいっこ大きく頷いた。


「はい、ありがとうございます! では、レッスン前ですので失礼いたします!」

「あぁ、がんばれよ! でも、がんばりすぎんなよ。楽しんでいけ」

「はい!」


 頭にあった手が今度は背に降りてぽんぽんと背を叩く。


 伊坂先生も事務所も、事務所も、あたしに期待してくれてるんだ。

 ならなおさら気を引き締めて、これからのレッスンに臨もう。


 資料作りがまだ残っているという伊坂先生が奥の部屋へと戻るのを見送って、美優は事務所オフィスから退室しようと踵を返した。

 その時だった。


「あなた、ちょっと待って」


 女性の声で呼び止められたので、「はい」と振り返った。

 

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