Side Voice Acter

scene 1 森永響という声優

 新しい年度の始まりは、いつもうららかな陽気と桜の花弁の舞とともにあった。

 

 鶯谷駅から徒歩五分の立地に、東京ボイスアクターズスクールが入るビルはある。

 その名を『東京ボイスアクターズビル』といい、一階から四階までがレッスンスタジオ。その上、五階に東京ボイスアクターズの事務所を兼ね備えた事務所所有のビルである。

 そのビルの三階のロビーの一角に、パーテーションで仕切られた空間があった。そこにはガラスのローテーブルが一卓と、テーブルを挟むようにソファー二脚とスツールが置かれていて、東南に向いた窓からは暖かな春の日が差し込んでいた。


 普段このスペースは、養成所の講師や事務所のマネージャーなどが休憩を取ったり書類を整理したり、打ち合わせをしたりするスペースとして使われている。


 だが、今日このスペースを利用するのは、講師でもマネージャーでも無かった。


 ガラステーブルに書類を置いてソファーに腰を下ろした森永もりながひびくは、ふと大窓から外を覗き込んだ。

 眼下に広がるのは入谷口通り。歩道やビルの前ではこの春から新たなクラスに配属されたレッスン生たちで賑わっている。

 中にはこの春から養成所に入った者もいれば、クラスを進級した者や留年した者もいるだろう。そして、新たに事務所の預かり所属となった声優の雛たちも僅かながらいるのかな、などと思う。

 いずれにせよ皆、大きな希望と緊張を胸に、新たな年度初めを迎えているのだろう。


 そう思いながら森永は、肩にかけていたトートバックを自分の傍らに置いた。そして中からペンケースを取り出すと、さらにペンケースから愛用の三色ボールペンを抜き取った。

 そして向き合うのは、ガラステーブルの天板に置いた書類――とある養成所生たちの学籍簿のコピーだ。

 もちろん個人情報保護の観点から、生年月日や住所電話番号などの個人情報は黒く塗りつぶされている。だが、年齢と芸歴、志望動機や自己PRなどの情報は露わになっていた。

 その枚数全部で16。そのうち付箋が貼られたものが14枚。これを14時30分までに目を通しておかなければならない。


 森永は書類を一通りパラパラと眺めてからガラステーブルの天板で揃えたところで、ふと時間が気になってスマートフォンの画面を覗き込んだ。


 時刻は午後0時45分を超えたところだ。


 そういえば。


 彼は手にしていた書類とペンをガラステーブルに置くと、自分の脇に置いていたトートバックからコンビニの袋を取り出した。そして袋をテーブルの上に置くと、袋の中から取り出したのは、スティックサラダとサンドイッチ、そしてレモンティーのペットボトル。


 腹の虫が、やっと空腹を伝えてきたのだ。


 森永はスティックサラダのプラカップを開けると、早々に野菜を胃に収めてレモンティーを一口含む。そしてペットボトルをガラステーブルの天板に置けば、ペットボトルに日が当たり柔らかなオレンジ色の光が足元にまで落ちる。

 それを一瞥すると、今度はレタスとハムのサンドイッチのパッケージをべりべりと開けて、袋から整った三角形を取り出した。

 かぶりつこうと口を開けた瞬間、窓の外、自分の真横をふわりと何かが舞い上がっていった。


 森永の色素の薄い大きな瞳がとらえたもの。

 それは、


 桜の花びらだ。


 ふと外を見ると、昼下がりの春の風が窓の外の桜の花をそっと揺らす。ふわわわわと風に舞い上がる桜の花びらは、通りを行く車に巻き上げられて空へと舞い上がっていく。


 季節もいよいよ晩春である。


「お疲れ様、森永くん」


 名を呼ばれてがふと顔を上げると、声の主は見知った顔だった。

 森永の担当マネージャーである高崎たかさき颯子そよこ。背中の中ほどまである黒く長い髪を後ろでまとめ、薄めのビジネスメイクも紺のパンツスーツもよく似合っている。


 高崎はガラステーブルの状況を見るや、

「お昼まだだったの? コーヒー淹れたんだけど、飲む?」

 と、両手に持っているうちの右手に持っているマグカップを森永の前に下ろし始めた。


「いただきます」


 森永はそう返しながら左手にサンドイッチを持ち直すと、右手でレモンティのペットボトルを退かしてコーヒーカップが置けるスペースを開ける。

 すると、高崎はスマートな所作で森永の前にコーヒーが入ったカップを置いた。


 森永は小さく頭を下げて礼を告げると、カップを持ち上げてコーヒーを一口含んだ。香ばしさと苦味の中の微かな砂糖の甘味は、高崎の気遣いか。カップから口を離せば思わす漏れる息とともに、気持ちも少しやわらぐ。


 コーヒーをもう一口含んでカップを静かにガラステーブルに置き、今度は左手に収まっているサンドイッチにかぶりついた。シャキシャキとした歯応えの向こう、コーヒーカップを傾けながら高崎が伺っているのは養成所生の学籍簿のコピーだ。


「これ、アフレコ収録スタジオ見学選考の資料ね」


「はい。まさか俺に御鉢が回ってくるとは思いませんでしたよ」

 高崎の問いに森永は咀嚼していたサンドイッチを飲み込むなり、自虐的に笑んで見せた。


 東京ボイスアクターズスクール本科カリキュラムの一つに、抜き打ちで行う『アフレコ収録見学』がある。一クラスから4人程度を選抜し、アフレコ収録スタジオの見学を行うのだ。

 選考基準は、『二十五歳以下』で『昨年度本科ではないレッスン生』。

 昨年度も本科在籍の場合、もう既にこのカリキュラムを受講している。故に、昨年度のクラスによってハンデができてしまうことを避けたい事務所側の意向があるのだろう。

 年齢に関しては何故この基準なのかは明確にはわからないが、おそらく二十五歳以上のレッスン生は事務所に所属できる確率が急激に狭まることに機縁しているのだろう。


 このクラスのレッスン生・十六人のうち、審査対象は十三人。女性に至っては全員が審査対象だ。


 兎にも角にも、このオーディションに受かったレッスン生は、その時点において『事務所が一目を置くレッスン生』と基準にされる。


 選者は、クラス担当講師と事務所マネージャー、そしてスタジオ見学先でアフレコ収録を行う芸歴三年目の最若手声優の三人。


 この最若手声優こそ、森永響である。


 この春、東京ボイスアクターズに正規所属の声優となった森永は、選抜された本科生をアフレコ収録現場へと引率する『最若手の声優』という大役に抜擢された。


 この話を聞いたときは、正直自分の耳を疑った。

 試用期間である新人ランク中に受けたオーディションでは落選続き。

 番組レギュラーで辛うじて声優生命を繋ぎ、解雇寸前ギリギリでテレビアニメのレギュラーを射止めてランク制度に突入した、なんの期待もされていない自分に白羽の矢が立つとは。


 滑り込みの正規所属なのに。どうして。

 そうは思ったが、これも勉強だと思って諸手を挙げて……ではないが、役目を引き受けた。


「それで、気になるひとはいた?」

 高崎に問われ森永は、そうですねぇと呟きながら書類を手に取り、ペラペラとめくり始める。


「志望動機や自己PR、顔写真のプロフィールだけではなんとも言えませんが、皆さんしっかり書いてますし、やる気も伝わってきます。まぁ、実際にレッスン生に会って喋る姿や声質などを、聴いてみないと……ですが。気になるというか、面白い経歴のひとなら、数人いましたよ」


 言いながら森永は、書類の束から一枚抜き出してテーブルに置いた。

 それは女子レッスン生の学籍簿コピー。添付された写真に写るのは清楚系の美少女だったが、他の学籍簿の誰よりレッスン歴が一際白い。

 他のレッスン生は、芸歴・レッスン歴の一番上にほぼ『東京ボイスアクターズ基礎科』と書かれている。しかし、彼女の場合は『なし』とだけ記入されていた。


 書類を覗き込んだ高崎は、

「あぁ、彼女ね」

 と声を上げて続ける。


「彼女、入所審査で本科に合格した子よ。私もあの日の入所審査で会場案内をしたんだけど、筆記は満点、声も爽やかで綺麗。滑舌や演技も他の本科志望者とは頭二つは突き抜けてたわね。あの実力で演技経験もないんだから、スタッフ全員が驚いてたわ」


「え、この子、あの本科入所審査を真っ新な状態で合格したって事ですか?」


 その事実に森永が思わず声を上げると、高崎もうんうん頷いて、

「十年に一度の天才現る! って事務所が騒ぎになったのはここだけの話ね」

 と、口の前で人差し指を立てた。


 東京ボイスアクターズスクールの基礎科入所審査は、余程の失敗さえしなければ誰でも入所できる。しかし、本科入所は他養成所経験者でも合格が難しく、百人受験して二人合格できればいい方と、噂されていた。

 なのに彼女は演劇未経験にもかかわらず審査員の想定を軽々と超えて本科に合格してきた。


 故に現時点で事務所が育成したいのは、まず彼女―― 北原きたはらさよりだろう。


「次は、彼ですかね」


 次に森永が机上に置いたのは、厚い前髪と黒ぶち眼鏡の青年の学籍簿コピー。軽く目を細めた柔和な表情は、写真撮影にこなれている印象すらあった。

 高校時代はバスケットボール部に所属していたとか、生徒会長をしていたとか、長野県の高校から国立大学に現役合格したとか。

 大学入学と同時にこの養成所に入ったが、同時期に知り合いの伝手でフリーのモデルを始めたとか、趣味は日本の城郭巡りで特に鯱に興味があるだとか。

 経歴が一人、ずば抜けている。


「国立大の大学生。かつモデルって、勝ち組じゃないですか。なんで声優になろうと思ってるのかなって心配になりますけど、話のネタに尽きない感じはいいと思います。それに、職種は違えど芸能界にいるというアドバンテージは大きいですね」


 今、大体の男性アイドル声優は、彼のようなソフトで甘い雰囲気がある者が人気だ。それに彼は知的で運動神経も抜群。これで演技もできて歌も歌えたら、彼――最上もがみ葉遠はおんは人気声優になるであろう。


「芸名っぽいですが、これ本名ですよ。これも目を惹きます」


 高崎も顎に手を当て、彼の学籍簿のコピーを覗き込んで、

「こんなレッスン生、いたのね……。チェック不足だったわ」

 と、少し残念そうに呟いた。

 もし彼が去年、高崎に見つかっていたら。彼は年末の進級審査の際に、所属試験に呼ばれていただろう。


「それと、彼も」


 と机上に並べたのは、硬派でさわやかな青年の学籍簿コピー。短髪できりっとした表情に、誠実さと清々しさが伺える。


「こっちは現役体育大ですよ。しかも高校時代に陸上でインターハイに出場したとか……この二人、学業とレッスンを両立させてるんですよね」


 すごい忍耐力。と感心しきりのため息を吐いた森永は彼――十時とときすばるのプロフィールを眺めながら、自分がレッスン生であった時のことを思い出す。


 高校を出てすぐ叔父の経営する喫茶店兼住宅に転がり込んで、バイトしながら死に物狂いで養成所に通った日々が今でも昨日のように思い起こされる。当時のクラスメイトには、やれ高校だ大学だと学生生活を謳歌しながらレッスンを受ける者もいて、彼らとの間に根拠のない越えられない壁を感じ、少し辟易としてしまったのも、まだ苦い思い出だ。


「うちの養成所は表向き『学業や会社との両立可能』とはしてるけど、両立できる人は限られるわね。大体が基礎科のうちに本業を選んで、ここへ通うことを辞めてしまう人が多い気がするわ」


 高崎の言うとおりだ。


 基礎科在籍時のことだが、講師にキツめのダメ出しを喰らったレッスン生が次の週から来なくなった……なんて言う話は珍しくなかった。彼らがその後、他の養成所に通い出したとか声優になったとかいう話はどこからも聞こえてこない。


「まぁ、学校会社云々というよりも、本人の心ひとつ。なのよね」


 苦笑いの末、息をついた高崎の言葉が物語る。


 この世界は、素直で人当たりが良く、ストイックな強心臓が、豪運を引き寄せる。

 その豪運を掴んだ者だけが、スターダムにのし上がっていく。


「で、他にはいた? 気になる人」


 そう高崎に問われ、森永はそうですね――と続けたい気持ちを抑え、書類をささっとまとめると机の上でトントンと揃え、

「他の人たちは実際に会ってみてからじゃないですか?」

 と平静を装う。


「そうね。会ってみないとね」


 相槌を打った高崎の目線が他へ向いたタイミングで、森永はちらりと書類束の一番上の写真に目を落とす。


 小顔ではっきりとした顔立ちに前髪ぱっつん姫カットの少女が、目力全開でこちらを見ていた。


 この少女、なんとジュニアコースからの飛び級である。


 ジュニアコースからの飛び級や事務所所属は、名目上では可能ということになってはいる。だがしかし、東京ボイスアクターズスクール開講以来、その快挙を成し遂げた受講生がいるという話は聞いたことが無かった。

 通常、ジュニアコースのレッスン生は基礎科へ上がることが通例なのであるが、この少女は本科に在籍しているのである。


 どこにでもいそうなこの少女は、我が養成所初の快挙を成し遂げたのだ。


 藍沢あいざわ美優みゆう

 この子も大層な経歴をお持ちで。


 さて、どんな実力を持ってるのかね、この子は。


 目を細め笑んだ森永は、ギシリとソファーを鳴らして立ち上がると、学生簿のコピーをトートバックの中に入れたままのクリアファイルに入れる。そしてスティックサラダとサンドイッチのゴミをレジ袋に突っ込むとその口を結び、ガラスのテーブルに置かれたコーヒーカップを手に取った。

 そして、もうすっかりぬるくなったコーヒーを全て胃に流し込むと、高崎が手を差し伸べたのが見える。コーヒーカップを受け取ってくれるらしい。


 森永は小さく頭を下げてカップを高崎に託し、ぐっと背筋を伸ばす。同じ体勢で座っていたせいか、身体中の筋肉が硬くなっていた。


 これは体をほぐしながら、少し声も出しておいた方がよさそうだ。

 森永は高崎に断りをいて、本科レッスン室へと入っていった。


 森永がレッスン室へ入るのと時同じく。

 藍沢美優は、駅の改札を通り抜けるなりレッスン場へ向けて走っていた。

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