Side Voice Acter

scene 8 掴んだもの、ふたつ


「今日はありがとうございました」


 車の助手席に乗り込んだあの子は、窓を開けるなりよく映える声で礼を告げたので、森永も「はい」と返した。


 夕方過ぎの上野駅で待ち合わせをした時、こんな晴れやかな表情でお礼を言われるなんて、想像できなかった。

 そう思っていると、彼女の奥、運転席に座る彼女の母親もこちらを見るなり恭しく頭を下げる。はっきりした顔立ちの彼女に対し、母親は柔らかく優しそうな印象だ。その母親は森永に微笑みかけると、こう言った。


「森永さん、本日はありがとうございました。これからも美優をよろしくお願いしますね」

「ちょっとお母さん、どう言う意味それ!」

「え、違うの?」

「何がっ!!」


 藍沢親子のやりとりは見ていて少し面白い。

 マイペースな母とツッコミ気質な娘の掛け合いは、敬語ではないあの子の新しい一面を垣間見ることが出来て、新鮮だ。


 だけど、ちょっとした言葉の応酬はものの数秒で終わり、

「では、森永さん。お疲れ様でした。気をつけて帰ってくださいね」

 と、明るく告げた彼女の笑顔は、先ほど、いつでも連絡していいか問われ、是と返事を返したからなのだろう。


「はい。お疲れ様でした」


 そう返すと運転席の母親がもう一度頭を下げて「では失礼します」と告げる。助手席の窓が閉まりゆっくりと車が走り出しても、あの子は手を振っていたので、軽く手を上げて見送った。


 森永は車が見えなくなるまで目で追うと、タイミング良くジーンズのポケットが震え出した。


 着信だ。


 森永はポケットからスマートフォンを取り出す。すると画面には『東京ボイスアクターズ・高崎』の文字が白く浮かび上がっていた。


 高崎といえば、本来はこっちの収録現場担当だったマネージャーで、急遽坂下の現場担当となった。


 事務所一押し声優様の担当をしながらも、一応、こちらのことも気にはしてくれてるんだなと卑屈に思いながらも、森永は通話ボタンを押すとスマートフォンを耳に当てる。


「はい」

『森永くん? 高崎です。お疲れ様です』


 電波の関係で少し歪んだように聞こえる高崎の声は、こんな遅いのに少し明るく聞こえる。


 疲れていないのか。なんて思いながら、

「はい。お疲れ様です」

 と返事をした。すると耳に飛び込んできたのは突然の謝罪だった。


『今日は本当にごめんなさい! 収録大丈夫だった? もう終わった?』


 森永は辺りをキョロキョロと見回し時計を探す。今の時間を把握して逆算した終了時間を知らせるためだ。しかし時計は見当たらない。

 よく探せばあるのかもしれないが、土地勘のない駅前で報告のためわざわざ時計を探す気にもなれず。

 いつもの腕時計は収録時に腕にしていると、マイクが秒針の音を拾ってしまうため家に置いてきていた。

 だが、こういう会話の通話時にはとても不便だ。

 着けずとも腕時計は持ち歩こう。

 そう思いながら振り返れば、数分前に百貨店のシャッターが閉まった事を思い出した。

 と言うことは、今は午後十時ちょっと過ぎだろうか。


「収録は一時間……半前に終わりましたよ」


 その後、自分のせいで仲間をだいぶ待たせてしまったのだけど。

 森永はふと思った。

 もし、高崎が収録の現場にいたのなら、どん底の俺を励ますのはマネージャーの仕事だったのかな。

 もしそうだったら、あの子にあんな風に心をひらけなかったな。


 そんなことを考えていると、

『そうなの? 収録終わった? で、どうだった? スクール生の子たち、ちゃんと見学できてたかしら?』

 と、質問攻めで捲し立てられた。


 こんな過保護になるなら、こっちの現場に来ればよかったのに。

 森永はため息をつきつつ答える。


「本科土14の精鋭ですよ? ちゃんと見学――」


 そう答えて言葉を止めると、森永はふと見知らぬ駅前の夜空を見上げた。そして思い出すのは、スクール生の演技を誉めた支倉さんの言葉だった。


 アフレコ収録スタジオ見学?

 そんな生優しいものじゃない。


 彼らは、東京ボイスアクターズスクールのレベルの高さを、支倉さんをはじめ、あのスタジオにいる全員に見せ付けたのだ。


『……森永くん? どうしたの?』


 耳に届く高崎の声に、森永は「すみません」と謝ってから、口の端を上げた。


「高崎さんが選んだレッスン生、本当によくやってくれましたよ」


 その意味は、あの場所にいた人間にしかわからない。


『へ、どう言うこと?』


「坂下の付き添いなんかより、もっと面白いものが見れたってことです」

『え、面白いものって……ただの見学よね? 制作サイドからもそう聴いていたんだけど……』


 これ以上は高崎を混乱させるだけか。

 そろそろ種明かしをしても良い頃だろう。


「何らかの手違いがあったかそれとも音響監督の気まぐれかで、あの四人、収録に参加しました」


 すると少しの間をあけて聞こえたのは、

『えええ! ちょっと、ま、マジで?』

 という心からの叫びだった。


 これ、事務所的にダメだったやつか?

 だが、アフレコ収録見学で養成所生が実際にアフレコに参加したという事例はこれが初ではない。モブ出演ならもっと多い頻度で発生している。

 まぁ、ゲスト出演並みにセリフがあった事例は、聴くだけで二度目だが。


 高崎はひとしきり「本当にぃ?」とか「そっかぁ」などと感嘆の声をあげていたが、

「まぁ多分、明日あたり音響監督から説明があると思いますが」

 そうフォローを入れれば、落ち着きを取り戻す。


『……わかったわ、連絡を待つことにするわね。なかったら明後日にでもこちらから聴いてみるけど……森永くんの感じだと、みんな上手くできたのね……』

「はい、四人ともよく頑張ってくれましたよ」


 そう言葉にすれば、高崎も安心したように相槌を返したので、もうすぐこの通話も終わると思った矢先。


『で、もう一点。森永くんに知らせがあるの。耳の穴かっぽじってよく聞いてね?』


 高崎の声のトーンがパッと明るくなる。


「はい」


 返せば、森永の耳に飛び込んできたのは、意外な単語だった。


『グランセティディア物語――』


 それは一時間前、森永のメンタルをボコボコにしてくれた作品名。

 トラウマが抉られる。

 原作本は面白かったから続きは買うが、アニメはほぼ見ないと心に誓ったばかり。森永は短くため息をついて呟く。


「あぁ、メディアサイトで見ましたよ。坂下が受かって俺が落ちたやつ――」

『落ちてなかったのよ!』


 呟きに被さった言葉に、一瞬、自分の耳を疑った。


「え……」


 今、なんて言った?

 尋ね返す前に、高崎が情報を伝えてくれる。


『夕方、製作会社から電話が入って。準主役ケヴィン・レイズナー役に森永くんが決まったのよ!』


 ケヴィンといえば、底抜けに明るい陽の者で職業は騎士。グランとは幼馴染のお互いを相棒と呼び慕う間柄。

 そういえば。

 オーディションではグラン役で呼ばれたにも関わらずケヴィンのセリフもリクエストされて、一言二言だが演じたことを思い出す。

 底抜けに明るい陽の者は自分のキャラではないが、何者にもなれるところが芝居の醍醐味だと、おもいきり演じた。


「……あぁ、そうですか……」


 事実を受け止めるに少しだけ時間がかかった。

 グラン役の落選を知った時は、瞬で状況を理解してロビーを飛び出してしまったというのに。


 あのまま絶望していたら、どんな気持ちでこの報を聞いただろうか。

 だけど、今はもう、それを想像することはできなかった。


『何よ落ち着き払って、嬉しくないの?』


 若干咎めるようような高崎の言葉に、今の状況を踏まえて返す。


「嬉しくないわけないじゃないですか。今だって大声で喜びたい気持ちでいっぱいですよ。でも今、隣の県の初めて訪れた駅の前なので、自重しているだけです」


 こう聞けば、なぜ自分の担当声優がそんな所にいるのかと疑問に思わないマネージャーはいないだろう。


『……隣の県?』

「埼玉か、神奈川か、千葉か、山梨のどこかです」

『そんなところで、何してるの?』


 女子高生を最寄り駅まで送ったなど、知られたら詮索の種だ。


「プライベートなのでお答えしません」


 そう答えると、さすがの高崎も黙る。

 未成年所属者ならまだしも、成年を迎えて少し経っているのだ。詮索は野暮というもの。


『わかったわ。……で、メディア向けのコメントをお願いされているから、明日事務所に来てくれる? その時に今日の見学のことも教えてね』

「はい、わかりました」

『じゃぁ、お疲れ様でした。気をつけて帰ってね』

「はい。お疲れ様でした」


 そう言って電話を切ったが、思いのほか自分が落ち着いていることに森永は少し驚いていた。

 だけど体は正直で、ようやく引き当てたチャンスにスマートフォンを持つ手が震えている。

 森永はそれを落とさないように慎重にジーンズのポケットにしまうと、数回大き目な深呼吸で自分の気持ちを落ち着かせる。


 見知らぬ都市の夜風は、自分のホームタウンとは少しだけ香りが違う。

 だけど、ほのかに香る春の花の香りは一緒。 


 そして浮かんでくるのは、自分を闇から引き上げてくれたあの子の姿。


 この朗報をいち早くあの子に早く伝えたかったけど、それはコンプライアンスに引っかかる。

 だけど情報が解禁されたら、どんなリアクションを取るのかな、あの子は。

 どんな表情を見せてくれるのかな。


 森永が思い浮かべるのは、あの子の驚いた表情。

 そして嬉しそうな笑顔だった。

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