Side Egg of Voice Actress

scene 9 未来の白地図

 土曜日。

 午後六時を前に鶯谷駅は、東京ボイスアクターズスクールのレッスン終わりの声優のたまごたちでごった返していた。


 辺りは夕焼けのオレンジ色に照らされて、葉桜の新緑も黄色く染まっている。

 美優は鶯谷駅の南口でさよりさんと最上さん、そして十時さんと別れた。

 これから寄りたい場所があったからだ。


 凌雲橋を渡りながら駅のホームを見れば、三人の姿が見えた。


 数日前、共にアフレコスタジオという戦場を戦った仲間でもあり、好敵手。レッスン室でも美優を入れた四人で自然と固まっていて、自分があの三人に仲間であると思ってもらえることが嬉しくて、心がふと暖かくなる。

 と、美優に気がついたのか、最上さんが橋に向かって大きく手を降ると、さよりさんと十時さんも美優に気がついて手を振ってくれる。


 美優も手を振りかえすと、ちょうどホームへと滑りこんだ山手線外回りの列車が三人を姿を隠してしまう。


 美優は降っていた手を下ろすと列車の発車を見送って、また橋を渡っていく。そして橋から跨線橋の脇へと続く階段を降り切ったところで、道の端に寄り立ち止まると、鞄からスマートフォンを取り出した。


 通知はなし。


 ホーム画面を開きメッセージアプリを起動すると、白い猫の絵のアイコンをタップして、メッセージを入力し始める。

 おそらく相手は今、今度の収録のオンエア台本とDVDを受け取って事務所を出たところだろう。


『お疲れ様です。オフィーリアの件とか、お話ししたいことがあるので、これから喫茶店へお伺いしてもいいですか?』


 送信ボタンを押すとメッセージは少しの間で既読になり、また少しの間で返信が届く。


『お疲れ様です。叔父夫婦もいますのでどうぞいらしてください。店に入って名乗っていただければ、案内してもらえるように伝えておきます。では、お気をつけて』


 美優は返信を確認して、

『ありがとうございます』

 とメッセージを送った。


 道中は、名刺をもらったっその日に地図で確認済み。だけど道中迷ったらいけないのでスマートフォンで地図アプリを開き、確認しながら歩いていく。


 目的地は大通りから数えて二本奥の路地にあって、マンションの一階部分にあった。鉄筋コンクリートながら外装はレトロな雰囲気で、扉や大きな窓は防音仕様になっていた。


 不思議に思って窓から店内を覗くと、店内の奥が一段低くなっている。何があるのだろうと覗き込むと、店内にいたお客さんにコーヒーを運んでいたエプロン姿の男性と目が合ってしまった。


 その長髪を後ろで一本にまとめた男性は、美優と目が合うと一旦お客さんに会釈してその場を離れた後、店の重そうな扉をよいしょと開けた。するとドアベルがカランコロンと軽快な音を奏でる。


 少し彫りが深く、はっきりとした顔立ちの男性は、美優の姿を切長の瞳で捉えると。


「……えっと、藍沢美優さん?」

 と、美優の名を当ててきた。


 顔と名前が一致されている。

 ということは、この人が森永さんの。


 エプロンに付けられたネームプレートには『マスター・きし』の文字がファンシーなフォントで記されていた。


 美優はピシッと姿勢を正すと、

「は、はい。藍沢美優ですっ」

 と名乗りをあげる。


 するとマスターは美優の剣幕に「あ、はい」と返事をしたのち、

「ドリームメイカーのマスターをしています、貴志きし達也たつやと申します。甥から今日のことと、バイトの話は聞いてます」

 さぁどうぞ、と美優を店内へと招き入れた。


 店内は入って右側にカウンター席があって、その裏は厨房になっているのか、時折かちゃかちゃと音がする。左に視線を移すと、お手洗いと個室席の扉があって、さらにフロアいっぱいにテーブル席が並ぶ。しかし個室席の左手は、店内の奥に入るにつれ、緩やかな段差に設置されたテーブル席となっていて、その向こう、一番低いところに広がるのは四畳半ほどの小さなステージ。


「ステージ、気になりますか?」


 マスターに尋ねられ、美優は声を跳ねさせて「はい」と答えた。


「うち、従業員が芸能人のひよこで。んで、彼らが普段やってる音楽とか、そういうのを披露してもらう場所です」

「へぇ……」


 楽しそう。

 美優が感嘆の息を吐くとマスターが眺めるのは、今は誰もいないステージ。


「そのライブを楽しみにしてるお客さんもいるし、藍沢さんがきてくれることによって、声優的な朗読も可能かなと……」

「え、あたしも立てるんですか?」


 驚いて声を上げた美優にマスターは真顔でひとつ頷いた。


「もちろん。いつもは響ひとりで朗読をやってるんだけど、女性が入ることでパフォーマンスの幅も広がると思います」


 マスターの言葉を聞きながら美優は、この小さなステージで、森永さんと共に作品を織り成していく自分を思い浮かべていた。


 客席には自分の朗読に耳を傾けるお客様がいて、隣には共演者がいて。天井から吊るされたスポットライトがステージを照らす中に自分が立つ。


 それはどんな素敵なステージだろう。


 美優がステージに未来を見る中、マスターが美優と同じようにステージを見つめる。


「新人の頃って芸の道を極めようとすると生活に困窮する。だけど、生活のために生きようとするとどうしても芸を極める時間が削られてしまう。僕はね、自分の通って挫折した茨の道を少しでも整地して、後進には少しだけ安心して歩いてもらいたいんです」


 それは恐らく、志半ばで夢破れた人だからこそ紡げる願い。


 美優はふとマスターを見れば、鋭いと思っていた眼差しがとても優しくて。


「だから、ここが藍沢さんの生活を少しでも豊かにしつつ芸の肥やしになるなら、このステージにどんどん立って欲しいんです」

「って、彼女まだ養成所生ですし、一五歳ですよ」


 背後から聞き慣れた声がして。振り返るとそこにいたのは普段通り少しラフな服装の森永さん。


「っ森永さん! いつからそこに!!」


 驚いて跳ね上がった美優に対し、森永さんはしれっとしている。


「藍沢さんが、自分も立つであろうステージを見つめた時?」

「それってしばらく後ろにいたってことですよね。なんで教えてくれないんですか!?」

「いい話してたから聞いていたに決まってるじゃないですか。あの場所はまぁ狭い舞台ですけど、いい場所ですよ」


 今までしれっとしていたのに、急に未来を見据えて微笑むから、美優は押しだまる他無くなってしまった。


 森永さんが眺めているステージの上に、あたしとの共演があればいいと美優は思う。


 一方、マスターは。 


「そうだったまだ十五歳だった。すぐにでも入ってほしくて夢語っちゃったわ」


 照れ隠しか、頭をかいて少し顔を赤らめたマスターは、こほんと咳払いを一つ。


「まぁ、形式上面接はしなきゃならないから、六月にまた響経由で連絡しますね。では」


 と美優に告げると、今度は森永さんへと向き直る。


「奥の個室、使っていいから」


 そう言い残してマスターはカウンターへと戻っていき、森永さんはマスターへ少し砕けた返事を返すと「こっちです」個室席へと進んでいく。


 個室席は三畳ほどのスペースに一枚板のテーブルがどんと鎮座するしていた。長椅子も恐らくテーブルと同じ木材から切り出されたものだとわかる。


「どうぞ座ってください」


 美優は森永さんが手で指し示した長椅子に腰を下ろすと、彼は美優の反対側の長いすに腰を下ろした。そして、いつ事務所から連絡が来てもいいように、あえてスマートフォンを外においておくのだろうか。画面を上にしてテーブルの端に置いた。


 テーブルには、美優がマスターに案内されてステージを眺めていた時にセッティングされたのだろう、陶磁器のティーポットとティーカップが二対、そして、真ん中には焼き菓子が盛られた皿が置かれている。


 カップに添えられているのは、もちろんミルクではなく、レモン。


 森永さんは早速と言った感じで、丁寧な所作で紅茶をカップに注ぎ始めた。

 俯いて目立つのが、長い睫毛。


 美優も同じように真似て、紅茶をカップへと注ぐ。そしてスプーンに乗せられたレモンを紅茶へと滑らせると、紅茶の色が薄くなる。


 まるで魔法のようだと眺めていると、

「レモンはすぐに取り出すと、皮の渋みが出なくていいですよ」

 と、森永さんが教えてくれた。


 森永さんがレモンが入ったままのカップを少しだけかき混ぜると、すぐにレモンを引き上げてソーサーの端に置いた。それを倣って、美優もカップの中でレモンを遊ばせてから、スプーンでそっと掬い上げた。


「改めて、レッスンお疲れ様でした。で、どうでした。オフィーリアチャレンジは」


 森永さんにそ尋ねられ、美優は困ったように微かに苦笑する。


「あたしなりにうまくできたと思ったんですが……」


 あの見学が終わった次の日から、暇さえあればハムレットとオフィーリアのセリフを読み、頭に全セリフを叩き込んだ。演技プランに困ったら、都度パートナーである最上さんと連絡を取り合って、演技のすり合わせも怠らなかった。

 そしていつしか美優の心には、二つ目の引き出しが出来上がっていた。


 そこに住まうのは、オフィーリア。


 先に行われたレッスンにおいてハムレットの実習はラストとなる中、美優は自分が作り上げたオフィーリアと共に、ハムレットと舞台を作り上げた。


 しかし得られた評価は散々なものだった。


「この中で一番乳臭くてガキなオフィーリアだって言われました」


 けれど、ひとつ。誇れることもあって。


「ただセリフをなぞるだけの人形から人間への進化は認めてもらいましたし、オフィーリアが絶望して頭を上げるシーン。あの場面は堕ちてる森永さんの表情を参考にしました。みんなビクって引いてくれましたよ」


 ふふっといたずらっ子のように笑んでみると、森永さんは一瞬眉をひくっと動かした。


「……え、あの表情なら、自販機横のベンチで君もできてましたよ」

「え?」


 あんなにひどい表情を、この人に晒したのか。

 そう思ったら呑んだ息もガッカリなため息となってしまう。


「まさか、同じ現場で俺と君はお互いに絶望づらを晒したなんて……」


 そう言った森永さんはティーカップに口をつけた。

 穏やかな表情から、言いたいことはなんとかくわかる。


 美優にとって、目の前にいる人は夢の恩人だ。この人に迎えに来てもらわなかったら、きっとここでこうしている自分などいないわけで。


 と、一つ思い出したことがあった。

「あの、森永さん。絶望面繋がりなんですけど。交換している台本、あたしあのまま持ち帰っちゃって……来週持ってきますね」


 すみませんと軽く頭を下げるが、森永さんは「あぁ……」と呟くと、こう続ける。


「交換したままにしておきませんか?」

「え、交換したままですか?」


 思わぬ返事に目を丸くした美優に、森永さんはさらに続けた。


「君の名前が入った台本。アレ見るとあの日の気持ちが蘇るので」

「……っ、あたしも同じですっ」


 自分の未熟さに落ち込んで絶望して、手を差し伸べてもらって再び這い上がった。そして得た結果は本当に誇らしいもので。


 思わず声を上げた美優は、微笑んでいる森永さんにへへっと笑みを返した。

 けど。


 森永さんはもうオーディションに落ちたことを吹っ切っているのだろうか。

 またチャンスはあると思っているのだろうか。


 そう彼の気持ちを伺い始めたその時、美優のスマートフォンに通知が届いた。


 美優は一瞬、鞄の中のスマートフォンに意識が向いたが、人と時間を共にしている時に見るのは失礼にあたると考えた。

 しかし、森永さんの手元にあるスマートフォンも、同じタイミングに何らかの通知を受け取っていた。

 森永さんはスマートフォンを手に取ると、画面を確認して穏やかに笑むなり美優を伺う。


「藍沢さんて、メディアニュースのアプリ使ってる人だったりします?」


「はい、推し活に使ってますが……」

 と答えて、美優は慌ててスマートフォンをカバンから取り出した。


 このメディアニュースは、通知してほしい芸能人や作家、ミュージシャンを登録すると、通知でお知らせしてくれる代物。

 美優が月曜日の夜に『森永響』を探して登録しておいたのだ。


 まさか。


 画面を見るとスマートフォンは、美優の顔を認識して受信した情報の見出しを表示させた。


『グランセティディア物語 追加キャストに森永響、中野このみ、滝川健、伊坂時生』


「は!?」


 思わず声を上げて通知をタップするとアプリが起動し、該当記事が表示される。


 キハラタケル原作によるTVアニメ「グランセティディア物語」の追加キャストが発表された。

 今回発表されたのは、グランの幼馴染で相棒の騎士ケヴィン・レイズナー役に森永響、同じくグランとケヴィンの幼馴染で魔道士ラヴィリア・ヴェルファーレ役に中野このみ。グランとケヴィンの上官騎士セレディ・ザレグリア役に瀧川健、同じく上官騎士ドモン・レイグラントに伊坂時生が名を連ねた。

 キャストからはそれぞれコメントが到着した。

 

 同作の主人公、グラン・セティ役には、坂下晴矢が決まっている。


「森永さん、受かってるじゃん!! そして伊坂先生も出るじゃん!!」


 思わず敬語が外れてしまう。


「しかも、コメントまで出して!!」


 記事をスライドさせると、宣材写真と共にコメント記事が現れた。


 ケヴィン・レイズナー役を担当させていただきます、森永響です。

 オーディションでは別の役を受けていましたが、このたび、ケヴィン役を任せていただくこととなりました。第一報を聞いた時は、事務所におちょくられてるのかと思ったくらいです。

 ケヴィンはグランの幼馴染という立ち位置の、明るく快活な男で、そこにいるだけで場を明るくすることができる、いわば陽の者。彼の明るさをより魅力的に演じられたらと思いますので、応援していただけたら幸いです。


「これ、いつ……!」


 美優は顔を上げると、同じように携帯電話の画面に目を落としていた森永さんも顔を上げる。


「月曜日、君を送った数分後に事務所から連絡が来まして……」

「じゃあ『あの時』もう既に合格していたということですよね!!」


 あの時とは、美優が森永さんを引っ張り上げた時間だ。


 森永さんは目線を上げながら、

「事務所に連絡入っていなかったものの……制作会社的には、確かにそうなりますね……」

 と呟いた。


「心配かけまくってしまった『ZERO PLUS』の皆さんや藍沢さんには、いち早くお知らせしたかったんですけど、コンプライアンス的なものがありまして……」


 呟きながら森永さんは申し訳なさそうに眉尻を下げたが。

 いち早く教えて欲しかっただなんて気持ちすら、今の美優には浮かんでこない。


「森永さん!! ご出演、おめでとうございます!!」


 むしろ、自分のことのように嬉しかった。


 森永さんは美優の反応が意外だったのか、一瞬目を丸くしたが。徐々に表情が柔らかくなる。


「あ、ありがとうございます。あの時君に救ってもらわなければ、あんなに晴れやかな気持ちで、事務所からの一報を受けられはしなかったでしょう」

 だが、美優を見つめた瞳は真っ直ぐ、真剣だ。


「だけど君は、撤回しないんでしょ?」


 来年の今、事務所に所属すること。

 所属できなかったら、声優になるのを諦めること。


 問われて美優は、明るく笑って返事をした。


「はい。森永さんが役を勝ち取れて、俄然やる気出ましたよ! この一年間であたし、すごく頑張って、来年は森永さんと同じステージに行きますから!」


 今なら。いや、この気持ちが続く限り、不可能なことはないと思えた。

 毎週レッスンに通うことも、与えられた課題に真剣に取り組むことも、年末の進級審査も、所属審査も。

 そんなことあり得ないが、全てうまくいくような気がした。


「じゃぁ俺も、そのつもりで君のサポートをしなくては。ですね」

 と、美優の決意に応えるように微笑む彼の名は、森永響。


 夢を叶えたその先で見たものは、逃げ出したくなるくらい厳しい現実だった。


 がむしゃらに戦えば見えると信じた希望にいつも裏切られ、選ばれたいと渇望している彼を救ったのは、純粋に夢を追いかける藍沢美優という存在だった。


「はいっ。よろしくお願いします!」

 と、森永さんに溌剌とした返事をしたあたしの名は、藍沢美優。


 夢は、声優になって、あの日のあたしに夢をくれた『しろねこさん』にお礼をすることと、『森永響』とまた共演すること。


 そして目標は、来春に新人声優として事務所に所属すること。


 桜の花がほころび始めた頃に新しい世界への一歩を踏み出した二人の若者は、舞い降る桜の花びらのように夢を輝かせ苦悩し、涙した。


 そして花の後に枝からわっと若葉が芽吹くように、今、自分の夢への第一歩を力強く踏み出していく。


 それは、自分を応援してくれる人たちのため。


 相棒と、相棒の夢のため。


 何より、自分のため。

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