第28話 神がいない街#1
昼間、リエト軍に雇われた傭兵が集まっていた聖堂広場には、今はアルカハル解放戦線の民兵たちが集結していた。
広場には防衛に当たっている兵の他、負傷兵や彼らを手当する者たちもいる。
――シルビアは無事でしょうか。
その光景を前に、彼らに捕えられたオリビアは我が妹の身を案じていた。
「姉さん……?」
足元で横たわっている兵からそう呼ばれて、オリビアは思わず足を止める。
大の男ではなく、あどけなさが残る少年だった。歳は多分、14かそこらだろう。
目が合う。
彼の焦点は合っておらず、虚ろな表情だ。きっと混乱していて、オリビアを姉と見間違えたのだろう。
それでも、必死に生きようとする思いだけは伝わってきた。
伝わってきたら、左手を伸ばしたくて、傷を治したくて、たまらなくなった。
少年の腹には包帯が巻かれていて、血が止まっていないのか、今も赤い染みが広がり続けている。
「そいつを治してくれるのか?」
オリビアを連行する、隣の男が訊いてきた。
「……いえ、それはできません。あなたにも分かるでしょう」
オリビアはリエト軍の傭兵で、彼は戦線の兵士だ。
ここで治してしまったら、利敵行為とみなされる。リエトに対する裏切りだ。
だから、オリビアは目を背けて歩き出した。
助けを求める少年から。
己の信念に反した罪悪感から。
『しっかし、こんな娘が本当に【聖女】なのかねぇ』
前を行く別の男が、能天気に疑問を口にする。
『ただの尼僧にしか見えねぇぞ』
そう言って彼は、振り返って疑いの眼差しを向けてきた。
『間違いねぇよ。俺は昔、この子に治されたんだ』
隣の男が言った。
当時を思い出しているのか、その横顔は緩んでいる。
――よかった。
アルカハル語を多少理解できるオリビアは、それを聞いて笑みを漏らした。
この仕事の一番の報酬は、金でも名声でもない。
救った患者やその家族、友人たちの喜びや感謝だ。
助かった。
ありがとう。
医者として、これほど冥利に尽きる言葉はない。
「おい、何がおかしい?」
隣の男が不審そうに尋ねてきた。
「あなたが助かったのなら、私も嬉しい限りです」
「はぁ?」
男がオリビアの顔を覗き込む。
「あんた、今の状況分かってんのか?」
「はい。ですが、きっと妹が助けに来てくれますから」
そう返すと、男は表情を強張らせた。
「ま、来てくれるといいな。――ヒルダ!」
男が名を呼ぶと、その先にいた女が振り返った。昼間、自分たちを襲った女だった。
「もう1人には逃げられたが、目当ての娘を連れてきたぞ。間違いないか?」
ヒルダというらしい女はオリビアを一瞥し、頷く。
「ご苦労。後は私が連れていく。お前、一緒に来い」
ヒルダと、隣を歩いていた男に連れられて大聖堂に入る。
燭台の窓からの星明かりだけが光源の大聖堂だが、それでも近くにいる人の顔くらいは判別できる。
難民たちは昼間と同じように身を寄せ合って、より怯えている様子だった。自分たちを襲った連中が目の前にいれば当然だろう。
「何故、ここに陣を張ったのですか? わざわざ彼らを怯えさせる必要もないでしょう」
礼拝堂を抜けて、修道者の生活区画を歩く。
「ここの司教が大金と引き換えに、場所を提供してくれると言うのでな。厚意に甘えさせてもらったまでだ。まさか避難民まで受け入れるとは知らなかった」
「彼らの方から提案してきたのですか?」
「清貧を誓う割には己の欲望に忠実だ。聖職者というのは、まったく唾棄すべき連中だよ」
金ではなく自らの理念のために戦うヒルダは、不機嫌そうに答えた。
「神様などいらっしゃらないのですから、そうなるのも無理はないでしょう」
傷病者には祈りを捧げる者も多い。
それでも、彼らは死んでいく。
奇跡は起こらず、回復もせず、苦しみながら。
「お前は尼僧だろう?」
「私は傭兵です。それに信仰はありません」
神も宗教も信じていないが、そこに宿る精神には共感できるし、敬意を払っている。
本物の尼僧だった師の教えを忘れないために、オリビアは尼僧服を着ているのだ。
「だが、今は祈った方がいい。ルドヴィカのために」
ヒルダは口角を吊り上げて言った。
「彼女に何をしたのですか」
「仲間が刺した。死んだかは分からんが、深手には違いないそうだ」
――そんな。
オリビアの頭は一瞬で、ルドヴィカの容態で埋め尽くされる。
どこを、どうやって刺されたのか。
傷の深さは?
出血の量は?
意識はあるのか?
人より知識はある分、嫌な結末が具体的に想像できてしまう。
自分がこうして捕まっていなければ、すぐに治せるというのに。
もどかしいし、こうなった自分が情けない。
己の無力が腹立たしい。
「酒場をわざわざ襲ったのは何故です? 外から火を放った方が早いでしょうに」
ルドヴィカを容態をいくら考えても、今はどうすることもできない。
ならば心配していても仕方がないと、オリビアは話題を強引に変えた。
「私もそうしたかったが、それでは同胞も焼き殺してしまうからな」
「ヴェルピアの住民の皆さんも、あそこでは大勢が犠牲になりましたよ」
「大義のためだ。多少の犠牲は止むを得ん」
――なんて人。
反吐が出る言い訳だった。
「村の略奪も、そうやって正当化するつもりですか」
「どの村を指しているのか知らないが、奴らはリエトと通じていた裏切り者だ」
だから当然だと、ヒルダは断じた。
「……妹が言った通りですね」
「ほう、何と言っていた?」
「後ろめたい奴らほど大義を叫ぶ、と」
刹那、壁に叩きつけられたオリビアは、首筋に短刀を突きつけられた。刃が触れて、冷たい感触がした。
「我々を賊だと思うか? なら、我らが祖国を奪ったリエトこそ賊だ」
ヒルダは、努めて静かに言った。
それから少し歩いて、ある一室の扉を開いた彼女は、オリビアは突き飛ばすように中に放り込んだ。
そこは共同寝室のようで、二段の
「もう諦めろ。もうすぐ再攻撃が始まる。夜が明ける頃には、リエト人は全滅だ」
「ありえません」
「お前は、そう言うだろうな」
「えぇ。あなたたちは所詮、賊ですから」
オリビアを拳が襲う。
力強く頬を打たれ、倒れたオリビアは、胸倉を掴まれてすぐに起こされた。
「調子づくなよ、戦争屋!」
ヒルダの顔は憎悪そのもの。
心の底からの憤怒。
「ここはアルカハルだ。貴様らに味方などいるものか!」
乱暴に突き放され、オリビアはまた倒れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます