第9話 聖なる姉#1
黒竜戦争という戦争があった。
リエト帝国とアルカハル王国の間で勃発した、長い戦争だ。
発端はアルカハル軍がリエトとの国境近くで行った、黒竜の討伐作戦だった。
この作戦は失敗し、黒竜をいたずらに傷つけただけという結果に終わった。
失敗は珍しくない。竜は強大な生物だ。討伐できないことも多い。
問題は、黒竜が越境しリエトに侵入したことだ。
手負いとなった黒竜は凶暴化し、破壊の限りを尽くした。国境沿いのリエト西部地域を壊滅させ、最後はリエト軍によって討たれた。
これを厄災と呼んだリエト皇帝は、責任はアルカハルにあると糾弾し、賠償を要求した。
アルカハル国王は反論した。越境は不幸で不測の事態であり、こちらに咎はない――と。
リエトが、その言い分を大人しく受け入れるわけもなく、両者の応酬は続き、次第に激しさを増していった。
両国は元々、国境線を巡って争っていたから、アルカハルはわざと黒竜を討ち損ね、リエトへけしかけたのだという噂まで流れた。
それから最初の武力衝突が起きるまでは実に早かった。
そして10年目の冬を前に、リエトはアルカハルの王都を陥落させ、全土を手中に収めた。
先には、街道が続いている。
周りには、草原が広がっている。
頭上には、青空に白い雲が流れている。
そして、ひたすらに暑い。
以前ここを訪れたときは一面が血で染まり、兵の死体で埋め尽くされていたものだが、今はその面影すら見当たらない。
「……退屈だな」
荷馬車に積まれた木箱や樽。
その間に身体を挟ませるようにして座るシルビアは、そうぼやいた。
それでも万が一に備えて、感覚だけは常に研ぎ澄ませている。
どんなに暇だとしても、今は仕事の最中なのだ。
「平和でいいではないですか」
向かい合い、同じようにして座るオリビアが言った。
「もうすぐ着くよ」
馬車を操る男の言葉を待っていたように、草原の向こうから高い防壁が現れる。
「そいつはよかった。暑さと退屈で死んじまいそうだ」
「はは、今回は助かったよ。こんな安い仕事じゃ、受けてくれる傭兵はいないと思っていたからね」
男は商人だった。
護衛に雇う傭兵を探しており、シルビアとは近くの町で知り合った。
本当に安い仕事だったが、行き先が同じだったので請け負うことにしたのだ。
「お嬢ちゃん、まだ若いが腕は立つんだろ?」
「あぁ、普段はこんな額じゃ受けねぇよ」
自信を見せつけると、男は苦笑した。
「あのリュミエールの不死鳥にいたって本当かい?」
「……まぁな」
いきなり忌まわしい名前を出されて、曖昧に肯く。
黒竜戦争が終わって、ルドヴィカに捨てられて、3年が経った。
当時14歳だったシルビアとオリビアは、17歳になった。
背は伸び、胸は膨らみ、娘から女に成長しつつあった。
それでも、ルドヴィカへの憎悪は変わらず残っている。
復讐の機会はまだ1度も訪れていない。
何せ、このリエト帝国は大陸で最も広いのだ。
彼女たちの噂を辿るのも一苦労だし、行き違いになることも多々あった。
「普段は傭兵を雇ったりしないんだけど、最近は物騒になったからね」
この辺りでは1か月ほど前に反乱が起きて、再び戦場と化した。
征服者たるリエト帝国に反発するアルカハル人は多く、情勢は今も不安定だ。
反乱が続発し、黒竜戦争に従事した傭兵たちは、現在ではそれらの鎮圧が主な仕事となっていた。
それだけなら他の契約と変わらないのだが、今回はシルビアにとって聞き捨てならない噂が流れていた。
それを確かめるべく、シルビアたちは再びこの地を踏むことになったのだ。
やがて街門に着くと、門番のリエト兵に止められた。
表情は険しく、場の雰囲気も物々しい。まるで戦場のような空気が漂っている。
商人が通行手形を見せると、兵士はシルビアたちを見て「その2人は?」と尋ねた。
「護衛に雇った傭兵だよ」
「そうか。おい、お前らも手形を見せろ」
シルビアは荷物から手形を取り出して、オリビアと一緒に見せる。
これは傭兵手形と呼ばれる、傭兵業を営むための許可証のようなものだ。
黒竜戦争の後、疲弊したリエト軍は反乱の鎮圧すらままならず、アルカハルの領土は内戦寸前までに緊張していた。
そこで、リエト軍は傭兵に目をつけた。
アルカハルからの賠償金で彼らを雇い、軍の業務を担わせた。
反乱の鎮圧だけでなく、街の治安維持から国境の防衛まで、ありとあらゆる場面に傭兵が投入された。
需要が高まると、戦争で困窮した者たちも同じ道を選び、稼げると聞いた外国人傭兵までやって来た。
そうして傭兵が激増する裏で、この状況を利用して儲けようとする輩も現れた。
連中は傭兵を騙って個人から依頼を受けると、前金だけもらって逃げたのだ。
手口は単純で、個々の被害も少なかった。
しかし戦後の貧困もあって、この詐欺はあまりに流行りすぎた。そのせいで、本物の傭兵たちの商売にまで影響が出始めた。
国の戦力を傭兵に頼るリエトは事態を重く見て、傭兵手形の発行を始めた。これは偽造が難しく発行料も高くつくため、今ではこうした詐欺は少なくなった。
「反乱はヤバいのか?」
「ヤバいなんてもんじゃない。戦線は南下して、明日にはここまで来るそうだ」
戦線というのはリエト最大の反乱勢力、アルカハル解放戦線のことだ。
リエト軍が劣勢に立たされ、この街に籠城し迎え撃つつもりだと聞いている。
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