八つ目の穴

東方雅人

彼方よりの穿孔

 最初は黒子ほくろに見えたという。

 彼の額にできた、ぽつんと小さな黒い点。それが黒子ではないと分かるまで時間はかからなかった。

 やがて点は縦に伸びて二センチほどの線となる。ただの掠り傷だろうと初めは気にも留めなかったそうだ。二日後、その切れ目がばっくりと割れるまでは――。

 開いた割れ目の中は真っ黒で、人の目を縦にしたような形をしていた。血も出なければ痛みもない。

 ようやく事態の奇妙さに気が付いた彼は、試しに手で触れてみた。ところが、とぷんっ――と指は裂け目の中へと突き抜けたのだ。指の根元まで入れても指先に触れるものは、何もない。がらんどうとした、空洞。

 これは穴だ。頭の中ではないどこかと繋がっている穴なのだ。彼はそう確信したという。


     *


「先生、額のこれ、何だと思います?」

 人文学科の教え子、寺岡雄介てらおかゆうすけがそう云って私の研究室を訪ねてきたのは、三日前のことだった。

 縦に走った三センチほどの裂け目。私も初見は傷口だろうと考えた。しかし、ライトで中を照らしてみても真っ暗闇で何も見えず、手近にあった針金を入れてみても、どこまでも奥に伸び続け一向に果てが見えない。

 穴。洞々とうとうたる穴。

 皮膚は、頭蓋は、そして脳は……本来そこにあるべきそれらはどこへ行ってしまったのか。一体、この中はどうなっているのか、どこと繋がっているのか――。疑問ばかりがぐるぐると渦巻く。

 以来、経過観察を兼ねて、彼には毎日研究室へ来てもらっている。

 それは日に日に大きくなる一方だった。一日数ミリ程度。裂け目が大きくなるにつれ、彼の様子にも変化が表れはじめた。当初は異様な事態に心底怯えた様子だったが、いまではそれが嘘のように落ち着き払っている。

「その穴ができた理由に、何か心当たりは?」

 寺岡はしばらく俯いたあと、「信じがたい話ですが」と前置きし、

「実は僕、昔から変なものが見えるんです。いわゆる霊感や第六感ってやつです」

 詳しく話を聞いたところ、彼は物心ついた頃から見えていたそうだ。他の人には見えない何か。まるでピントが合ってないかのようにぼやけて見える、この世のものではない何かが。

 これまでは単なる見違いか何かだと思い込もうとしていたそうだが、裂け目が現れて以降、その存在は疑いようのない確信に変わったという。

「以前は半透明のベールがかかっているみたいでしたが、いまはすべてがクリアに見えます」

「つまり、君は霊が見えるのかい?」

「厳密にはみんながイメージするような霊とは違います。もっと異質な……人間の理解を遥かに越えた何か、としか云いようがないですね」

「では、その裂け目と霊感には何かしらの因果関係があると?」

「ええ。これはただの穴じゃない。分かりやすく例えるなら、一種の感覚器官のようなものです。目や鼻のようなね」

 確かにそれは目を連想する形をしていた。

 七穴または七竅――人の顔にある七つの穴。左右の目、耳、鼻孔、そして口。そのどれにも属さない八つ目の穴を、彼は〝霊穴〟と呼んだ。五感では知覚不能な、霊的なものを感じ取る感覚――〝霊覚〟。額の穴は、それを司る新しい感覚器官であると云うのだ。

「この穴が、ズレていたピントや周波数を正しく調節してくれたんです。だからいまはすごく調子がいい。ああ……最高にいい気分だ」

 と恍惚の表情を浮かべる彼を見て、私は背中に薄ら寒いものを覚えた。

 また、寺岡は〝霊穴〟が開く現象を〝目覚め〟と呼称し、それは自分一人だけの身に起きているわけではないと云う。

「君のような人間が他にもいるというのか?」

「僕たちは何も特別な存在ではありません。人は目に見えないものを視ようとせず、聞こえないものを聴こうとしない。それがいけない。僕たちはただ、見えないものに目を凝らし、聞こえないものに耳を澄ませているだけ……」

 彼はしばし考え込むように目を伏せたのち、

「ああ、そうか。これは一種の進化なのかもしれません。〝あちら〟からの情報を正しく受け取るためのね」

「あちら?」

「ええ。僕が見ていたのは、この世界とは別のどこか……外の世界ですから」


     *


 翌日、裂け目はまた数ミリほど大きくなっていた。どこまで大きくなるのか――このまま拡大が進行していけば、彼は一体どうなってしまうのだろうか。

 また、裂け目の大きさ以外にも気になる発見があった。彼の両目が日毎に白濁しているのだ。いや、目だけではない。皮膚の色も若干だが以前より白くなったように見える。

 私の専門分野は宗教民俗学だ。その経験上、ヒンドゥー教のシヴァ神やニューエイジ思想など、いわゆる〝第三の眼〟に関する記述は幾度となく目にしてきた。不可知なるものとのリンクまたはアクセス――寺岡の話は、まさにその典型的なパターンと云える。

 いまや私は彼を研究対象と見なしていた。人類未踏の領域を前に研究者としての血が否応なく騒ぎ、胸中に去来した一抹の怖気よりも好奇心が上回ったのだ。

「君は昨日、その裂け目は感覚器官のようなものだと云ったね。では、その目を通して何が見える?」

「言葉では形容できません」

 彼はふるふると首を振った。

「ただ……僕個人の主観的な感覚なら、あるいは教えられるかもしれません。穴が大きくなるにつれ、身体が〝あちら〟の世界に少しずつ侵食されていくのが分かるんです。こちらとあちらを分かつ境界に風穴が開いたいま、僕の肉体は〝あちら〟に裏返ろうとしている」

 裏返る?

 彼の言葉はすでに私の理解の範疇を超えていた。理解したいのに理解できない。その困惑と苛立ちが自然と語気を尖らせた。

「一体、あちらの世界ってのは何なんだ? 死後の世界や地獄みたいなものか?」

「そんな単純なものじゃありませんよ」

 彼はしばし部屋の中を歩き回ると、隅に落ちてあったテニスボールを拾い、

「これで例えてみましょう。二つの世界は、このボールの表と裏に似た関係にあるんです。ボールの内側からは黄色いフェルトに覆われた表面は見えませんよね? 逆に表面からもボールの内側は見えない。それと同じです。両者は確かに存在するが、互いに見えないし干渉もできない」

 両者は一つの面に併存し、表裏一体の関係にある。そう云いたいのだろうか。

「霊穴は、本来交わるはずのない二世界を繋ぐ通り道でもある。あちら側の、深淵の彼方から穿たれた穴――〝霊道〟です」

「その道を通って、何かがこちら側へやってくるかもしれないと?」

「さあ、どうでしょうね」彼は意味ありげに微笑み、「ニーチェもこう云うじゃないですか。『長く深淵を覗く者は、深淵からも等しく見返される』って。見えているのは僕だけじゃない。すでに動き始めたそれは、もう誰にも止められないんです」

 俄かには信じがたい話に唖然としていると、「先生、オカルト番組って見ますか?」彼は何かを思い出したかのように訊いた。

「昔、あるテレビ番組に自称超能力者の少女が出てましてね。名前は確か……クラウディアだったかな。彼女はテニスボールを両手で包み込むように握ると、『いまからこれを念力で裏返してみせます』と云ってぶつぶつ何かを念じ始めたんです。しばらくして手を開くと、つるっとした白い球体が出てきた。出演者の一人が球体をナイフで切ってみたところ、その内側はテニスボールの黄色いフェルトになっていたんです。ね、不思議でしょ?」

「それは手品を使ったインチキさ。元から裏返してあったボールとすり替えたんだろう。事前に切れ込みか穴でも入れない限り、球体を裏返せるはずが――」

「そう! まさにそれなんですよ、先生」

 彼は私の言葉を遮り、興奮気味にそう云うと、両の口角をぐいと吊り上げ不気味に微笑んでみせた。

「切れ込み……。十分な大きさの切れ込みさえあれば、裏返せないものでも裏返せるんです。こちらがあちらに、あちらがこちらにってね」


     *


 その日を境に、寺岡は研究室に顔を出さなくなった。彼の友人が云うには、もう一週間以上も大学に来ていないそうだ。不安になった私は、彼の自宅を訪ねてみることにした。

 三階建ての古アパート。その二階の角部屋がそうだ。

 中からがさごそと音はするが、呼び鈴を鳴らせど戸を叩けど一向に出てくる気配はない。ドアノブに手を伸ばすと、鍵はかかっていなかった。半開きのドアから声をかけるが、やはり返事はない。

「いるのかい? 寺岡く……うっ」

 外まで漂ってきた強烈な異臭が鼻を衝き、私は思わず咳き込んだ。

「寺岡くん!」と、勢いよく部屋の中へ駆け込む。その腐臭にも似た臭いに、厭な予感が頭を過ったからだ。

 幸い、彼は生きていた……が、様子がおかしい。カーテンを閉め切った薄暗い部屋のど真ん中で茫然と突っ立ち、ぶつぶつと意味不明な言葉を呟いている。こちらに背を向けているため、顔までは見えない。

「寺岡くん、大丈夫かい?」

 彼はゆっくりとこちらを振り返り、私は思わず一歩後ずさる。

「先生?」

 もはやその顔に以前の面影は残っていなかった。裂け目が顔の半分にまで広がっていたのだ。髪の生え際から唇の上まで……鼻はすでに影も形もなく、割れた食器のような大きな割れ目がぼっかりと口をひらいていた。

 また彼の目はひどく虚ろで生気に欠け、右と左で焦点が合っていなかった。半開きの口からは涎が糸を引いている。

「やあ、先生。ちょうどよかった」

 部屋の床には山のように何かが積み上がっている。私には肉片に見えた。ごろごろと均等に刻まれた何かの肉片。彼はそれを両手でむんずと掴むと、だしぬけに額の裂け目の中へと押し込んだ。その後も、掻き込むように肉片を詰め込み続ける。繰り返し、繰り返し――。

 ぴくり、と裂け目が微かに震えた。鼓動にも似た蠢動。心なしか、この短期間のうちに裂け目が僅かに広がったように見える。

 私は彼にかける言葉を失い、床から大量の肉片がなくなるまで、ただ茫然と立ち竦んでいた。

「もう少しなんだ。あとちょっとで……僕はあっちに行ける」

 と、寺岡らしき何かが云った。彼だと断言できなかったのは、声がいつもより随分と低く、くぐもっていたからである。そして何より、その唇が、微塵も動いていなかったからだ。

 別人のようなその声は、彼の口ではなく、裂け目の中から聞こえてくるようだった。

 〝霊穴〟――その未知の感覚器官は、〝あちら〟の世界を垣間見る目の機能だけに留まらなかった。そこから漏れ出る音を聞く耳であり、漂ってくる腐臭を嗅ぎとる鼻でもあり、そして食物を摂取し、呪詛を吐く口でもあったのだ。

「先生……」

 やがて寺岡は私に手を振りながら、

「むこうで……まってますね」

 そう云い残して消えた。裂け目の中へ、ぐにゃりと押し込まれた。押し込まれる――その表現が妥当かは分からないが、少なくとも、私の目にはそう映ったのだ。

 中身のない風船さながらの肉体が、裂け目の中に折り畳まれていくように、彼は瞬く間に消えて無くなった。その光景はどことなく蛇の脱皮を連想させた。頭部から全身の表皮を脱ぎ捨てる蛇のそれを。

 そして蛇が抜け殻を残すように、代わりに彼がいた場所には、寺岡の形をした真っ黒な影のようなものが残った。

 それがゆらりと揺れた、次の瞬間。得体の知れないその何かは、おもむろにこちらへ一歩近づいた。よろよろとぎこちのない動き。床に残っていた一欠片の肉片を踏みつけ、次に足を上げたとき、それは跡形もなく消えていた。

 ただの影じゃない。あれは……穴?

 立体的な穴――人の形をした穴が、空間の上にぽっかりと空いている。しかも、人間と同じように動いているのだ。



 私は絶叫を上げながらその場から立ち去り、脇目も振らずに家まで走り続けた。込み上げた嘔気を洗面台の中にぶちまける。鏡には冷や汗に塗れた顔面蒼白の自分が映っている。

 私は一体何を目撃してしまったのだろう。肉体的な反転――あれが彼の云う〝裏返り〟なのか。彼は穴の中、すなわち裏側の世界へ行ってしまったのだろうか。

 ぐちゃぐちゃに混線する思考回路。両手で頭を掻き毟った、その時——。ふと、私はあることに気が付いた。途端、血の気が引いた顔面に残る僅かな色さえ、露と消え失せた。

 私にも

 額のど真ん中に。以前にはなかったはずの、黒子のような小さな小さな、あな

 不意に疳高いブザー音が鳴り響き、テレビから地震速報が流れてきた。

「マグニチュード8.0の巨大地震が太平洋沖で発生。津波の心配はありません」

 その地震が海底に長さ何千キロにもわたる巨大な亀裂を作ったそうだ。最大幅百キロ以上にも及ぶその裂け目の中へと、凄まじい勢いで海水が飲み込まれているという。

 私は何だか妙に可笑しくなった。何がそんなに愉快なのかまるで分からないが、心の奥底から無性に笑いが込み上げてくるのだ。

 とうとう私は堪え切れず、ぶはぁっと大きく口を開け広げ、けたけたと狂ったように笑い出した。




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