夜景を眺めて
増田朋美
夜景を眺めて
夜景を眺めて
由紀子は落ち込んでいた。
もう、水穂さんは、私の届かないところにいってしまった。もう、私は、水穂さんに会えないのね。私も、出来る事なら、水穂さんのそばにいてあげて、いい病院でも紹介してあげて、一緒に行ってあげられたらよかったのに。其れなのに、なんで、遠い遠い外国へ行くことを、許してしまったんだろう。
もし、由紀子がもう少し勇気があったら、きっと、強引に病院に連れて行ってしまうかもしれなかった。いくら、日本では発疹熱が流行っているとは言っても、病院でなら、それなりの対策はしていると思うし、院内感染何て、発展途上国でも無い限り、起こるはずはないと思っていた。クラスターが発生したという話も聞くけれど、其れだって、水穂さんは高齢者ではないのだし、それよりも病院に入れてあげたほうが、よほど安全じゃないかと思っていた。それなのに、なんで、飛行機で何十時間もかかってしまうような場所に、水穂さんを行かせたんだと、由紀子は、後悔している。もう少し、自分がジョチさんや杉ちゃんに、待ってくれませんかという事が出来たら、どんなによかっただろう。
その日、由紀子は、一人で焼き鳥屋さんでぼんやりしていた。焼き鳥屋さんはがらんどうであった。例の発疹熱のせいで、お客さんはみんな焼き鳥屋へ来ることを自粛していたからだった。いつもなら、大勢のサラリーマンでごった返しているはずなのに、今は人は誰もおらず、テレビの音が、むなしく流れているだけなのであった。
「こんばんは、あ、理事長さん。どうも来てくださってありがとうございます。」
不意に焼き焼き親父さんこと、焼き鳥屋の主人がそういうことを言ったので、由紀子が振り向くと、ジョチさんが、店にやってきたのである。
「こんばんは、御精が出ますね。」
ジョチさんは、そう言って椅子に座った。
「御精が出ますねって、もう暇で暇でしょうがないって感じで、なんだかむなしいですよ。理事長さん。」
と、焼き焼き親父さんは、そういうことを言うが、
「いいえ、こういうときに、頑張って焼き鳥屋をやっているという事こそ、御精が出ますねというべきなんじゃないでしょうか。」
と、ジョチさんが言った。そういう事をいうから、この人は、みんなから慕われているんだろうかなと、由紀子は思う。でも、彼女は、ジョチさんのそういうところは好きになれない。
「まあ、そうですね。売れ行きはさっぱりで、困ってますけどね。他にどうすることもできないし。」
「どうすることもできないではありません、変われなければ、これ以上やっていけないでしょうから、変わる方法を考えましょう。客が来るのを待っているのではなく、客の家に行くようにすればいいのです。つまり、焼き鳥を、注文した客の下にもっていく。宅配寿司ならぬ宅配焼き鳥に商売を替えるという事。」
「はあ、そうですか。すごいですねエ、理事長さんは。どうしてそういう危機を乗り越える方法が、思いつくんですか。俺達はとても、できないですよ。」
「いいえ、そういう風にしなければいけないほどの非常時ですし、僕が、御宅を買収したんですから、面倒を看なければならないのは、当然でしょう。ですから、今、買収した施設を一軒ずつ回っているんですよ。」
と、ジョチさんは、そういうことを言う。由紀子はそれを聞きながら、
「そうなんですか、結局、水穂さんも買収した施設とかお店とかと同じだと考えていたんですね。」
と、言ってしまった。ジョチさんは、そこで初めて由紀子のいることに気が付いたようである。
「由紀子さん、店に来ていたんですか。岳南鉄道の制服を着ていないので、由紀子さんだとは、わかりませんでしたよ。」
確かに、今日は、駅員帽はかぶっていなかった。
「どうして、水穂さんを遠くへやってしまったんですか。水穂さんが、どんなに辛い思いをしているかも考えないで。」
由紀子は、思わずジョチさんに詰め寄った。
「いいえ、辛い思いをするのは、日本にいればでしょう。日本では、えたとかえったぼしと言われて、医療も介護も受けられないというのが、通例でしょうが。それなら、初めから同和問題などない、海外に行かせてあげるというのも、一つの手なんじゃないかと思うんですが。」
「ジョチさんは、何でも合理的に考えられるから、いいんですよね。あたしみたいに、さびしいとか、そういうことを考えた事は一度もないんでしょう。ただ、不利になるかならないかで、何でも判断してしまう。」
ジョチさんに言われて、由紀子はそう言い返したが、そんな事、何も役には立たないことは明白だった。でも、由紀子はそうは思えないのだった。
「何を言っているんですか。寂しいとかそういうことは問題にはならないんですよ。それよりも、こんな風に変なものが流行している日本には、いさせられないから、フランスまで行かせたんです。日本に居て、もし、発疹熱に罹患したら、水穂さんが助かる見込みはないという事も、はっきりわかっているんですから、それなら、感染者のいない地域へ避難させる。其れは、何も悪いことではありませんよ。其れは水穂さんの安全を確保するために、必要だったんです。それに、どこが不利な点があったというのですか?」
ジョチさんが、そう語勢を強くしてそう言うと、由紀子は大きな涙をこぼして泣き始めた。偉い人には、こんな悲しい気持なんか、わかってもらえないなと嘆きながら。
不意に、ジョチさんのスマートフォンが鳴った。
「はい、もしもし、曾我です。ああ、マークさんですか。」
思わず由紀子はドキッとした。マークさんの家に、水穂さんは滞在しているはずであるから、そのマークさんが電話をよこしてくるという事は、水穂さんに何かあったのでは?
「はい、そうですか。わかりました。まあ、そうなってしまったのも、仕方ありませんね。それで、どこの病院にいったんですか?」
「そんなに悪いの!水穂さん!」
由紀子は、思わずそう口にしてしまった。焼き焼き親父さんが、静かに、理事長さんは大事な電話をされていますよ、と彼女を窘めた。
「ああ、そうなんですね。わかりました。また彼の容体が変わったら、連絡してください。わざわざ国際電話をよこしてくれるなんて、重ね重ね申し訳ないですね。有難う。」
と、ジョチさんは、電話を切る。
「ねえ!水穂さんに何があったのよ!もしかしたら、大変なことが起きたとでも!」
由紀子はジョチさんに詰め寄った。
「ねえ!教えて頂戴!水穂さんに何かあったの!」
「由紀子さん、落ち着こうよ。」
焼き焼き親父さんは、由紀子に、水の入ったグラスを渡そうとするが、由紀子は受け取らなかった。
「本当の事を教えて!水穂さんは、危ない状態なの?」
「そうですねえ。落ち着いていないと、本当の事は教えられないのですが。」
と、ジョチさんは、一寸考えこんだ顔をする。
「由紀子さん、とりあえず水を飲んで落ち着こう。それからこの焼き鳥を食べて、、、。」
「嫌よ!本当の事がわからなければ、あたしは、落ち着いてなんか居られないわよ!」
由紀子が、女性特有の、感情的に怒鳴るような言い方で言うと、
「じゃあ、本当の事を言いますね。水穂さんは、マークさんの話によりますと、自動販売機の前で倒れ、そのまま、病院に運ばれたそうです。今でも、危険な状態が続いているとか。」
ジョチさんが、そういうことを言うと、
「危険な状態!」
と、由紀子は、涙をこぼして、床に崩れ落ちた。
「マークさんは、申し訳ないと言っておられました。こっちには、日本程、自動販売機が設置されていないことを忘れていたそうです。まあたしかにそうですね、パリは、日本程自動販売機は設置されていませんからね。いつもなら、バラ公園まで数百メートル歩けば行けますけど、きっと自動販売機を探して、何里も歩いてしまったんでしょう。そこは仕方ありません。とりあえず、病院で治療を受けているでしょうから、心配しなくてもいいと思います。」
「ほら、見なさいよ!」
由紀子はジョチさんにしがみついた。
「そういう風に必ずどこかで、日本と違うところがあるじゃないの!だから水穂さん、疲れて倒れちゃったんだわ!やっぱり、日本に居させてあげればよかったのよ!ああ、なんでそんなことしたの!なんでそんなことしたの!なんでそんなことしたのよ!」
由紀子は、まるで気でも変になったような気がして、しまいには、言葉になっていない声で、泣き崩れた。
丁度その時、ガラッと焼き鳥屋の入り口が開く。誰か客が来たのかと思ったら、やってきたのは、花村さんだった。
「いや、外でものすごい泣き声が聞こえたものですからね。ほっとくわけにはいかないと思ったんです。」
「丁度いいところに来た。由紀子さん、もうどうしようもなくなっちゃったんだよ。水穂さんが、何だか危ない状態だと今、マークさんから理事長さんに電話をよこしてきたので。」
と、焼き焼き親父さんは、頭をかじってそういう事を言った。
「由紀子さん、ちょっと、そとに出ましょうか。」
と、花村さんは、由紀子の体をそっと持ち上げて、床の上に立たせた。
「由紀子さんの支払いは、このカードでやっておきますから。」
と、ジョチさんは、焼き焼き親父さんに、クレジットカードを見せて、由紀子の飲食代を支払った。
「じゃあ、あとは、僕が彼女を連れて帰ります。理事長さんは、商談を続けてください。由紀子さん、少し歩きましょうか。ここから近くに、おいしいカフェがあるんです。歩けば、落ち着くこともできるでしょう。」
花村さんは、由紀子の両手を取って、店の中から出してくれた。外は、墨を垂らしたような夜で、春と言っても、まだ寒かった。こんなに寒いから、もしかしたらおかしなものが流行ってしまうのかもしれないと、思われるほど寒かった。由紀子はストールを忘れてきたといったが、花村さんは、後で理事長さんに届けさせるようにしておきます、と言った。
「それでは、行きましょう。」
花村さんは、由紀子の手を引っ張って、道路を歩いていく。由紀子は、花村さんについていくが、近くにあると言っておきながら、かなり距離を歩かされることになった。距離的にいったら、さほどあるわけじゃないのかも知れないが、小高い丘を歩くような道のりで、坂道ばかりを歩かされて、結構落ち着いた。
「ここです。ここは、深夜まで営業しているそうですから、まだ、店が閉まる心配はありません。」
と、花村さんは、小高い丘の上にあった、小さな建物の中に入った。建物は、カフェレストラン「一向一揆」という変な名前のレストランであった。本当に小さなレストランで、花村さんと由紀子は、すぐ近くの椅子に座らされた。
「さあどうぞ、ご注文が決まりましたら、お呼びくださいませ。」
と、優しそうな顔をした、坊主頭の店主が、メニューを持ってきた。あれほど焼き鳥屋さんで、やけ酒を飲んだくせに、由紀子はまだ食べたいという気持ちになってしまうのだった。内容は和食屋で、ウナギのかば焼きとか、かつ丼とか、天丼というメニューが掲載されていた。由紀子は、じゃあ、かつ丼をお願いしますといった。店主さんは、にこやかにわかりましたと言って、厨房に戻っていった。
由紀子は、かつ丼を注文してもまだ泣いていた。水穂さんは、どうなってしまうのだろうと、悲しい気持ちというか、情緒が安定しなかったのだ。それを見た、店主さんが、
「お姉ちゃん。ちょっと、この夜景を見てくれる間は、泣き止んでくれるかな?」
と、店主が、ブラインドをガラガラと開けた。すると、窓の外から、美しい街のネオンが、赤赤と見えたのであった。いわゆる夜景というモノである。こんなきれいな夜景が見えるカフェであれば、もっと繁盛してもいいだろうなと思うのだが、やっぱり発疹熱のせいだろうか、お客さんは誰もいないのだった。
「綺麗、、、。」
由紀子は思わず、その夜景に見入ってしまう。
「私もね、時々ここに来るんですよ。世の中がどうしようもなくて、何も解決ができないときは、ここでこうしてこの景色を眺めるんです。そうするとね、この夜景の下で、いろんな人たちが働いているんだなって気がして、私も、頑張らなければならないなって気がするんですよね。」
花村さんは、にこやかに笑ってそう解説した。
「でも、こんなもの見せられても、水穂さんに届くはずがないわ。もう遠くの遠くへ行ってしまったのよ。もしかしたら、そのまま逝ってしまうかもしれないでしょ。だからあたしもう不安で、もう生きていけないような気がするの、、、。」
由紀子はテーブルに顔を伏せて、しくしくと泣いた。
「普通の人だったら、甘ったれたこと言うなというんでしょうけど、私は、言いません。そんな事言っても無意味なことは、知ってますからね。」
と、花村さんは、そういって、彼女が泣き止むのを待った。店主さんが、かつ丼を持ってきてくれようとしたけれど、それも、少しまっててください、と断ったほどであった。
「きっと今の由紀子さんには、何を言っても無意味なのでしょう。そして、そういう話し合いをすることも無意味であることを、私も知っています。今は、話し合いをしようと、泣こうとわめこうと、何も変えることは出来やしませんよ。自分だけは変われると進言してくれる人もいますが、それも限られた一部の人でなければ、出来ないという事も知っています。今は、何も変わらないで、生活を続けていくしかない。其れは、どんなときでもそうなんですけどね。ただ、今はこのご時世だから、それがちょっと、強調されすぎているだけの話で。」
と、花村さんは、そういった。確かにその事実が、由紀子に突き付けられた、事実なのであった。
「でも、それに耐えていられるかと言うと、そうでもないから、先ほどは、ああいう風になってしまわれたんですね。」
花村さんは、そういって、水をすっと飲みほした。
「由紀子さん、辛いかもしれないけど、泣いてもいいですから、耐えてください。もし、泣きたかったら、理事長さんの店ではなく、ここの店に来てしてください。幸いこの店は、夜景はきれいですが、立地条件が悪くて、お客さんも入らないそうですから。」
「そうなんですか?花村さん。」
と、由紀子は花村さんに聞いた。
「ええ、そうですよ。最近は、打ち合わせの場所にしても、スターバックスとか、そういうところで済ませてしまう様で、ここは、余り人気がないんです。」
店主さんが、優しくそういうことを言った。
「そうだったんですか、、、。」
と由紀子は、おどろいていった。
「だから、決して、この店をやっていくのも、楽じゃないんですよ。時々、花村先生に来てもらって、話を聞いてもらったりしているんです。」
店主さんも苦労しているんだろう。その顔は、決して楽をしているようには見えなかった。
「だから、由紀子さんも、辛かったり、悩んだりしたときは、こうして、この店に来てもらって、ゆっくり夜景でも見ながら、考え直してほしいんです。人は、自分だけがつらいわけじゃありません。きっと、悩んだり悲しんだりしながら生きているんだと思います。それで夜景というモノは美しいと言えるのかもしれないですよね。」
花村さんは、由紀子にそういうことを言った。でも由紀子は、まだ信じられなかったのか、こういってしまう。
「でも、花村先生、あたしはどうしたらいいのでしょうか。水穂さんに対して何かしてあげられたらと思うんですけど、何もしてあげられないんです。それしか、出来ないとよく言いますけど、本当にしてあげられることは、何もないんです。」
「一つだけあるんじゃありませんか。」
と、花村さんは言った。
「祈る事ですよ。それなら、誰でもできるでしょ。ばかばかしいとお思いになるかも知れないけど、祈ると気持ちも落ち着いてくるモノなんですよ。昔の人は、それにあこがれて、出家という事もしましたよね。」
そうか、出家して、祈りの生活をすることが、昔の人は理想の生活だったのか。
「でも、今は時代が違うわ。」
由紀子がそういうと、
「いいえ、それは何時の時代にも通じる事なんじゃないでしょうか。私が、大石寺へ慰問演奏した時に、聞いた話ですが、現在でも、出家をする方は、少なくないそうですよ。特に、繊細過ぎて精神を病んだ方が、そうなると聞きました。」
と、花村さんは言った。
「其れはあたしには関係ないですが、祈るなんて、水穂さんに通じるものでしょうか?」
「其れもわかりません。ただ、私たちにできるのは、それしかないことも確かです。」
と、花村さんは、優しいが、その口調はちょっと厳しかった。
「まあまあ、ここに来たからには、夜景でも眺めてのんびりしてください。つらい時には、のんびりが一番ですよ。」
店主さんが、ほらどうぞと、かつ丼を差し出した。花村さんも、どうぞ、とにこやかに笑って、由紀子に箸を渡す。
「いただきます。」
由紀子は、かつ丼にかぶりついた。上手に調理されているかつ丼はおいしかった。そう考えると、こんなきれいな夜景を眺めながら、かつ丼を食べるなんてなんとも贅沢なものであった。贅沢は敵だという風潮のこのご時世に、なんだか似合わないものであった。
「どうですか?ここのかつ丼は、一部の人の間では大評判なんですよ。」
花村さんがそういうので、
「はい、おいしいです。」
と由紀子は答えた。
「よかった。」
と、花村さんもにっこりする。
「其れなら、あたしができる事として、水穂さんに祈りをささげることにします。」
由紀子はそうすることを誓った。この夜景を作ってくれている人に感謝するためにもそう思った。
その翌日、駅員としての勤務を終えた由紀子は、吉原駅近くの毘沙門天が祀られている神社に行く。確か、この神社で行われている春祭りも、発疹熱の流行のため、取りやめになったと聞いている。だから、来年こそ、春祭りをできるように、という絵馬が、近くの楠の木にたくさん奉納されていた。由紀子も、絵馬を奉納しようかと思ったが、時間が遅すぎた。なので、由紀子は本殿に向かう。そして、さい銭箱にお金を入れて、二礼二拍手し、懸命に祈った。何だかここに来ると、神様は、さい銭というモノだけでは許してくれないような気がした。それよりも、神様は、私が真剣に祈るのを試しているのではないか。由紀子は、神社の雰囲気からそう感じとって、懸命に祈りをささげた。
由紀子が、毘沙門天の鳥居をくぐると、ふっと風が吹いた。暖かい、南の風である。ああ、もうすぐ春なんだなと由紀子は思った。このとき、由紀子の頭に何かが思い浮かぶ。
「ああ春だあな、、、。」
思わず、由紀子はそうつぶやいて、鳥居を後にした。
夜景を眺めて 増田朋美 @masubuchi4996
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