死ぬ権利

索条カレン

短編

 ゆっくり扉を開けると、その先に人が揺れていたのが見えた。身に纏っているのは下着と縄だけ。天井から伸びる縄は蛇みたいに女の首に巻きついてる。

 見慣れた女。見慣れたワンルーム。部屋にはものがほとんどなく、食べ物が入ったコンビニの袋があるぐらいだった。

「末期だな。無駄だっていうのに」

 俺は敢て侮蔑を含んだトーンで口にする。

 鼻につくにおいはない。縄で圧迫された眼球は少しばかり飛び出ていた。舌は喉の奥から押し上げられているらしく、力なく口から垂れている。

 女を担ぐように持ち上げてから、台所から持ってきた包丁で縄を切る。生活感が感じられない部屋だが、包丁はあった。食べ物を切るために買ったわけでもないだろう。

 ゆっくりと床に仰向けで寝かせてから、首に巻きついている縄を解いた。

 女を見下ろしながら、耳にスマートフォンを近づける。

「首吊りを実行してました。外傷はないです。――ええ、そうですね……見た感じ接触はないみたいですが……」

 スピーカーから流れる音声の意識はこちらに向いていないのが明白だった。俺の報告は形式上必要なことで、上司が本当に必要だったとは思っていない。

 報告の通話は一分たらずで終わった。過去最短かもしれない。あちらも忙しいのだろう。俺もできることならあちらの仕事をしたかった。

 オフにしたスマホの画面に反射する俺の顔は、つまらないリアリストの表情になっていた。

 改めて部屋を見回す。全裸に等しい女がなにかを所持しているはずはない。テレビが乗っていないテレビ台のひきだしを開けると、女のスマホが入っていた。

 パスワードはなかった。通話履歴、検索履歴を順々に確認をする。

「あっ、あっ。がはーー」

 背後から大雑把に息を吸い込む音が聞こえてきた。真っ赤な目をむいている女が上体を起こして、振り向くとそこには肩を大きく揺らしていた。

 女は痛んでぼさぼさな髪をさらに乱すように頭を抱えた。すでに首についていた索状痕は消えていた。

 人間が自殺できるはずがないのに、なぜそれが理解できないのだろうか。


 上司に帰署の連絡をしたのち、俺のデスクに座る。

 事件があったらしく署内は慌ただしかった。デスクについている俺の背後をせわしなく刑事たちが行きかう。空間は広いが、刑事たちのデスクや事件ファイルが収められているスチール書庫がいくつも並んでいて実際は狭い。

 報告書に今日のことをまとめる。俺が今日回った場所は九か所。八か所は怪しい状態の男が一人いたが、命を絶とうとする兆候はすぐに表れそうにはなかった。問題はあの女だ。

 自殺中毒者の管理、監視が俺が今担当している仕事だ。ふとした瞬間死に憧れ、死の魔力に魅せられ連中に日々接触している。

 望んで担当しているわけではない。全く理解できない行動をとる、ファンタジーに生きる連中を相手にして、俺の精神はどんどん削れている。異動されてから体重が七キロも落ちた。

 俺は刑事部の捜査一課に一応所属している。一応とつけるのには理由があるが、単純に俺がミスしただけで面白い話はない。

 捜査一課は殺人事件を扱う部署ではあるが、俺は人間を辞めたがっている人間のカウンセリングもどきをさせられている。警察――特に刑事に憧れ、人生をかけてこの職に就いた俺にとってはいまはとてもつらい。

 昨日の報告書をコピペしてもばれないような内容の報告書をもって上司に提出しに行く。

 ネクタイを緩め、袖を肘付近までまくった刑事が上司と相談をしていた。警察手帳にメモしたものを見ながら、お互い眉間にしわを寄せている。話の方向性が決まったようで駆け足で刑事は一課から飛び出していった。

 駆けて行った男の背中を俺は視線で追っていた。俺もあの男のような仕事がしたくてこの仕事に就いた。羨望が含まれていたのは間違いない。

 それに比べて自分のいまの仕事に対しての熱意は報告書の文字数に比例しているかのごとく無に等しい。

「すみません。これ今日の報告書です」

 上司はパソコン画面から視線を移すことなく、手だけを俺に伸ばした。俺もだが組織全体が俺の仕事に必要性を感じていないのだろう。異変があった場合はその場でも連絡を入れているため特に目新しい情報はそこにはない。

 受け取った報告書を無表情で確認する。一分もかからない。

「これ、昨日と同じじゃないのか」

 俺もそう思う。しかし、驚いた。上司は少なくとも俺の報告書を覚えていてくれているようだ。

「いえ、昨日は自刃による自殺で、今日は縊死です。どちらもそれによって死を迎えることは不可能ですが」

「そんなことはわかってる。で、九名に組織との接触の形跡はあったかね?」

 上司はまだ会話の意識はこちらに向けてくれている。しかし、視線はすでにパソコンのディスプレイに戻っていた。器用だ。人の上に立つとはこれぐらいできないと無理なのだろう。

 この光景には慣れた。こちらも携帯電話をいじってしまおうと何度も思って、実際ポケットに手を忍び込ませるまでしたことはある。俺は不器用だから、両方に気を遣うことはできない。残念だよ。

「ああ、それですが、確認はできませんでした。報告書にあるように自殺方法指南サイトの閲覧履歴がある対象者が一名いましたが、それ止まりです。SNS等で怪しいやり取りをしている様子も見られませんでした」

「そうか。わかった。明日もよろしく頼むよ」

「あの……その……」

 言い淀む。

 現場に戻りたいです。たったこれだけの言葉がのどぼとけで突っかかり先へと出て行かない。首を締めあげて絞り出せばでるのだろうか。手が空気を握りしめるように何度もグーとパーを繰り返す。前までは生意気に言えていた言葉はもう牙が抜かれて洞穴から顔を出さなくなっていた。

 鋭い目つきの上司が俺を見上げていた。

「なんだ?」

 俺の仕事が形式的なものならば、上司のいまの一言も形式的な聞き返しだった。本人は特に俺から話を聞きたいと思ってはいないのだ。

「いえ、なんでもないです」

「そうか。報告書、ご苦労」

 俺は軽く頭を下げてから、踵を返す。

 マットの上を歩くように重い足取りで一歩一歩と戻っていると、背中に上司の言葉が飛んできた。

「言い忘れていたことがあった。前言ったこと覚えているか?」

 拍動が加速した。まさか。俺の要望が叶ったのか。

 距離は全くなかったが、駆け寄るような形で上司のデスクに縋りつく。天板におろした両手の痛みも、その音で集まった注目も気にならない。

「はい。覚えてます。俺が頼んでいたやつですよね」

 よかった……。心の声のつもりだったが、もしかしたら口から洩れていたかもしれない。それだけいまの仕事に嫌気がさしていた。

「やけに嬉しそうだな。そんなに待っていたのか」

「はい!」

「きみとは別地区を担当していた刑事がやっぱり辞めてしまったんだ。だから、きみが代わりに担当になってほしい。もちろんすべてではない。一部だけ」

「俺が現場復帰するっていう話じゃないんですか!」

 勝手に期待して勝手に落ち込んで勝手に逆上した。俺が発した大音声は部署全体に響いたと思うが、上司は眉一つ動かすことなく動じない。ベテラン刑事だけあって、この手のことには慣れているのだろう。

 頭に上った血が下がるまで上司は黙って待っていた。

「とりみだして、すみませんでした」

「ふ。その話なら検討はしているさ。ただ反対する者も少なくない。あれだけ現場を混乱させてしまった責任はそう簡単になくならない」

「……はい。存じています。担当個所が増えることは承知いたしました。担当する人物の詳細メールしてください」

 俺はそれだけ言って自分のデスクに戻った。


 刑事で忙しかったころは、時計が頂点を過ぎても自宅に帰れないことがほとんどだった。

 いまの仕事をするようになってからは残業することはなくなった。車で割り振られた住所を回って怪しい行動をとっていないか見て回るだけで、すべて回っても午後六時までに署に戻ってくる。

 残業がなくなって自分の時間が増えたことは悪くないのかもしれないが、無趣味な俺にとっては無意味でしかない。帰って深酒をする毎日が待つのみだ。

 今日も駅の近くのコンビニに寄って五〇〇ml缶を四本買った。いつもより一本多い。

 気がついたら、歩きながら飲んでいた。

 最寄駅は都市から少し離れていてはいるが、駅周辺はわずかばかり栄えている。大きな道路が線路と交わるように走っている。

 歩道橋が人の往来で揺れているのか自分の平衡感覚が揺れているのか。いつもよりも足元がしっかりとしない。

 中間地点まで来たとき、行きかう車を見下ろしている小学生ぐらいの子どもがいた。自身の背よりも高い欄干の隙間に顔を差し込むぐらいに近づけて熱心に下を見ている。

 携帯電話で時間を確認するとまだ七時なったぐらいだった。俺はどうしようか迷った。警察官としては声をかけるべきだろう。

 子どもは往来する人には関心を向けず、ただ車だけを眺めている。車が好きで眺めていると片付けてもいいが、なにかが引っかかった。

「なあ、車見て楽しいか?」

「酔っ払いですか?」

 子どもは俺を一瞥して再び道路に視線を落とした。似たような光景をさっきも見た気がした。

「いや、警官だ」背広から警察手帳を取り出して、広げる。「ドラマなどで見たことあるだろう、こういうの?」

 子どもは視線すら俺に向けなくなった。

 交番勤務のときに先輩に習ったことを思い出す。子どもを相手にするときは目の高さを合わせると話をしてくれると。それを実践するために俺は腰を下ろした。

「この時間はまだ車の量も多いよな」

「…………」

「塾帰りか? それとも家出か?」

「……どちらも違います。これから塾です」

 なるほど。一筋縄ではいきそうにない子どもだ。

 会話の糸口がないかと子どもを観察する。身長は一二〇ぐらいか。ヘッドライトが映り込む瞳は大きく、まつ毛が長い。見た目で少年かと思ったが、もしかしたら少女かもしれない。

「きみの名前は? 学校どこ行ってる?」

「……知らない人に個人情報を教えてはいけないってこの前学校に来たお巡りさんが言ってたので、教えません」

「あのな、俺はさっきみせた通りお巡りさんなんだよ」

「おじさんがお巡りさんだとしても知らない人には変わりありません」

 国語の朗読のように子どもは淡々と受け答えた。規範意識は立派な一方、杓子定規すぎるのは感心できない。

 手がビニール袋の缶に伸びようとしていた。もう一つの手でなんとか阻む。酒に逃げる悪癖は子どもの前でも顔を出す。

 俺の見つめる視線が気になるのか、子どもが嫌そうにこちらを黙って睨み返してきた。見られたら見られたで恥ずかしいもので、今度は俺が車道を眺めた。

 絶え間なく続く車。一般車やトラック、バスやバイクと様々な車種があった。ああ思い出した。

 酒には強いつもりでいたが、やはり頭は少し鈍っているみたいだ。先輩から教わったことには続きがあった。まず子どもには本題から聞くのではなく、その子が興味のあるものから話を振って次第に本題に持っていく。

 あの子どもが興味あるものといえば、車しかない。

「車、かっこいいよな」

「…………」

「俺も大人になったらたっかい外国の車を乗り回すなんて夢もってたな」

「そうですか」

 全くもって感触がない。車がキーワードは間違いだったのだろうか。だが、一途に子どもは下を見続ける。それこそ車の川に吸い込まれていくように、だ。

 一瞬、自殺の文字が脳裏をかすめた。しかし、子どもの目には彼らがもつ自殺願望特有のくすんだ色はない。

「おじさん、車、乗るんですか?」

 初めて向こうから言葉を投げかけてくれたことに動揺しつつ喜びを感じてしまった。そのせいだろう、ついつい余計なことまで言ってしまった。

「ああ、乗るよ。今日も車であちこち回った。行く場所は細い道が多くてな。曲がるときなんかはいつも気を遣うんだ。なんで自殺中毒者は裏道の家を借りたがるんだろうな」

「自殺中毒者って言いました?」

 長いまつ毛が特長的な大きな目が俺を映し出す。子ども特有の好奇心旺盛さが溢れんばかりで、からだごと俺に近づいてきた。

「ああ言った。いや、やっぱ言ってない。仕事上第三者に言うわけにはいかない」

「ぼく子どもなので、そういうのわからないです。自殺って言いましたよね?」

 俺は橋の上に置いていた缶を手に取り、よろめきながら立ちあがった。足にしびれを感じながらも帰路に就く。

 口を滑らせてしまった俺が悪い。ただ子どもの無駄な好奇心を意味もなく満たしたくなかった。

 ビニール袋が音を立てる。子どもが俺を引き留めようとしていた。大きな目をさらに開いて俺を見上げていた。

「待ってください、おじさん。ぼくは塚田翔って言います。おじさん、自殺について詳しいんですか? ぼくどうしても自殺したいんです!」

「俺はそういうくだらないことをいう奴が一番嫌いなんだ。ツカダカケルだっけか。漢字はどう書く?」

「えっと、蟻塚の塚に田んぼの田、羊の羽で翔です」

「なるほど。で、学校は?」

「××小学校……です」

「わかった。明日警察からお前の学校に指導を入れておいてやるから」

 翔と名乗った子どもは全体重をビニール袋にのせるように力を入れた。取っ手部分が俺の指の関節に食い込み、指先に痛みが走った。所詮は子どもの力。俺が力負けするはずがなかった。

 あ。

 翔は引っ張るときに爪を立てていたらしく、ビニール袋が破れて缶とつまみが歩道橋の上に散らばった。俺の伸ばした手を振り切って転がる缶は欄干の隙間を抜けて車道へと落下していった。

 奇跡的に車にぶるかることなく落ちた缶は、車に引かれて爆発音のような大きな音を立てて潰れてしまった。

「あーもったいない。おい、翔。お前のせいだぞ」

「おじさんが悪いんだ! 待ってってぼくは言ったもん」

 仕返しとばかりに俺は翔の方を見ずに、轢かれ続ける缶とピールの水たまりを眺めていた。正直な話、酒を無駄にされたことに関して俺は怒りはなかった。

 俺はこの社会に失望していた。

「どうせ自殺したいっていうのも周りがしているからなんじゃないのか?」

 潤んだ翔の瞳がきらりと光った。図星だったようだ。

「どうしてわかったの? おじさん、探偵なの?」

「警察官だ。け・い・さ・つ・か・ん」

 俺は二本目の酒缶に蓋を開けて、一気に喉奥へと流し込んだ。そしてせき込んだ。欄干に肘をのせて気分を落ち着かせる。

「さっき口走ったとおり、俺は自殺をする人間を見て回ってる。別に専門の知識があるわけではなく、ただただそいつらの監視をするだけだ」

「自殺ってやっぱり死なないんですか? おじさんは自殺したことありますか?」

「俺は一度もない」

 隣に立つ子どもの純粋な質問に俺は誠実に答えた。それが期待に沿わない解答だとわかっていた。

 俺のように自殺をしたことがない人間はネットなどでは自殺童貞といわれている。

 人間は自分の意思では死ねない。これがこの世の摂理だ。水が高いところから低いところに流れていくように、朝と夜が繰り返すように、人間は決して自殺はできない。

 寿命や病気で死ぬか、他人の意思によって殺されるか。人の死に自殺の選択肢は存在しない。

 ファンタジーでは自殺を扱ったジャンルが古今東西存在する。不思議なものだ、自らの命を絶つことが古代人にとっても憧れだったのだ。

 だが、俺は決して憧れなかった。できることとすることはイコールではない。

「自殺なんて馬鹿なことはする必要がない」

 手を伸ばして欄干を掴む翔の手から力が抜けた。叱ったつもりはなかった。翔は大人に叱られたと受け止められたのかもしれない。

「俺の一つ上の世代で、ファッション自殺が昔流行ったことがあった。そういったブームは周期的に起きるもんだ。たぶん翔のところもそうなんだろ」

「う、うん。周りのみんなはマンションから飛び降りたとかリストカットしたとか……そんな話ばかりで……。みんなすっごく楽しそうに話すんだ」

「童貞を捨てると自分は周りより優れたと男は錯覚するものだ」

 翔が童貞の意味を尋ねてきた。小学生相手に少し言葉を選ぶべきだった。誤魔化すように俺は自分の話をした。

「俺がいま仕事で会っている連中は、世間一般的に言われている自殺中毒者だ。死に魅せられた頭のおかしな人間だ」

 小学生に話せる程度でどんな人間がいるのか俺は淡々と説明した。

 首を吊って舌や目玉が飛び出して首が脱臼しようがなかったかのように目を覚ます。ナイフで動脈や内臓を傷つけようとしても、その行為の瞬間だけ世界から消えてなくなってしまう。

 高所から飛び降りようが、劇物を服用しようが、人間は決して自分の意思では命を絶つことは不可能な生物なのだ。

「アルミ缶はここから落ちて車に轢かれればあんな形で潰れる。だが、お前は人間だ。ここから落ちたって死ねない。誰かお前を殺そうと明確な意思をもった人間に背中を押されない限りだ」

「でも、それがどうしてダメなの? 死なないのなら死んだっていいだろ」

 翔は轢かれるたびに形を変え場所を変える元アルミ缶だった物体を見つめていた。

「俺のいまの仕事は中毒者を監視するって言っただろ。自殺っていうのは麻薬と同じなんだ。また死ぬ間隔を求めたくなる。死ねないってことは、絶対にゴールできないってことだよ。一度でも自殺するとゴールのないマラソンを始めるのと同じになる」

「そんなこと言っても、友だちは誰もそんなことになってないし。信じられない」

 信じられないのは俺のほうだった。なぜ俺以外はそこまで自殺に魅力を感じてしまうのか。目の前の塚田翔もすでに自殺に惹起されている。

 俺が異常なのか、周りが異常なのか。

 決まっている、俺は間違っていない。俺はこの気持ちが正義感に基づく判断だと知っている。だからこそ、俺はこの道に進もうと決めたんだ。

 自分自身の掲げる正義をそむくわけにはいかない。腐りかけていた俺に正義の心を思い出せた。これはきっと運命と呼べる出来事なのだろう。酒なんか飲んでいた場合じゃない。

 俺は缶を握りつぶし、翔の説得に臨もうと気合を入れた。

「だからな、翔」

 翔の姿は隣にはなかった。顔を上に上げて、ようやく翔の状況を把握できた。

「おい止めろ! 落ちるぞ!」

 欄干の上に翔が立っていた。ふらふらとよろめきながらも、左右に伸ばした両手でバランスをとっていた。

「近寄らないで。ぼくは、ぼくは、ここから飛び降りる」

「そんなことをしたって無駄だ。死んだって意味がない。いや本当の意味で死を迎えることはできないんだ」

 傍からみたら、自殺の一つや二つで騒いでいる俺はおかしく映っているのだろう。

「どうしてそんなに自殺をするのを止めるの? どうせ死ねないんだからいいでしょ」

 風はないが、下を走る車の振動で歩道橋が揺れている。何度も翔のからだは大きく揺れる。その都度小さく手のひらを広げてヤジロベエのようになっていた。

「ねえ、おじさん。ぼくどうしても怖いんだ。死なないってみんなは言うし、図書室の本で調べたけどその通りだった。でも、怖いんだ」

「ああ、そうだ。死ぬのは怖い。だったら死ななければいいじゃないか。さあ降りて」

「でも、でも。みんなはクラスのみんなは自殺を経験しているんだ。ぼくだけなんだよ……まだ死んだことないんだ……」

「別に自殺を自慢してくるようなやつがいたら、無視すればいい」

「ねえ、おじさん。ぼくの足は怖くて動かないんだ。だから、ぼくを押して」

 伸ばしていた手が止まった。このまま翔が落ちても死ぬことはない。もし俺の手が触れた際に翔が落ちたら、どうなってしまうのか。

「ねえ、その手で、ぼくを……押してって! ぼく、このままだとクラスでひとりぼっちになっちゃうよ……」

 俺は空中で止まっていた手を翔に伸ばした。

 服越しに伝わる翔の体温。ぬくもりは滑らで心地よい。

 俺は力を入れた。

「こっちにこい!」

 服を力いっぱい雑に引っ張り、欄干の上にいた翔を胸に引き寄せた。

「なに馬鹿なこと! 死んでいいわけないだろう。それに俺を人殺しにさせるな」

「なんでさ。だって、ぼくみんなから仲間にしてもらえないじゃんか」

 翔は顔を俺に押し付けながら、叫んだ。籠った声は震えている。

 俺は翔を受け入れながら優しく語り掛ける。

「すまなかった。俺はずっとずっと翔のことも自分自身のことも勘違いしていた」

「どういうこと?」

「自殺する人間の思考なんてさっぱりわからない。翔のこともはなから理解しようともせず、いつもの自殺しようとする人間の一人だと思ってた。

 違ったんだな。お前が本当にしたかったのは自殺なんかじゃない。クラスメイトとの中に加わりたかった。その仲間の証が単に自殺の経験だった。馬鹿だな、翔は。お前はお前だと、もっと胸を張ればいい。それでも同町圧力をかけてくるような連中なら、付き合う必要はないんだ」

「でも、そうしたらぼくは……ひとりに……」

「俺もいまは一人だ。一人になってずっとふてくされていた。それでも、自信をもって自分は自分なんだと言って言い聞かせてこそ生きた人間なんじゃないのか? そういう意味では俺も翔も自殺していたようなものだ」

 翔の震えが止まっていた。ずっと翔は死の恐怖ではなく集団からする孤立に対しての恐怖と戦っていたのだ。

 だったら、俺がその恐怖との闘い方を教えてやればいい。死ぬことよりも難しし、俺自身忘れそうになっていた。

「自分の正義を持つんだ。絶対に揺るがない自分を貫く一本の正義。それを忘れず磨き続ければ、最大の武器になる」

 俺に預けられていた翔の体重がなくなった。翔は自分の足でしっかりと立ち、大きくまっすぐな目で俺を見上げていた。

「どうやって正義って手に入るの? 売ってるの」

「さあな。通販では見たことないな。でもな、それは必ず自分のここにあるものだ」

 俺は自分の胸に拳を押しあてた。

「気づけばそこにあるものだ」

 翔は自分の胸元をぼんやりと見つめていた。手を押し当てていて、その仕草は心から正義を探し出しているようだった。

 なんとなくだが、翔はもう大丈夫だろう。きっと自分自身の正しさを見つけ出すことができるはずだ。


 翔との出会いが機転になったかはわからないが、俺の仕事に変化が起きた。

 俺の仕事は自殺中毒者を監視することだ。自殺そのものは個人の自由だが、殺人となれば警察が動く。

 いま社会問題になっている一つとして、自殺中毒者を自殺ほう助という形で殺す組織が活発化していることがある。俺が日々自殺中毒者を監視している理由はそれにある。

 自殺中毒者は組織に連絡する可能性が高い。組織はなかなか尻尾を出さないが、本物の自殺中毒者が連絡してきたら姿を現すだろう。そこから組織にたどり着き組織を検挙を目指す。

 そのシナリオの一編を俺は担っている。しかし、この作戦に期待している警察組織の人間はほとんどいなかった。俺自身も前までは持っていなかった。

 いまは違う。翔と会って、思い出した。

 そして、俺の担当している自殺中毒者の一人、よく自殺を図る女がついに組織と連絡を取ったのだった。

 それをきっかけに捜査が進み、一つの組織を潰すことができたのだった。

 俺も要望が通り、刑事に復帰できた。

 復帰して初の仕事をこれから始まる。

「今日からきみ担当してもらうのはこの事件だ。まあ復帰一件目としては難しくはないだろう」

 上司は俺に新聞紙を渡してきた。

 丁寧に赤いまるで記事の部分に丸がしてある。組織のニュースが大々的に報道されていることもあり、その記事の面積は小さかった。


 自殺か? 殺人か? 容疑者は犯行否認

 ○月○日、××県の××小学校の四年生男子児童、塚田翔くん(十歳)が頭を強く打って死亡した。駆けつけた救急車で近くの病院に運ばれ死亡が確認された。第一発見者は同学校に通う児童たちで、校庭で遊んでいたら屋上から落ちる塚田くんを目撃。(中略)屋上には塚田くんを含め複数の児童と遊んでいた。その友達グループ間で自殺ごっこがはやっていて、当日は塚田くんが飛び降り自殺を行っていた。(中略)塚田くんが死亡していることから児童たちが突き落としたとみて捜査が進んでいる。


「おい、きみ、まさかこのニュースを知らないのか?」

 俺は言葉を失った。


 翌日仕事を無断で休み、次の日に辞職届けを提出した。

 憧れだった警察の仕事をやめて、俺は部屋に閉じこもる日々を過ごした。

 俺の正義が翔を殺したことは明白だった。きっと翔は最後まで抵抗したのだろう。本当なら俺が調べ上げて、翔の無念をさらしてあげるのが筋なのかもしれない。


 どのぐらい日が経っただろうか。俺が天職と思っていた警察官も辞めてしまっても、その穴埋めされている。誰も俺を必要としなくなった。

 ああ、そうか。俺は社会的にもう死んだんだ。

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死ぬ権利 索条カレン @E13945N3541

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