第47話
自宅に帰ると電気が灯って明るいなんて何年振りだろうか。
以前、電気をつけっぱなしで登校したことがあった。帰ってきた時には当然明るかったが、あまりにもむなしかった。すでに暗くなっていたのに思わず電気を消してしまった。
これは幻覚ではないか、と思う。
兄は出て行ったきり一度も帰ってきていない。父はまれに帰ってきてもすぐに出かけていった。
そんな二人が、一人で最期を迎えようとしている自分を出迎えてくれるなんて、そんな都合のいいことがあるのだろうか。
目の前の明るさが信じられなかった。
「おい、いつまで突っ立ってるんだ。寒いから玄関閉めてくれ」
「あ、うん」
ドアノブから手を放す。健治は部屋に入っていなかったので、廊下で立ち尽くすことになった。
目をつむり深呼吸をひとつ。もう一度ドアノブをひねってドアを開ける。
「何がしたいんだお前」
父は鍋に菜箸を突っ込みながら言った。
呆れを隠しもしない様子に少しだけ反感が湧いた。
どうして父が帰ってきただけで健治が動揺しているのか。その理由は父にあるのになんて言い草だ。
今度は部屋に入ってからドアを閉じた。
兄はばつが悪そうに無言で座っている。
健治は荷物を置いて手を洗い、空いていた椅子に腰かけた。
懐かしいな、と思う。家族が揃っていた時にはいつもここに座っていた。
その頃には正面に母親が座っていたが、母の椅子はすでにない。母が家を出る直前にひと悶着あり、その時に母が壊したきりだ。父も健治も新調しようとは言わなかった。
その席に座っているだけで夢見心地になってくる。
実はもう世界は滅んで、健治は夢を見ているのだと言われても違和感なく受け入れるだろう。
夢に見ることはあっても決して実現しなかった情景だったから。
「健治、飯は食ってたみたいだが、調子はどうだ。あまり顔色が良くないぞ」
「それなり。顔色が悪いのは……まあ、いろいろあった」
「もしかして咲希ちゃんにフラれたのか」
健治は思いきり顔をしかめた。
父に咲希と付き合い始めたことを報告していない。健治としては、あんまり身内に誰それと付き合っているとか言いたくない。だから秀人にも咲希が好きだとは言っていなかったのだ。バレバレだったけど。
誰から伝わったのだろうか。真治とは顔を合わせることすら久しぶりだし、メッセでも恋人ができたなんて伝えていない。秀人も咲希も父と連絡を取り合う仲ではないはずだ。
となると秀人の両親の耳に入って、そこから伝わったのだろうか。父と秀人の両親は仲が良かったはずだ。
だとしたらどうしようもない。秀人が他人の交友関係を言いふらすとは思えない。おそらくデートしているところを見られたのだろう。そこまで警戒していたらどこも出歩けなくなってしまう。
健治がため息をつくと、真治がおずおずと口を開いた。
「すまん健治、俺がさっき話した」
「兄さんが? もしかしてどこかですれ違ったりした?」
「咲希ちゃんと話す機会があって、そこで付き合ってるって聞いたんだ」
看護師は忙しいと聞いていた。真治に遊ぶ暇なんてないと思っていたが、よく考えてみれば外出は遊ぶばかりではない。むしろ生活に根差した店の方が鉢合わせる確率が高いだろう。タイムセールなど、同じ時間に店舗へ行く理由もある。
真治はますます縮こまった。健治が咲希と付き合い始めた直後から咲希が自宅に来ていたなど言いづらいにもほどがある。
どこであったのか聞かれたらなんて答えよう。うかつなことを言って咲希に確認されたらことである。あと半日しないで世界が滅ぶのだから大丈夫だと思うが、冷や汗が背中をだらだら流れている。
なんの感動もなく鍋に肉を投入する父親を見ているうちに、健治の心が現実に追い付いてきた。
夢じゃない。現実だ。
能天気に鍋の火加減を調整している父親も。
過去よりなんだか小さく見える兄も。
「兄さん、久しぶり」
「ああ、なんていうか、悪かったな。避けてて」
「兄さんにも避けたい理由があったんでしょ。むしろ押しかけたりしてごめん」
「気にしてないから気にするな」
「分かった」
やり取りはぎこちない。
健治は過去に「いらない」と言われたせいで、真治に対して若干のおびえがある。
今はそれ以上に真治の腰が引けていた。
こんな相手に怯える人はいないだろうというくらい逃げ腰だ。おっかなびっくりという言葉の擬人化とさえ言えそうである。
「何回も訪ねてくれたけど、健治は俺に何か用があったのか?」
「特別用って程のものでもないよ。ずっと会ってなかったから世界が終わる前に会っておきたかっただけ」
それも彼女が出来た勢いで考えただけ。
そう考えるとどうしてあれほど執着していたのか不思議になってくる。
けれどきっと正しかったと思う。
思い描いていた再会とはまったく違う状況だが、こうして会うことができた。
それだけで満たされている。
仲良くできたらいいが、べたべたしたいわけではない。
たった一度、顔を見て普通に会話できればそれでよかったのだ。
ずいぶん遠回りだったけれど、すべてが終わる前になんとか間に合った。
心から良かったと思える。
朗らかに笑う健治と、硬い笑みを無理やり浮かべる真治。
それを見た父は、まるで焼き肉が焦げそうになっているのを指摘するくらいの気軽さで言った。
「終わらんけどな、世界」
―――
「「は?」」
真治と健治の声が綺麗に重なった。
揃って父に視線をやると、父はお椀を傾けて鍋の汁をすすっていた。
兄弟は揃って父が現実逃避しているのではないかと思った。
どんなメディアでも世界滅亡は秒読みだと言っている。何より隕石はすでに肉眼で見ることができる。自分の目で見てなお隕石が降ってきても大丈夫だと言う人間は頭おかしいと言わざるをえない。
兄弟が仲良く戦慄していると、父はなんてことないように言うのだ。
「今頃IMBの連中が隕石をぶっ壊しに行ってる。だから明日以降も世界は続くわけだ」
「なんで父さんがそんなこと知ってるの」
「そりゃ父さんはIMBに勤めてるからな」
「はあ」
健治の問いに父は冷静に答えた。
気のない返事をしながらも、健治は心のどこかで納得していた。
世界が終わるまであと五年と言われてから、父が家に帰ることはさらに少なくなった。
健治は、もうすぐ世界が終わるのに仕事ばっかりしてどうなるんだろう、と疑問に思っていた。
世界が終わる直前に何をするか。人それぞれだろう。
友達と遊ぶ人がいれば旅行する人がいる。おいしいものを食べようとする人がいれば家族と過ごそうとする人もいる。仕事を続ける人がいると聞いてはいたが、健治には理解できなかった。そういう人がいるんだな、と漠然と思っただけだった。
では逆に、健治だったら世界が終わる寸前にも続ける仕事はなんだろうか。
世界が終わる前に、自分や親しい人の満足を放り捨ててでもなすべき仕事はなんだろうか。
世界を救う仕事だ。
世界の終わりを回避するための仕事だ。
「それなら家を空ける理由を言ってくれればよかったのに。聞いてれば僕だって納得したよ」
「悪い。どこから情報が漏れて邪魔が入るか分からなかったから誰にも言えなかったんだ」
「もう僕らに話していいんだ?」
「ちょっと前まではダメだったけど、どうせ今さら聞きつけて邪魔できるやつはいないからな」
IMBの拠点は宇宙に移っている。現時点でも情報漏洩は良くないが、咎めるほど困りはしない。
今ここで情報を得て、すぐにIMBにちょっかいをかけられるだけの技術力があるのなら、今からでも隕石破壊に手を貸してもらいたいくらいである。
「じゃあ、父さんは仕事が終わったから帰ってきたってこと」
「いや、本当はまだ向こうにいるはずだった」
「じゃあなんで帰ってきてるの」
「秀人くんに怒られた」
予想外の名前が聞こえた。
父は隕石とIMBの話をしていた。
秀人の名前が入り込む余地はないように思える。
「健はずっと放置されて地味にへこんでるから、やることやったらさっさと帰って顔見せろってな。パイロットが故郷を見るための便に無理やり同乗させられて連れてこられたってわけだ」
「しばらく前に秀は家に来たんだけど」
秀人と一緒に帰ってきたなら、秀人より早く健治の前に姿を現さないとおかしいのではないだろうか。
「年単位で放置した息子と会うのにどんな顔したらいいか分からなかったんだ。察しろ」
「ダメな父親だ……」
不在がちな理由を話せないのは仕方ないとしても、すぐに帰ってこなかった理由があまりにも子供じみていた。少なくとも自信満々に言うことじゃない。
健治が父に呆れた視線を向けていると、視界の端で兄が頭を抱えていた。
そういえば父は帰ってきてからずっと鍋をいじっている。そして鍋の具材はやたらと豪華である。うまいもので息子をつりたいらしい。
ダメな親だ。もう少し堂々として、感動の再会を演じてもいいだろうに。
けれど不快ではなかった。笑えるダメさだ。
健治自身、決心がつかないうちは優柔不断だと自覚している。父のことをとやかく言える立場じゃない。
明日世界が終わらないと知っているのに今日帰ってきただけ健治より上等かもしれない。自分なら今頃まだグダグダしていただろう。
それにしても、親子揃って秀人にせっつかれているなんて。そんなところまで似なくていいのに。
「あれ、ちょっと待って、父さんは秀とどこで会ったの?」
ふと疑問が浮かんだ。
父はIMBに所属していた。パイロットが故郷を見るための便に乗って帰ってきたということは、一緒に帰ってきたパイロットがいるはずだ。そして父はこの街に戻る前に秀人に怒られたようなことを言っていた。
ということは、つまり。
「IMBの基地だよ。秀人くんは隕石破壊チームのパイロットだからな」
たった今想像した通りの回答だった。
健治の顔から血の気が引く。
秀人が世界を救うチームのメンバーだったことに驚きはない。ずっと姿を消していたのはそのためだったと思えば納得感すらある。
衝撃を受けたのは全く別のこと。世界の滅亡よりずっと身近な問題だった。
「じゃあ、秀は今、この街にいない……?」
「とっくに大気圏外だと思う」
隕石が地球にぶつかるまであと半日を切っている。
地球にぶつかる前に破壊しなければならないのは考えるまでもない。
つまり、隕石を破壊するチームのパイロットである秀人が街にいないことも、おなじくらい当たり前のこと。
自分の言動を思い出して胃の奥から酸っぱいものがこみあげてくる。
「ごめん、父さん、兄さん、行かなきゃいけないところができた」
健治はふらりと椅子から立ち上がった。
行くべき場所はどこだ。
それだけを考えながら。
兄は目を見開いていた。父は「そうか」と鍋をつつく。
健治は上着も持たずに部屋を飛び出した。
「咲希を探さなきゃ」
秀人が帰って来た。
咲希は秀人が好きだと思う。
だから最期は咲希と秀人が一緒に過ごせばいいと思った。
けれど秀人はいない。
咲希は最期の時間をたったひとりで過ごすことになる。
咲希は友人が多かった。仮に健治も秀人もいなかったなら、最期は友人なり他に恋人なりを見つけて誰かと過ごしていただろう。
最近は秀人がおらず、健治がいた。
隕石が落ちるその日はどこで過ごそうかと話したこともある。無意識のうちに二人で最期を過ごす前提で付き合っていた。
咲希は、最期を健治と迎えるつもりでいてくれた。
それを健治が振り払った。
明日以降も世界が続くなら、これから咲希が孤独な死を迎えることはない。
ならば放っておいていいか。
そんなはずがない。
健治はひとりで最期を迎えると思って鬱々としていた。あんな気持ちは咲希に味わってほしくない。自分が原因となるのはなおさら嫌だ。
マンションの階段を飛び降りるように駆ける。
駐車場で一瞬足を止める。咲希が今いるとしたらどこだ。
岩井家は先ほど電気が付いておらず、人の気配がしなかった。
秀人がいないなら松葉家はないだろう。
咲希は学校に嫌な思い出があるから学校にいるとも考えづらい。
こういう時、咲希ならどこへ行こうとするだろうか。
人が多い場所には行こうとしないはずだ。世界が終わる寸前に大人数で集まりタガが外れやすい場所は避けるはず。
隕石が見えない場所へ行くだろうか。それとも見えない場所へ行くだろうか。
咲希はきっと隕石が見える場所へ行くだろう。どうせ終わるなら最後に珍しいものを見てやろうと考えるのではないか。
三人で行った場所は数多いが、秀人の両親が車を出してくれた場所や、電車で行った場所は除外していいだろう。
一か所、有力な候補が思い浮かんだ。
昨日、咲希と一緒に行った山の展望台。
展望台とは健治たちが勝手に言っているだけで、展望台として整備されてはいない。何度か訪れて他人に会ったことはない。それでいて見晴らしが良い。昨日訪れているので候補にも挙がりやすいだろう。
健治は全力で駆け出した。
―――
「……健治を行かせてよかったのか、父さん」
「いいさ。これからも世界は続く。話す機会はこれからいくらでもある。まあ、鍋の具は取っておいてやるとしよう」
「そう言いながらカニ入れようとするのやめなよ」
「なんだ、カニ嫌いか」
「好きだけど、もう牛肉入れてるじゃん。脂浮いてるじゃん。ここにカニまで入れたらギットギトになるよ」
「そりゃそうか。ところでお前はどうだったんだ、真治。俺が家に帰って来た時、死にそうな顔してたが」
「あんまり良くはない。今日こそ謝ろうって気合入れてきたけど、もし明日世界が滅ばないなら、踏ん切りつかなくなるかも」
「なんだ、情けないやつだな」
「息子に会うのが気まずくて夜通し健治を釣れそうな食べ物買いあさってた人に言われたくない」
「生意気な。息子のくせに」
「だからいらないところまで似たんじゃない。ていうか父親面したいならもう少し父親らしくしてくれていいよ」
「痛いところを……なんだ、牛肉食うか。この辺いい具合だぞ」
「また食べ物で釣ろうとする。もらうけど」
「俺だってなあ、隕石騒ぎで大変だったんだぞ。家族への説明も不許可だったから理由は言えないで海外赴任だし。健治からツンケンしたメッセが届くたびに泣きそうになった」
「それを言われるとこっちもあんまり強く言えないけどさ。でも父さん、隕石騒ぎのだいぶ前から留守がちじゃなかったっけ」
「…………………」
「黙るなよ。なんか言えよ」
真治の目が座ったところでコンコンとノック音が響く。「こんばんは」とくぐもった声がする。
真治も父も聞き覚えがある声だった。
「お、お客さんだな。俺が行ってくるから真治は箸の準備しといてくれ」
「この気まずい現場に客を招き入れるつもりかアンタは」
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