第46話

 世界が終わる前日。昼も過ぎてから健治は目を覚ました。

 昨夜から今朝にかけて、ずっとぼんやりしていた。

 結局、自分の人生はなんだったのだろうと益体もない問いが頭の中をぐるぐる巡っていた。

 結論なんて出るはずもなく、いつの間にか眠っていた。硬い床に横たわっていた体はあちこちが鈍く痛む。冬の寒さに冷え切ったこともあり、立ち上がることすら難しいほど凝り固まっていた。


 いっそこのままでもいいかな、と思う。

 どうせ誰に会うこともない。世界が終わるならどんな格好をしていようが、どこにいようが関係ない。

 こんな時にも思い出すのはずっと親友だと思っていた幼馴染の姿。彼ならただ寝そべっているようなことはしないだろう。だからといって、彼ならどうするのか今となっては想像できないのだが。

 立ち上がろうとして足の裏に違和感を覚える。自分のスマホを踏んでいた。

 さしたる期待もせずにスリープモードを解除する。そんなことすら未練がましいと思ってしまう。

 どこかの誰かが今も電波を届けてくれるが、世界が終わる瀬戸際に至って回線は常にパンク寸前の状態だった。メッセージも電話もなかなかつながらない。

 だからこそしばらく前に誰かが送ったメッセージが届いているのではないか、なんて都合のいいことを考える自分が恨めしかった。


「着信、メッセージはゼロ件。兄さんはともかく、父さんくらい連絡よこしなよ」


 深くため息をつく。

 父親はずっと家に帰ってきていない。ごくまれに食事はしたか、などと健康を気遣うようなメッセージが届くだけである。健治も面倒になって義務的に短文を送るだけになっていた。

 一度だけ帰ってくるのか、と尋ねたことがある。返事はすぐに帰ってきた。

 『忙しいから帰れない』という文面を見ても健治は動揺すらしなかった。それほど父親がいない状況に慣れ切っていた。


「留守がちになってもう五年……それ以上だもんな」


 あの母親と結婚したような男だ。その恋愛観はまともな神経で測れるものではない。どこかに別の妻子を設けていても不思議はない。

 健治が知る父はそんな器用さとは無縁だが、自分を友達だと思ったことがない相手を親友だと思い続けていた自分のことだ。人を見る目は当てにならない。


「……いや引きずり過ぎだから。独り言多いし」


 秀人に言われたことはそれだけ衝撃的だったが、いつまでもそればかり考えていても仕方ない。

 いっそ世界が終わるまで眠ってしまえればそれはそれで結構だが、目はしっかり覚めてしまっている。今さら寝直すことも難しそうだった。

 とりあえず顔を洗い、歯を磨いた。食欲はなく、昼食はとらなかった。いつもの習慣で着替えたが、出かける当てはない。

 何をしようか、と考える。世界が終わる前日だが予定はない。本当なら咲希と一緒に過ごそうと思っていたが、咲希は秀人と一緒にいるはずだ。きっと二人は今頃――


「ええい何を考えてる、気色悪い。暗い部屋に一人で閉じこもってるから余計なことを考えるんだ。出かけよ出かけよ」


 せっかく着替えたのだ。今日は天気がいいし、出かければ少しは気分転換になるだろう。

 勢いまかせに部屋を出る。マンションのエントランスについたところで目的地がないことに気付く。さすがに今日も営業している店はないだろう。……ないだろうか、いっそ今日も営業している店でも探してみようか。

 商店街に向かう道はひたすらに静かだった。街はしんと静まり返り、意識して探してみても人が見当たらない。みんなもう最期を過ごす場所は決めていて、そこに向かっているのだろうか。

 実はすでに世界は滅んだあとで、自分だけ生き残ってしまったのかもなんて妄想してみる。あまりの寂しさに吐きそうになったので即座にやめた。

 深呼吸して気分を落ち着ける。信号は動いている。大きな交差点では走っている車がいた。他の人が死に絶えたなんてありえない。

 辿り着いた商店街は閑散としていた。ほとんどの店はシャッターが閉まっている。

かつての賑わいは面影もない。世界が終わると分かって活性化する以前でもここまで静かではなかった。

 シャッターが開いている店は営業しているのかと思えばそうでもない。ドアに鍵がかかっていたり、店内のものはご自由にお持ちくださいなんて紙が貼られていたり、ガラスが割られたまま放置されている店もある。割れたガラスには土埃がかぶさっていた。


「一年前、三人で回ったっけ」


 暗い気持ちになりながら商店街を歩く。咲希と付き合い始めてから何度か商店街に来たが、まっさきに思い出されるのは三人での思い出だった。

 健治は咲希が好きだった。今でも好きだと自信を持って言える。

 けれど二人でいることにいつまで経っても慣れなくて、個人として咲希といれば緊張してしまう。幼馴染としてならいくらでも話ができるのに。

 おかげで付き合い始めて半年が過ぎても幼馴染の枠を超えられなかった。そうこうしているうちに咲希は秀人が好きだと思って距離を置いた。

 健治はずっと、咲希と秀人の幼馴染のまま変われなかった。だから恋人としての記憶より幼馴染としての記憶の方が強いのだろう。


「……もしかして、だから友達じゃないのかな」


 友達ではなく幼馴染。親友ではなく弟分。

 そう思われていたのだとしたら、友達ではないという言葉にも合点がいく。

 ほんのわずかにすっきりした気分で歩いていると、明かりが灯っている店を見つけた。

 一年前に三人で来たタピオカの店だ。店舗の中にいた店主も健治に気付き、ぶんぶん手を振っている。

 健治が店に歩を進めると店主は自ら扉を開けて歓迎してくれた。


「いらっしゃいませ、本日初めてのお客さんだよ」

「こんにちは。やっぱり出歩いている人がいないんですか」

「そうだね、歩いている人がそもそもいないんだ。たまに人影が見えても店が営業してると思ってないのか声をかける前にいなくなっちゃったりね。お店の前で営業中って看板振り回したりしてたんだけど、きみが今日初めてのお客さんだ」

「そんなでっかい看板振り回してたら怖いと思います」

「……やっぱりそうかな」


 店の入り口付近に立てかけられた看板はかなり大きい。持ち手の部分と看板部分を合わせれば二メートル近くありそうだった。こんなものをぶんぶん振り回している人がいたら健治は絶対近付かない。店主の細腕でよく持っていられるものだと呆れてしまう。


「まあ座って座って。ところであの美人な彼女はいないの?」

「……ええ、まあ」

「…………なんかごめん」

「謝んないでくださいフラれたわけじゃないんで」

「そう、とりあえずタピオカ飲む? お代はいいからさ」

「いただきます」


 店主はそそくさと飲み物の準備をする。その姿を見て不思議に思った。


「店長さんはどうしてお店をやってるんですか? もう世界は終わるのに働いたって仕方ない気がするんですけど」

「そりゃ、好きでやってるからね」


 店主は力みなく答えた。


「流行りに乗って勢いで始めた店だけどさ、ずっと夢だったんだ。自分の店を持つのが。大変なこともあったけど、振り返ってみれば楽しいことばっかり記憶に残ってる。売り上げが出れば嬉しいけど、こうしてお店をしてること自体が楽しいんだ。はい、どうぞ」


 そっと差し出されたのは普通のタピオカミルクティーだった。

 最初は咲希と一緒にいろいろな味を試していたが、いつのまにか王道の味に落ち着いた。

 相変わらず甘い。けれど一年前ほどではない。


「きみは今、つらそうに見える」

「……はい」

「もうじき世界は終わるんだ。ちょっとくらいワガママやってすっきり終わってもいいんじゃないかな。あ、もちろん暴力とかはダメだぜ」

「はい」

「何かあったらここに来ていいよ。明日の朝までやってるつもりだからさ」

「あんまり関わると、この後どうなったか気になりませんか」

「来たら話を聞けばいいし、来なければいい具合にまとまったと思うよ。どのみちヒマしてる時間が減るから大歓迎」


 店主はくすくすと笑ってた。

 妙に気恥ずかしくなって、健治は「どうも」と言って顔を伏せた。


―――


 しばらく店主と会話しているうちに夕暮れ時になっていた。会話に飢えていたのかもしれない。

 健治は一人で住宅街を歩く。相変わらず周囲に人の気配はない。

 足取りは重い。まだためらいがあった。

 店主と会話して勢いで行動しようと決めたが、時間が経って冷静になると本当にこれでいいのか恐ろしくなる。

 健治は真治の家を目指していた。

 会いたいと思っているのは咲希と秀人と真治の三人である。父は会えるなら会いたいが、居場所が分からないので会いに行くことはできない。

 真治の家も、咲希たちがいそうな場所もどちらも同じくらい行きづらい。

 咲希と秀人の現在地はなんとなく予想できるが、確実な所在は分からない。探しているうちに深夜になる可能性を考慮して真治の家を目指すことにした。


「さすがに今日は兄さんも仕事してないよね。……いやでも看護師さんって命に関わる仕事だし、もしかして今日も働いてる?」


 訪ねてもいいものだろうか。そもそも兄は家にいるのだろうか。

 そんなことを考えていると足が重くなる。

 真治が住むアパートが視界に入る。

 以前に一度訪ねているが、今でも喉に血が溜まっているような、何とも言えない気持ち悪さがある。

 不安はある。最後までお前の顔なんか見たくなかったと言われるかもしれない。

 ネガティブな考えが脳裏をよぎる。


「でも、そんな予想が当たった試しがないんだ」


 何かをするとき、嫌なことを想像する。

 予想できていれば現実に直面した時にもダメージは少なくて済む。

 現実に、健治が想像した通りの悪いことが起きたためしがない。

 悪く考えすぎか、予想とは全く違うことになるのが常だった。

 ぐだぐだ考えて時間をかけるほど悪い妄想は膨らんで足が動かなくなる。

 行くなら今だ、と自分に言い聞かせる。

 アパートの駐輪場には真治の自転車が置いてあった。

 きっと真治は家にいる。階段を上り、真治の部屋の前に立つ。

 扉をノックする。返事はなく、物音もしない。

 もう一度強く叩く。反応はない。

 おかしい。自分に会いたくない可能性を考えて声をかけなかったのだ。誰か分からなければとりあえず返事をするなり、ドアアイから除くなりするはずだ。声も足音もしないのはおかしい。


「兄さん、健治です」


 前に来た時のことを思い出す。物音がして、真治は窓から逃げた。

 しばらく待っても今度は物音ひとつしない。

 真治がいれば、そろそろ健治が帰ったと思うだろうか。そんな頃合いを見計らって力いっぱいドアを叩いた。

 中でびっくりしたら少しは物音がするだろう。

 果たしてバン、と音を立ててドアが開いた。


「うるっせえ!」


 隣の部屋の主が姿を現した。数か月ぶりの再会だった。

 真治の部屋からは物音ひとつしない。

 真治の隣人は健治の顔を見るなり眉間の皺を深くした。以前にも騒いだ健治のことを覚えていたらしい。


「またあんたですか」

「ごめんなさい、でも兄が居留守してるのかなと思ったらちょっと」

「お隣さんなら昼くらいに出かけましたよ」

「でも、自転車が駐輪場に」

「車に乗って出かけるところを見たんですよ。嘘だと思うなら勝手ですけど、次騒いだらひっぱたきますよ」


 隣人はそう言い捨て自室に戻る。

 健治はもう騒いだり喚いたりしなかった。

 力が抜けた。

 男が嘘を言っているとは思わなかった。

 考えてみれば当たり前だ。

 真治は真治の人生を送って来たのだ。健治が知らない交友関係を築いているに違いない。

 行きたい場所、会いたい人がいても何ら不思議はない。

 当たり前に家にいると考えていた健治がおかしいのだ。


 静かに真治の家を後にする。

 病院を尋ねれば真治はいるだろうか。

 いや、きっといない。病院に出勤するなら自転車で十分だ。わざわざ車を用意する理由はない。

 探してみようにも真治が行きそうな場所には全く心当たりがない。メッセを送ってみても返事はない。それどころか今のインターネットの状態ではメッセが届いているかも分からない。


 ふらふらになって今度は相沢家に向かう。

 もし汗だくの咲希と半裸の秀人がいたら立ち直れないな、なんて思いながらたどり着くが、電気は付いていなかった。インターホンを押しても返事はない。

 すぐ近くの松葉家は電気が付いていた。こんばんはと声をかけると秀人の両親がいた。

 健治を見るなり顔色が悪い、大丈夫か、と慌てた様子だった。

 秀はいますか、と尋ねたら、家にはおらずどこにいるか分からないと返答があった。

 ちょっと休んでいきなさいと言う二人に適当な返事をして背を向けた。何か言っていた気がするが、健治の耳には届かなかった。


 だらだらと自宅に向かって歩く。

 今、咲希と健治がどこにいるか分からない。心当たりはあっても数が多い上に探し回る気力がない。

 自分は誰もいない部屋でひっそりと終わりを迎えるのがふさわしいのだろう、とすねた考えになる。すねていると分かっていても直せない。

 ここまで徹底的に誰からも求められなかったのだから仕方ない、と自己弁護してみる。咲希は自業自得にしても、他の人はもう一度顔くらい見せてくれてもいいんじゃないだろうか。特に父親。

 いつの間にか空には月が上がっている。巨大な隕石も間近に見える。

 徒労感が募る。一度家で休んでタピオカ屋さんに行ってみようか。それとも世界が終わるまで寝ていようか。

 静まり返ったマンションにたどり着く。

 鈴片家のドアに鍵をさす。

 ひねってみると手ごたえがなかった。

 家を出る時にかけ忘れたかな、とぼんやり考えながらドアノブをひねる。


「ようやく帰って来たか」

「お、おかえり」


 軽く手を挙げる父と、居心地悪そうにしている兄がいた。

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