第20話

「話は変わるんだけど、ゆりちゃんはどうして秀のことが嫌いなの」


 もやもやした気持ちを整理できたところで話題を変えた。

 前にも一度、小百合があまりにも露骨に秀人を嫌っている様子だったので、喧嘩でもしたのかと尋ねたことがあった。

 返事は『なんでもありません』だった。追及をためらうほど固い声だったので、そっかと一言返して話を終えた。

 きょうだいなら喧嘩することもあるだろう。他人が横から口を出したらかえって意固地になって問題解決を妨げるかもしれない。秀人なら咲希が首を突っ込まなくてもなんとかできるという考えもあった。

 ところが小百合から秀人への反発は今も続いている。一か月前、家に送ってもらったときの話では原因すら分からない様子だった。

 十年以上前は小百合が秀人の後をついていた記憶がある。

それがいつからか距離を置くようになり、数年前から嫌悪が見え隠れするようになり、ここ一年ほどは特にひどくなっていた。


「別に、なんでもないです」


 問いかけに返って来たのは以前と同じかたくなな声だった。


「ゆりちゃんはなんでもないのにあんな態度取ったりしないでしょ」


 咲希は思わず苦笑いした。う、と小百合は小さくうなった。

 小百合は概ね素直な性格だ。いいと思ったことはいいと言うし、気に入らないことがあれば気に入らないと言う。嘘も誤魔化しもへたくそだ。小百合自身もそのことを理解しているので、気まずいことや言いたくないことがあると口数が減る。

 もしも秀人が致命的な失態をさらした結果として嫌悪しているなら、たとえ態度が同じでも秀人が理由を知らないはずがない。嫌っている理由を聞かれたらどこがどう気に入らないか正面から言っている。

 小百合は秀人のことが気に入らない。それをうまく取り繕うことができない。嫌っている理由を言って秀人を糾弾することは間違いだと思っている。

 咲希はそう考えている。


「……だってあいつ、デリカシーとかないじゃないですか」


 小百合はいかにもしぶしぶといったていで、咲希と目を合わせず口をとがらせていた。


「むしろこの年頃の男子としては行き届いてるほうだと思うけど」


 部屋は綺麗にしている。咲希が知る限り変なものは置いていない。

ファッションに興味はないが無難な服を着ている。鍛えられた長身のおかげで何を着てもそれなりに様になる。良い服を数着買って着まわしているため、実は幼馴染三人の中でも私服一着当たりの単価が最も高い(ただしいつも見覚えのある服ばかり着ている)。髪は伸びるとぼさぼさになる毛質なのでこまめに短く切っている。

 咲希と話している時は聞き役が多く地雷な話題を振ってくることはない。極まれにクラスの女子と話す時にはものすごく遠慮していた。

 距離を必要以上に取っているという意味ではデリカシー(優美さ・繊細さ)に欠けると言えなくもない。会話の流れを踏まえると距離を置かれていることが不満ということはないだろう。


「いろいろあるんです。ほら、咲希だってすんごい失礼なこと言われたじゃないですか」

「……なにか言われたっけ?」


 覚えがなかった。

 咲希と秀人は長い付き合いだ。お互い遠慮はないが、超えてはいけない一線はわきまえている。


「去年の三月です。咲希がメイクしてウチに来た時」

「あ、あったねそんなこと。……秀、その時変なこと言ってたっけ」

「言いました。せっかく綺麗にしてきた咲希に、いつもの方がいいって!」


 無意識に語尾が強くなっていた。なるべく感情的にならないよう気を付けていたのに。

 その時、小百合は二人の会話を聞いていた。玄関を開ける音と咲希の声が聞こえたので出迎えようと気配を窺っていた。

 咲希が化粧した自分を真っ先に見せるのが秀人ということに腹立たしさを覚えたが、それはすぐに消えた。

 感想を求められた秀人は「いつもの方が落ち着く」と言ったのだ。

 きっとあの時、自分は殺気を放っただろうと思う。

 他にいくらでも言うべき言葉があったはずだ。ただ単に「綺麗だ」とか「可愛い」でよかった。歯の浮くような言葉で褒めても不器用なりに一生懸命感想を言っても腹は立っただろうが、そこまでの怒りは覚えなかったはずだ。

 せめて素直に本心を言え、と腹の底から秀人を呪った。


 咲希は小百合に化粧道具を返しに来たのだ。秀人と話した後、咲希から道具を受け取った小百合は全力で褒めちぎった。本心からの言葉だったが、いつもより大げさに聞こえただろう。

 あの馬鹿のせいで咲希が傷ついているかもしれないと思ったからだ。

 咲希はむずがゆそうに「ありがとう」と言った。いつもと違った様子には見えなかった。

 そしてなんとなくどういうことかを悟った。

 秀人のことが妬ましくてたまらなくなった。


「あー、あれね。確かにね。もっと褒めてくれてよかったのにね」


 咲希はくすくすと笑っていた。

 思い出しているのだろう。

 その笑顔に陰はない。楽しいことを思い出している表情だった。

 小百合はほとんど答えを確信しながらも尋ねた。


「むかついたりしなかったんですか。あんなに綺麗にしてたのにいつもの方がいいなんて言われて」

「したよ、ちょっとだけ。でも秀って分かりやすいじゃん。いつもと違って戸惑って、思わず言っちゃったって感じでしょ。やらかしたって顔に書いてあったし。それに玄関開けた後に一瞬だけ固まったけど、アレは私に見惚れてたね、絶対」


 咲希はにんまりとからかうように言った。

 小百合は自分の感覚が正しかったことを知った。


 咲希が言ったことは全て正しい。

 秀人は玄関を開けるなり現れた女性に見惚れた。咲希と分かっても不意打ちの衝撃で心臓は強く脈打っていた。

 化粧した咲希を目の前にして落ち着かない。だから「いつもの方が落ち着く」。

 動揺してそのまま口に出してしまったことを本人が一番後悔している。

 全て小百合も同意見だった。

 さらに小百合だけは、その瞬間から秀人の咲希を見る目が、秀人ですらも分からないほどわずかに変わったと知った。咲希と秀人、両方と長い時間を過ごしていたからこそ分かった。


 咲希と秀人はお互いに理解しようなんて考えていないのに、咲希は秀人を理解している。

 そのことが腹の中まで掻きむしりたいほど受け入れがたかった。


―――


 雑談をして、咲希が帰った後。

 小百合はベッドに横たわり、ぼんやりとしていた。

 過去を思い出しているのか夢を見ているのかも判然としない。

 ただ、懐かしくも大切な記憶だった。起きる気にもなれず思い出にふけっていた。


『サユリちゃんっていうんだ。シュウのいもうとなんだね。いっしょにあそぼう!』


 太陽よりまぶしい笑顔で小百合に手を伸ばす人。

 それが小百合の最も古い記憶だ。

 たぶん、三歳か四歳の頃。両親が言うには、ずっと秀人の後を追っていたらしい。

 小百合の記憶に秀人はいない。覚えているのは小百合に手を伸ばす咲希だけだ。

 当時、咲希は髪が短かった。まだ咲希も五歳か六歳程度で見た目に男女の違いは大きくない。ただ漠然と、兄と同じくらいの大きさだったから、兄と同じ種類の別の人程度に認識したのかもしれない。


『わたしはサキ。なかよくしてね』


 手を取った小百合にそう言った。

 ぼけっとしながら、かろうじてうなずいたことを覚えている。

 びりっと背中に電流が走った。何がなのかも分からないが、この人だと思った。

 直後から小百合は秀人ではなく咲希の後を追うようになった。

 その日、何をしたかはよく覚えていない。

 一緒に歩き回ったり他愛のない話をしたりと、月並みな一日だったはずだ。

 詳細な記憶はなくてもひたすら幸せを感じたと覚えている。


 それから小百合の行動が変わった。

 咲希がいない時は秀人の後を追っていたが、咲希がいれば咲希一択。咲希の真似をして、姉妹みたいだねなんて言われて喜んでいた。

 健治のことを知った時には警戒したことを覚えている。

 咲希と秀人の息の合いようを間近で見ながら諦めない健治のことは尊敬もしていた。同じ相手に好意を寄せているものとして共感もあった。最終的に咲希をかっさらっていったのだから大したものだと思う。


「ああ、わたし、健治さんのことは今も嫌いじゃないんだ」


 好きな相手が誰かと恋人になったら、その誰かを疎むものだと思っていた。

 小百合は今でも健治を嫌っていなかった。

 咲希に手を出していないからかもしれない。変な男に引っかかって雑な扱いを受けていると聞いたら間違いなくその男を許さないだろう。両親を殴ってでも秀人と連絡を取りけしかけて、隙を見て自分で刺すくらいするんじゃないだろうか、と具体的に想像する。

 健治のことは好きでもないが、その思いを長年見ているだけに変な男よりはよほどましだと思える。


「デート一回で勝負を決めてきたのはちょっとむかつくけど」


 世界が滅ぶと聞いてから小百合が咲希を誘うことが増えた。

 一緒にいる時間が欲しかった。誰かに取られるのが嫌だった。

 小百合のことを好きになってほしかった。

 言葉にすると恋しているようだ。

 ただ、健治と付き合うと聞いた時に衝撃はあったが、そのこと自体に拒否感のようなものはなかった。

 頭のてっぺんから冷たくなっていくような感覚と共に、頑張ったんだなあ、という感嘆があった。


 歩と話した時にも失恋という言葉を使った。きっとそう間違ってはいないと思う。

 もしも明日世界が滅ぶなら、小百合が一緒にいたいと思うのは咲希だけだ。

 学校に友達はいる。何度か告白されたこともある。恋人なんて、誰でもいいなら簡単に作れるだろう。

 でも友達はしょせん友達で、親友と呼べる相手も呼びたい相手もいない。小百合に告白してきた連中だって秀人の名前を聞けば怯えて逃げるくらいの根性なしだ。惹かれるところは少しもない。

 家族仲は、秀人を除けば悪くないと思う。秀人にしたって小百合が一方的に嫌っているだけで、仲良くしようと思えばできるはずだ。ここ最近の小百合の態度のせいですぐには難しいかもしれないが、不可能ということはない。

 そんな彼ら彼女らに対する感情は咲希に対するものとは違う。

 憧れ・好意・執着といった様々な感情がないまぜになっている。

 十年かけて醸造された感情は自分でも把握しきれない。ただ根本に咲希への好意があることだけ確信している。


 だから気になることがある。

 咲希は『最近デートしてても健の様子がヘンなんだよね』と言っていた。

 小百合はその理由にふたつ、心当たりがある。

 ひとつは咲希に対する遠慮だ。ずっと好きだった咲希と付き合うようになったことで恋人としての距離感を掴めず、どこまでだったらセーフかおっかなびっくり確かめている可能性がある。

 もうひとつは秀人に対する遠慮だ。健治と咲希が付き合い始めるのとほぼ同時に秀人は姿を消した。もしかすると健治は自分が追い出したような気持ちを味わっているかもしれない。それか、秀人がいなくなったことでこっそり咲希と付き合っているような罪悪感を覚えているのかもしれない。


 おそらく咲希も気付いている。

 秀人がいなくなったことで健治は及び腰になっている。健治の腰が引けていることで咲希もこれまで通りに接することも恋人らしい距離の詰め方をすることもできない。

 小百合としては咲希と健治の関係がうまくいかないのは大いに結構だ。なんなら破局したら残念でしたねと口では言いながら気晴らしを口実に遊びに誘ったりするだろう。

 しかしそれは咲希が笑っているならの話だ。咲希が不本意に表情を曇らせるなら、それは小百合にとっても本意ではない。


 たったひとりがいなくなったせいで周囲は停滞していた。

 健治は迷い、咲希は立ち位置を掴めず、小百合は傍ではらはら見守るしかない。

 きっとそのひとりが戻ってこない限りこの居心地の悪い停滞は続くのだ。小百合がどれだけ真似をしても、代わりを務めようとしても、小百合では状況を変えることができない。


「……さっさと帰ってこい、馬鹿野郎」


 甚だ不本意ながら、小百合は兄の帰りを望んでいた。


―――


 一方、兄はといえば。


「冗談じゃなかったのか」


 これまで現実に見たことはない巨大建造物の前で呆然としていた。




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