第19話 妹
松葉小百合が家に帰ると、本当は兄だなんて思いたくもない相手のことが嫌でも脳裏をよぎる。
今日も玄関に兄の靴はない。
当然だ。ここ最近、兄は家に帰っていないのだから。
以前は兄の靴があれば舌打ちしそうになった。さっさと進学でも就職でもして家から出て行ってくれないかと思っていた。
靴がなくなった今も苦々しい気分でいっぱいになっている。
理由は分かっている。
兄がいなくなって寂しいから――では断じてない。兄がいなくなったこと自体にはせいせいしている。
そんな小百合とは正反対の人たちがいるからだ。
ただでさえさまざまな感情でぐちゃぐちゃになっているところに前島歩のこともあり、小百合は疲れ切っていた。
ただいまも言わずに自室に戻る。どうせ家には誰もいないのだから言ってもむなしいだけだ。
ベッドに飛び込むように腰を下ろす。昔なじみのベッドが抗議するようにぎしりときしんだ。
うるさい、わたしだって泣いて喚いてすっきりしたいんだ。
近所迷惑でできないことを夢想して体を後ろに倒す。
着替えることさえ億劫でこのまま眠ってしまいそうだった。
ぼんやりしていると、スマホが振動した。
まどろみを邪魔されたことにいら立ちながらもスマホを手に取ると、そこには岩井咲希からのメッセージが表示されていた。
だらけ切っていた小百合の腹筋は急激に引き締まり、ばねのような勢いで起き上がった。
『今から行ってもいい?』
一文を一瞬で凝視し、即座に返信する。
『おいでませ』
前に咲希が可愛いと言っていた猫っぽいキャラクターのスタンプを送った。
同時に立ち上がり制服を脱ぎ捨てこぎれいな部屋着に着替える。着替えてから散らかしているのはよくないと思い制服を拾いハンガーにかけた。
鏡で髪が乱れていないかチェックしているとインターホンが鳴った。
最低限の身だしなみは整えた。咲希に慌てた足音が聞こえない程度に急いで階段を駆け下り、玄関を開ける。
「いらっしゃい、咲希」
「お邪魔します」
私服姿の咲希を満面の笑みで出迎える。
咲希は靴を脱ぎながらひそやかに玄関を眺めていた。
あいつの靴を探しているんだと分かる。そのことが小百合の気分を逆なでする。
咲希に対する反感はない。いなくなってなお濃い兄の気配が不愉快だった。
「咲希にも連絡してないんですか、あいつ」
「メッセ送ればかなり時間あけてから返信来たりするよ。こんなに秀と会わないことって初めてだからさ、調子狂っちゃうよね」
困ったように笑う咲希。
咲希にとって秀人は家族同然の存在である。一緒に過ごした時間は親に次ぐ。もしかしたら両親より長い時間一緒にいるかもしれない。
前触れもなく秀人は姿を消した。
秀人の父母はどこで何をしているのか知っているようだが、尋ねても返ってくる答えは要領を得ない。旅に出たとか、どこで何をしているのか分からないとか、いつも微妙に答えが違う。
秘密にしようという意思と、本人たちもよく分かっていない可能性の両方を感じる。
「ゆりちゃんも秀がどこに行ったか知らないんだよね」
「はい。説明はできないけど心配はいらないって聞きました」
「私とおんなじだ」
嫌いな相手の話題でも、咲希と一緒ということが嬉しくて笑ってしまう。こんな時ばかりはあんなのでもいて良かったと思わなくもない。
松葉家は咲希にとって慣れ親しんだ場所だ。案内されるまでもなくリビングのソファに座る。
「今日はどうしたんですか?」
「ゆりちゃんの声が聞きたくなったから」
茶目っ気たっぷりに咲希が言う。飲み物を出そうと冷蔵庫を開けていた小百合は驚きのあまり呼吸が止まった。なんてね、と言われるまで頭が真っ白になっていた。
「いきなり心臓に悪いこと言わないでください」
「ごめんごめん。でも半分くらい本当だよ。ウチ、誰もいないから寂しいんだよね」
小百合が呼吸を落ち着けながら振り返ると、咲希は背もたれにあごを載せていた。
人の気も知らないで、とちょっとだけ不満に思う。小百合の言葉は半分どころではなく本当だ。今でも心臓がばくばく言っている。
咲希は変なことを言われて小百合がビックリしていると思っているに違いない。驚きもあるが、心臓が暴れている理由のほとんどは別だというのに。
「なら、健治さんと電話でもすればいいんじゃないですか」
わずかな反感がそっけない態度を取らせる。コップに牛乳をつぎながら咲希の顔を見ないでつんと言った。
「健とはさっきまでデートしてたから」
返って来たなんてことない言葉にがつんと打ちのめされる。自分のうかつな発言が心底悔やまれる。
咲希と健治は恋人同士。デートするのもなんらおかしいことではない。そもそも最初のデートに向かう咲希に服を見繕ったのは小百合だ。失敗するように変なコーディネートしてやろうかと思ったりもしたが、結局のりのりで普通に似合う服を選んでしまった。デートコーデというより小百合の好みだった。
「うまくいってるようで何よりです」
なんでもない風を装ってコップをレンジに入れて『ミルク・酒かん』のボタンを押す。
付き合いについて詳細に聞きたいような気もするし、詳しく聞いたら心が折れそうな気もする。葛藤の末に絞り出したのは無難な相槌だった。
「ほとんど今までと変わらないけどね。これまで三人で行ってたところに二人で行くようになったり、ちょっと遠出するようになったってくらい」
「む、自慢ですか」
「違うよ。むしろちょっと悩んでるんだから。これって恋人なのかなって」
「聞いただけだと十分恋人みたいですけど」
「そうかな。……だとすると、フタマタ女って言われたのって結構的を射ていたのかな」
んー、と咲希は目を閉じて思案顔になる。
どんなリアクションが正解なのだろうと考えているうちにレンジがピーと鳴った。
どうぞ、と渡すとありがと、と咲希は受け取った。熱そうにしながら表面に浮いた牛乳の膜ごと口に含んだ。ただの温めた牛乳だが、おいしそうに飲んでいた。そんな咲希を眺めながら小百合もコップを傾ける。
「フタマタ女って、今でも言われるんですか」
「ないない。小学校が最後だよ。秀があれだけ暴れたのに面と向かって言ってくるやついないって」
昔々、咲希にフタマタ女とかアバズレとか言ってきた男子がいた。
小学校二年生当時は秀人と咲希はクラスが違っており、クラスで聞こえよがしに言われる程度だった。
言われて気分がいいものではなかったが、反応するとどんどんエスカレートしていくのが分かっていたので無視していた。
すると、無視されたことが気に食わなかったのか結局嫌がらせはエスカレートしていった。聞こえよがしに言われていた程度が徒党を組んで直接言われるようになった。
まだ男子と女子で体格に大きな差がない時期だ。適当にどかして走って逃げたりしていたある日。秀人と健治の二人と話しているところで石を投げつけられた。
彼はアバズレの証拠だな、と笑っていた。隣には彼の兄もいて、弟を止めるどころかにやにやと笑っていた。
さすがの咲希も肚に据えかねて文句を言おうとした。
しかし言えなかった。
あんたね、と咲希が言ったのとほぼ同時。秀人が男子に飛び蹴りを食らわせていた。
咲希は唖然とした。怪我の具合を見ようとしていた健治も呆然としていた。同学年の少年が漫画みたいに転がっていった。健治は人間って空を飛べるものなんだなあと思った。
転がっていった彼の兄が激昂して秀人に殴りかかった。小学生の年齢差は大きい。秀人は同学年の中では大きい方だったが、それでも彼の兄の方が大きかった。まだ喧嘩慣れしていなかった秀人は顔をしたたかに殴られた。
慌てて咲希が止めに入ろうとした。健治にしがみついて止められていなかったらとびかかっていただろう。
健治は咲希を押しとどめながら先生を呼んでと叫んでいた。すでに三人も怪我をしていたし、咲希が止めに入ったら火に油を注ぐことになることは明らかだった。
殴られた秀人は倒れもしなかった。反撃に右フックを食らわせ呻いた相手に頭突きをした。
そこからは泥仕合だった。二人はお互いに掴みあって殴り合った。
マウントを取って涙に濡れた顔を殴り続ける秀人を教師が止めるまで騒ぎは続いた。同級生は最初の飛び蹴りを食らってから泣きながらうずくまっていた。
それ以来、少なくとも表立って咲希にフタマタとかアバズレとか言うやつはいなくなった。
「じゃあ、なんで今になって自分でそんなこと言ってるんですか」
「健と付き合い始めてそろそろ一か月なんだけど、今までと全然違わないんだよね。これまで三人で出かけてたところに二人で行くようになったくらい」
「恋人っぽいことしないんですか? こう、手をつなぐとか」
咲希の話ぶりから聞いても安全そうと判断し、小百合は尋ねた。おそらくそれらしいことはしていないはずだが確証はない。とりあえずしていてもダメージの薄い行為を引き合いい出した。
「……握手って手をつなぐにカウントされる?」
「ふつうはしないと思います」
「だよね。今時の小学生より遅れてる気がしてきた。牛歩どころじゃなくない」
咲希の様子からすべてを察した小百合は、晴れがましい気持ちで断言した。咲希はその回答を予想していたのか即座に同意するが、すぐに落ち込み始めた。
今時の小学生と言っても様々だ。進んでいる子は進んでいるだろうし、娯楽が多様化した現在では恋愛にさほど興味を持たない子だっている。
そもそも咲希はそのあたりのデータを持っていないので、引き合いに出した「最近の小学生」はただのイメージである。
ちなみに、咲希は昔よりスマートフォンやインターネットの普及で恋人的な行為についての情報を収集しやすくなり、どんどん先に進むようになっていると思っている。当然、咲希はインターネットが普及していない時代の恋愛事情なんてドラマや漫画くらいでしか知らない。
それはそうと高校生の恋人同士で、交際を始めて一か月経っても手をつないだことすらないのはゆっくりな方だろう。付き合い始めたその日にクリアしていてもなんらおかしくないハードルである。
「まあ、そういうののペースって人それぞれって言いますし。咲希がいいならゆっっっくりでいいんじゃないですか」
勝手に作った自分のイメージと自分を比較しセルフでダメージを受けている咲希とは対照的に、小百合は完全に落ち着きを取り戻していた。
小百合はキスくらいしてるんだろうな、泊まりで出かけてたりしても話は聞きたくないなと思っていた。想定よりはるかに遅いペースと分かり、なるべくまともそうな一般論を口にした。ゆっくりに力を込めて発言したあたりに気持ちがこもっている。
「でも恋人ってふたりの関係だし。私がよくても健が嫌だったらどうしよう。最近デートしてても健の様子がヘンなんだよね」
「健治さんなら咲希と一緒にいられるだけで天に上るような気持ちでしょうから大丈夫です。仮に不満だったとしても咲希の気持ちを無視して何かしようとするなら即別れちゃえばいいんです」
ややこしい考えを含まない本音を口にした。
健治が咲希を好きなことは、健治と付き合いがある人間なら咲希を含め誰もが知っていた。十年以上の付き合いがある小百合はその好意のほどを知っている。
咲希と一緒なら、健治はバンジージャンプだって楽しむだろう。高所恐怖症のくせに。
咲希の手料理なら、たとえ生焼けの豚肉でも喜んで口にするだろう。お腹弱いくせに。
そんな健治が咲希を傷つけるようなことをするとは思えないし、仮にそんなことをするならそいつは健治の偽物なので殴り倒してしまえばいい。必要なら嫌いな兄でも召喚してフルボッコだ。
「そっか。そうだよね。よく考えれば健だって積極的なわけじゃないし」
それについては咲希に嫌われるのが怖くて及び腰になってる可能性があるなあ、と小百合は思ったが口にはしなかった。
「話を戻しますけど、もしかしてあいつがいた時と何も変わってないから、あいつと健治さんに二股をかけてたんじゃないかって思ってるんですか」
「うん。だって恋人とするようなことを二人にしてたんだし、考えようによっては二股じゃない?」
「すんごく悪意的な見方をすればそうなるかもですね」
「悪意的って」
「話を聞いた限りですけど、咲希と健治さんは普通の友達みたいな付き合いをしてると思います。二人の男友達と出かけたら二股なら、男女のグループで出かけたらえげつないことになりますよ。もし咲希があの二人をそれぞれ誘惑したりしてたなら話は別ですけど、してましたか」
「してないよっ」
「じゃあ二股じゃないと思います」
外からは二人の男に色目を使っていると見えるかもしれない。けれど実際はそうではないと小百合は知っている。
周りからどう見えるかなんて関係ない。周囲は上っ面を見て事実を無視する。
事実を知っている小百合は端的に断定する。
咲希は基本的に自由気ままだ。誰かに何か言われても鼻で笑って終わらせる強さがある。
一方、自分で引っかかってしまうとなかなか振り切れない。そういう時にはざっくりと悩みを切り捨ててしまう誰かが必要なのだ。
これまでその誰かを、誰が務めていたか考えると苦いものがある。
知らない、と心中で吐き捨てた。
勝手にいなくなったやつのことなんてどうでもいい。席を空けたなら戻ってくる前に埋めてしまうだけだ。
「ありがとね、ゆりちゃん」
秀みたいだ、と続けそうになったが、咲希はお礼を言うだけにとどめた。
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