第18話
両親が病室にやってきた。
母が来るのは珍しくない。数日に一度は来てくれる。歩が入院してから一週間以上来なかったことはない。
珍しいのは父だ。父は仕事が忙しいらしく見舞いの頻度は一か月に一回程度と、母に比べれば少ない。さらに仕事の都合があるのか、母と揃って来ることは極めて稀だ。症状について詳しい説明を受ける時くらいしか記憶にない。
父があまり見舞いに来ないことを不満に思うことはない。あと一年足らずで世界が終わるというのに歩を気にかけてくれるだけで十分すぎるほどだ。
歩は自分が両親にとって重荷だと理解している。入院費はかかるし、入院させていてもすべて病院に任せきりというわけにはいかない。負担をかけるばかりで申し訳ないと思う。
一方で、それだけ自分が大切にされていると実感する要素でもあった。
「歩、体調はどうだ」
「いいよ。リハビリも毎日やってる」
「真治さんだったかしら。いつも手伝ってくれる看護師さんがいるのよね」
「そう、真治さんには感謝してもしきれないよ」
「なら父さんも挨拶しておかないとな」
真治は急ぎの要件がなければ来客中の病室に入ってこない。来訪が頻繁な母はすれ違うこともあり真治とも顔見知りである。一方で父は真治と面識がない。来院時に案内をしたこともあるが、名前までは知らなかった。
歩は自由に歩くことができず話題に乏しいが、病室に来る機会が少ない父に話したいことならいくらでもあった。
他の患者からお見舞いのおすそ分けがあったこと。果物の皮むきなら母にも負けない自信があること。父が持ってきてくれた本の感想。リハビリの進捗。まくしたてるように話す歩に父はにこにこ笑って相槌を打っていた。
「最近は杖をつきながら歩く練習をしてるんだ。まだ病院の外には出られないけど、この調子ならあと半年もあれば外に出られると思う」
「そうか、毎日頑張っているんだな。すごいぞ」
歩と話す父の横で母がお茶を淹れている。母にはもう話していることばかりなので退屈かもしれないが、直接自分から父に話したかった。
楽しい時間はあっという間で、気が付けば五時の鐘が鳴っていた。
「おっと、もうこんな時間か。そろそろ帰ることにするよ。また来るからな。リハビリ頑張るんだぞ」
「うん、父さんと母さんも気を付けて帰ってね」
もちろんだ、と明るく言って病室を出る両親の背を見送ってから二十秒後。
歩はベッドのそばに置いていた杖を手に取った。
両親を驚かせてやろうと思った。
入院してから、両親は歩がまともに歩いているところを見たことがない。せいぜい母が手すりにしがみついているところを見た程度だ。
だからきっと、杖を使って歩く歩を見れば両親は驚くだろう。
本当はドッキリのようにある日突然立ち上がって遠出に誘おうと思っていた。
だけど両親にも都合ってものがあるよね、先にアポイントとっておかないとダメかもしれないよね、と考えた。
ほとんど言い訳だ。きっとびっくりするぞ、よろこんでくれるぞ、という考えが頭の大部分を占めていた。
おそらく父と母はエレベーターを使って下の階に降りるはずだ。
長く入院している経験から、この病院ではこの時間にエレベーターが混むことをよく知っていた。
今ならば階段を下りていけば父母より早く病院の出入り口にたどり着けるはず。
歩は両親が病室から離れる頃合いを見計らって廊下に出た。
リハビリの成果は着々と出ており、階段の上り下りもできるようになっていた。
ここで転んで怪我をしては元も子もない。細心の注意を払いつつ全速力で階段に向かい、たんたんとリズミカルに階段を下りる。
実際のところ、無駄足になる確率が高い。エレベーターが混んでいることが多い時間帯ではあるが、待ち時間はタイミングによる。両親がすぐにエレベーターに乗っていたらさすがに間に合わない。そうでなくとも両親が階段で下りたりしていたら厳しいだろう。
ダメでもともと、間に合えばラッキー、くらいの気持ちで一階に到着する。
正面玄関に向かうと、ちょうどそこに両親の姿が見えた。
ついてる。見送りでもすればきっと驚いてくれる。
にやつきそうになるのをこらえながら、両親が玄関を出るまでに間に合わせようと足を速める。
ぎりぎり間に合うかどうかといったところ。あまり病院で大声を出すのはよくないが、両親を呼び止めようとした。
その直前、父の口が小さく動くのが見えた。
「なにそれ」
母の声が聞こえた。絞り出すような声は小さかったが、不吉な予感とともに耳に届いた。
歩の喉はひゅっと引き絞られ、声が出なくなった。
「まるで私が悪いみたいなこと、よく言えるわね」
「事実だろう。それとこんなところで喚くな、みっともない」
「何が事実ですって。私があんな子を産むことになったのはあんたのせいでしょう」
呼吸が止まった。
頭が真っ白になって足元がぐらつく。地震でも起きたのかな、なんてどこか他人事のように思いながら、壁に体重を預けた。
「産んだのはお前だろう。まともな子供の一人も産めない分際が生意気な口をきくな」
「あんたの寄越した種が腐ってたんじゃないの」
「なんだと!」
「そりゃ傷んだ種からまともな目が出るわけないもんねえ。撒いた種の後始末もできないような出来損ないの子供が、まともなわけないものね!」
全身にうまく力が入らない。ひどい吐き気がする。きぃんと耳鳴りがするのに聞きたくもない声は嫌というほど鮮明に聞き取れてしまう。壁にもたれかかっていた体がずり落ちて廊下に座り込んだ。せめて耳をふさぎたかったが、両腕は力が抜けて動かなかった。
「出来損ないはお前だろう。女の最低限の役割も果たせない能無しが。お前の一族は頭か体がどこか足りない人間しかいないんじゃないか」
「いつの時代の人間よ、このご時世にそんな時代錯誤のこと言っちゃって恥ずかしい。そんなんじゃ愛人さんにも愛想つかされるんじゃない」
「黙れ、お前こそ働きもせずに男を囲う生活は楽しいか」
「そっちはどうせ死ぬのに無駄なことして自己満足に浸ってるだけじゃないの」
意識しないと息を吸うことも吐くこともできない。しかし大きく呼吸すれば両親に聞こえてしまうかもしれない。
それだけはまずい。それだけは避けたい。
もし気付かれてしまえば、取り返しがつかないことになる気がする。
心臓が小刻みに強く脈打つ。それに合わせるように短い呼吸を繰り返す。息を吸っても吸っても肺に入っている気がしない。
泥沼の中であがいているような焦燥感。どうにかしてこの場を離れたいのに動けない。
どうすれば、と酸素の足りない頭を空回りさせていると、服の襟をぐいと引っ張られた。
さほど強い力ではなかったが、歩の軽い体は簡単に持ち上がった。
左腕を掴まれ、左腕と胴体の間にその人は自分の体をねじ込んだ。
「松葉さん」
歩の喉から奇跡のような声が漏れた。
「ひどい顔色してる。病室戻ろう」
力なくうなだれる歩の目には小百合の顔が見えなかった。
小百合がどれほど今の状況を理解しているか分からないが、何よりありがたい助けだった。
感覚もない手足を無理やり動かした。
「ごめん、助けてもらっちゃってごめん」
「いいから」
「みっともないとこ見せてごめん」
「しゃべんなくていいから」
「……ごめん」
「謝んなくていいから」
うわごとのようにごめんと繰り返しながら、歩は小百合に案内されるまま病室に戻った。
―――
「みっともないとこ見せてごめん」
「聞き飽きました」
患者や他の見舞客に奇異の目で見られながらも歩は病室にたどり着いた。
ベッドに倒れ込んでしばらく歩は言葉を発することができなかった。その間、小百合は黙ってそばにいた。ナースコールを押そうとしたが、歩に「ごめん、やめて」と言われていた。命にかかわりそうな状態ならば止められようが看護師を呼ぶが、そういった様子でもなかったので見守るだけにとどめていた。
格好悪いところを見せてしまった、病室まで運ばせてしまった。そんな思いから謝罪したが、にべもなく切り捨てられる。しつこいほど謝っていた自覚はあるので反感を覚えることすらできない。
「ごめん」
「また言った」
「…………」
ごめん以外に言うべき言葉が浮かばなかった。
きっともっと他に言うべきことがあるはずなのに、頭の中はぐちゃぐちゃになってその言葉を見つけてくれない。
黙りこくってしまった歩を気にした様子もなく、小百合が口を開いた。
「それで、どうしたんですか。病気の発作とかじゃないんですよね」
「うん、病気は関係ない。エントランスで怒鳴りあってる人たちがいたと思うけど、あれ僕の両親なんだよね」
「なるほど」
小百合の耳にもひどい罵り合いが聞こえていた。聞きたくなくても聞こえてくるほど大きな声で、嫌でも耳をつく強い声だった。看護師が何人かで仲裁に入っていた。
聞こえてきた内容を考えれば歩がああなっていた理由も想像がついた。
ショックだろうな、と思う。何度も見舞いに来ていたので、歩の話を聞くこともあった。何度か両親については聞いていたが、いつも助けてくれることをありがたく思っているとか、何か恩返しをしたいとかそんなことを言っていた。
小百合が「また一緒に出掛けられるといいですね」と言うと、歩は「それだ!」と明るく言っていた。リハビリにもそれまで以上に打ち込んでいる様子だった。
それが罵り合いだ。たまたまとか歩と関係ない話題とか考える余地もなく、歩を疎んでいた。
どんな言葉をかければいいか分からない。小百合は黙って椅子に座っていた。
一方で歩は失敗したと感じていた。真治から家庭の事情を打ち明けられた時に、どう反応すればいいか分からなかった。小百合もきっと同じ気持ちでいる。
どこかで他人を気遣っている場合じゃないのに、と考える歩がいた。きっと両親のことを考えないように気を紛らわしているんだろうなあと思っていた。
「そういえば、松葉さんはどうして僕のお見舞いにきてくれるの」
とっさに楽しい話題は出て来ず、ずっと気になっていた疑問が口をついた。
「学校でプリントとか出るので、それを届けるためです」
「でも、それなら同じ日に発行されたプリントを別の日に持ってくることないよね」
「それは」
小百合は頻繁に歩の病室を訪れていた。
学校の配布物を届けに来た、と言っていた。実際に学級通信や保険だよりを持ってくるので嘘ではない。
しかし、小百合には不自然な点があった。
たまに発行日が同じプリントを、別の日に持ってくるのだ。
ほとんどの学生はプリントの発行日なんて気にしないが、暇を持て余した歩はプリントを隅から隅まで熟読していた。そして以前から疑問に感じていた。
小百合は見舞いに来るとき、ほとんど制服を着ている。学校から直接病院へ来ているからだ。そしてクリアファイルに綴ったプリントを丸ごと渡してくる。
一枚二枚の渡し忘れなら不自然ではない。小百合自身のプリントと重なってしまっていることだってあるだろう。
ただ、それが頻繁にあればおかしいと思う。
渡すのを忘れていました、と土曜日に病院へ来ることもあった。
今日まではもしかすると小百合が自分を好きだから会うために、なんて考えられた。
冷え切った思考は全く別の答えを導き出していた。
「……家にいたくなかったんです」
プリントに発行日なんて書いてあったことすら気付いていなかった小百合が語りだす。
もともと嘘も誤魔化しも得意ではない。あまり話したいことではないがうやむやにできる気がしない。
何より今の歩に嘘をついてはいけない気がした。
「前にちょっと話しましたよね、私には兄がいるって」
「うん、聞いた。あんまり折り合いがよくないんだよね」
「兄はまだ高校生で、同じ家に住んでいます。そうするとどうしても顔を合わせることになります。わたしはそれがたまらなく嫌でした」
「だからここに来てたんだ」
「……はい。プリントを届けに来るとか、ただの口実です」
「うん、納得した」
もともと歩の妄想には無理があったのだ。
小百合は病室に来て歩と話をしてくれた。
それはほとんどクラスで起きたことについてだった。もし歩に好意があるなら、もっと自分のことを伝えようとか歩のことを聞こうとか考えるだろう。
小百合はそんな言動を一切取らなかった。それどころか病室に来て二人で黙々と勉強していることすらあった。
兄と同じ家にいたくないから歩のところに逃げていた。
ならばあらゆる意味で納得がいく。同級生男子の家に上がり込めば身の危険がある。小百合はあまり女子グループとのかかわりにも積極的ではなかった。
思春期の自意識は恋人ができたという幼馴染の家に立ち入るハードルを容赦なく上げる。図書館や学校の施設はどうしたって利用時間が限られる。思えば小百合が来るのは学校が閉まった後の時間が多かった。
この病院は見舞いの受付時間は午後八時まで。学校が終わってから立ち寄るにはちょうど良かったのだろう。歩は学校の話をすれば喜んだし、何を言ったりどんな態度を取ったって歩から同級生に伝わることはない。何より症状の関係で歩は安全だった。
小百合は初めてこの病室に居づらさというものを感じた。
これまで歩はどんな話題でも楽し気に反応していた。それどころか小百合が無言でも「そんな気分の日もあるよね」と笑っていた。
黙っていれば空気のように静かで、小百合を責め立てるようなことはなかった。
今は違う。歩はとげとげした雰囲気を放っている。
きっとそれは内向きのとげだ。少しずつ引き締められて歩を突き刺していく。
小百合にはそれをどうにかするすべはなかった。
「前島くん、今日はこれで失礼します。また来ます」
「うん。気を付けて帰ってね」
なんてことのない言葉にもとげを感じてしまう。小百合は逃げるようにその場を後にした。
残された歩はぼんやりと真っ暗になった外を見た。
両親は歩を疎んでいた。
真治にとって歩は世話を焼く相手の一人でしかない。
小百合が求めていたのは歩ではなく逃げ場所だった。
結局のところ、誰も歩を求めてはいなかった。
両親に疎まれていたと知っただけで、これまで歩が自分を肯定する要素として捉えていたものが全てなくなった。
自分一人では何もできず、誰にも必要とされない子供に生きる意味なんてあるのだろうか。
そんなことを考えていると時間が異様なほど長く感じられた。
世界が滅ぶまであと一年。
これまで目標を達成するためには一日たりとも無駄にできないと思っていた。たったの一年しかないと感じていた。
世界が終わるまであと一年もあるのか、と途方に暮れる。
なんて空虚な人生だろう。両親が喧嘩しているところを見ただけで目標も拠り所もなくなってしまった。
両親と出かけたいという目標はなくなった。両親がそんなことを望んでいないと分かってしまった。歩を疎む両親と薄っぺらな笑顔を張り付けてまで出かけたいとは思わなかった。
小百合は別に好きな人がいて、歩にさして興味を持っていない。歩けるようになってどこかに誘っても「無理しない方がいいですよ」と袖にされるのが目に見えた。
歩けたところでもう行きたい場所はない。たとえ歩けても存在しない目的地にたどり着くことはできない。
前島歩という人間は考えるほど空っぽだった。
誰かから与えられたものにすがるだけで、自分で何かを決めたことも、成し遂げたこともない。自分が行きたい場所も自分がしたいこともろくにない。他人に依存した価値観しか持っていない。
だから、他人とのかかわりの希薄さを実感した瞬間にすべてがどうでもよくなっていった。
一年という時間は、何かに打ち込むには短く、ぼんやりとベッドで過ごすには長すぎた。
隕石は歩を一人で終わらせないために降ってくるのではないかと考えたことがある。
もしもそうならば。
「もっと早く来てくれないかな」
ぼんやりと外に視線をやりながら、歩はひとりで呟いた。
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