第14話

 真治は夜遅くまで働き、咲希が数日置きに夕飯を作りに来て、他愛のない雑談をする。

 そんな日々が新たないつも通りになり始めた頃。


「真治さんはどうして看護師になろうと思ったんですか?」


 昼のリハビリを終えた歩に質問された。


「急にどうしたの?」

「真治さんはあと数年で世界が終わるってわかってから看護師になったわけじゃないですか。僕から見えるだけでも看護師って大変そうだし、どうして続けられるのかなと気になりました。……あの、失礼だったらすみません、忘れてください」

「いや、別にかまわないよ。大した理由でもないし」


 歩の言葉は途中からしりすぼみになっていった。

 理由はなんとなく分かる。真治も遠からず看護師をやめるのではないかと危惧しているのだろう。

 院長が職員の健康を優先的に考えているとはいえ看護師が忙しいことは変わらない。先日も一人辞めていった。

 入院患者の中には自分一人では歩くことすら難しい人がいる。歩もそうだ。彼らにとって看護師など手助けしてくれる人の有無は死活問題。歩にしてみれば新たな看護師が担当になっても真治以上にリハビリに付き合ってくれるか分からない。二重の意味でいつか真治が辞めてしまうのではないかと不安なのだろう。


「ぶっちゃけたことを言うと、生活のためだね。看護とか介護の資格を持っていれば食うに困ることはないだろうって思って資格を取った」


 真治が進路を決めたのは地球が無くなると分かる前のことだ。いつか独り立ちしたら決して家族に頼らず済むよう将来のことを考えた。

 ちょうどよく看護学校の募集が目に入った。高齢化が進む中で介護の資格があれば腐ることはないだろうし、大病院で看護師になれればそれなりに安定するのではないかと思った。地元ではなり手が少なかったのか、卒業後に地元で数年働くという条件で学費が破格の安さだったことも進路を選んだ一因である。


「そうだったんですか……では、今も続けているのは」

「看護師の仕事が性にあってたんだ」


 確かに看護師の仕事は激務だが、真治は自分の天職だと思っている。


「何かすごいやりがいがあったりするんですか」

「あるよ。ありがとうって言ってもらえるからね」


 特に考えもせず即答していた。

 今ならまでいくらでも誤魔化せる範疇だ。お礼が一番の報酬さーと冗談めかして言えば歩はもう突っ込んでこないだろう。

 だが、そうすべきではないと感じた。

 真治が誤魔化せば歩は食い下がってこない。そして入院している間ずっと真治はいなくなるのではないかと煩悶することになる。

 いっそ真治がいなくなったなら歩は切り替えができるだろう。真治さんの人生だしね、と困りながらも受け入れるはずだ。真治が職場に残るから辞めるのではないかという可能性が頭に残る。

 真治は仕事を辞めるつもりがない。世界が終わるその瞬間まで看護師をしているつもりでいる。詳しい事情を説明すれば歩も納得するはずだ。


 咲希が訪ねてくるようになってから家族のことを考える時間が増えた。

 いつも疲れ切った頭で短い時間考えるだけなので、ぐずぐず煮え切らないまま眠ってしまう。

 一人で回らない頭で考えているからまとまらない。しゃんとした頭で誰かに話せばきっとまとまる。勤務時間内というのは問題かもしれないが幸いリハビリ室に他の利用者はおらずバレる心配はない。


「これ以上は私の身の上話になる。全く楽しい話ではないけど、聞きたいなら話すよ」

「あの、僕が聞いていい話なんですか」

「駄目なら話さないよ。加減気持ちの整理をつけなければいけないと思っていたからちょうどいい。でも他言はしないでほしいかな」


 真治の家庭環境など含めて話すことになる。歩なら他人に言いふらしたりしないだろうが、何かの拍子でぽろっとこぼしてしまうこともありうるので口止めはしておく。

 あとは歩次第。やめておくと言われたらすっぱり忘れてそれまでだ。


「分かりました。聞きたいです」


 歩はうなずいた。


「よし、じゃあちょっと長い話になるから着替えを済ませて病室に戻ろうか」


―――


 鈴片家はエンジニアの父と専業主婦の母、真治と弟の四人家族だった。

 仕事が忙しかった父は不在がちで、母と過ごす時間が長かった。

 その母親が残念な人だった。


「残念ですか」

「そう。年齢的には大人なんだけど、心が子供のままだった。あ、でも性格のねじくれ具合は大人って感じだったかな」

「それはまた、なんというか」


 真治の一番古い記憶は母の顔だ。

 疲れ切って、口角が下を向いていて、目が座っていて、顔色が悪かった。


『あの子が生まれてなければよかったのに』


 まだ三、四歳の頃の話だ。不機嫌丸出しで呟いていた言葉の意味は分かっていなかった。

 その後も似たようなことをしばしば言われた。何年かして思い出した時、頭を抱えたくなった。

 もうこの時点で兆候はあったのだ。


 思い出した時にはもう、生まれたじゃなくてあんたが産んだんだよな、計算が甘すぎるんだよ、いっそどこかの施設にでも捨ててくれた方がまともに育ったんじゃないか、なんて思うくらいには擦り切れていた。

 とはいえ食事は出されたし、機嫌が良ければ誕生日を祝ってくれることもあった。殴られたこともあんまりない。

 栄養状態が悪いことや怪我があれば父が気付いて注意していたし、注意を受ければ母はしばらく気を付けていた。もっとひどい虐待を受けた子を見たこともあり、今では比較的マシだったとは思っている。なにせ死んでいない。


 幼い頃は母が世界の大部分だった。そんな母に『いなければよかったのに』『誰かこの子を刺してくれないかしら』なんて日常的に言われていれば委縮する。

 真治はずっと、自分はこの世界にいらない存在で、迷惑がかからないように死ぬことを望まれていると考えていた。

 どうすれば迷惑にならず死ねるか、と考えていた。

 やがて小学校に入り、一般的な家庭のことを知った。


 最大の転機は弟が生まれたことだ。

 何をどうすればあの母親と父親が第二子を設けようと思ったのか全くもって意味不明だが、親のそんな話は聞きたくなかったので謎のままである。解明するつもりはない。

 まともな家庭で生まれ育った子は真治とまるで違っていた。自分が生きていることを当たり前だと思っており、母の邪魔にならない手段以外のことを考えていた。


『真治も兄ちゃんだな。健治を守ってやれよ』


 と父に言われた。おそらく父は極めて一般的な意味で言ったのだろうが、真治は違う意味に捉えた。

 母親から守ってやってくれと言われたのだと思った。

 弟を守ることが自分の生まれた意味だと思った。

 真治は死ぬ方法を探すことをやめた。

 母親と対立することが増えた。母親は暴力的な言動が増えた。真治は母親の暴力が健治の目と耳に入らないようにした。


「そんなわけで私はずっと母に死ねとか産んだことが間違いだったとか言われ続けてきたんだ」

「………………」


 歩は両手で顔を覆っていた。

 ぶっちゃけすぎたかな、と今さら不安になる。

 生々しい表現や痛々しい場面はカットした。なるべく淡々とかいつまんで話したつもりだったが、それでも歩にはきつかったらしい。

 もしかしてそのあたりの感覚も普通の人とずれているのか、と冷や汗が流れる。


「私にとってありがとうと言われるのは何にも勝る報酬なんだ。そう言われるだけで自分が生きていていいと思える。世界が終わるその瞬間まで、私は自分が生きていてもいい人間だと思いたい。だから私は看護師を続けるつもりだ」

「……はい、ありがとうございます」


 顔を隠したまま歩は頭を下げた。

 歩が受け止めるには重すぎる話だった。なにせ誰かにありがとうと言われなければ自分が生きていていいとは思えないという告白だ。自分は両親に愛されていることを自認する歩には、愛されていることの大切さがわかるだけにつらい。

 何か慰めの言葉でも口にすべきなのだろうか。しかし相手は年上で、話を聞いただけの中学生に口出しされたら不愉快に感じるかもしれない。そもそも話を続けることがつらい。

 結局、真治に宛てた言葉は思い浮かばなかったが、ひとつ気になることがあった。

 話の最後にそれだけ尋ねることにした。


「真治さん、弟さんは――」

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