第15話

「お前、中学生のガキになんつー話をしてるんだ」


 事務室に戻り作業している最中も話し過ぎたかと悩んでいると、同僚に何かあったのかと訊かれた。よほど挙動不審だったらしい。

 歩に話したものよりかいつまんで話したのだが、それでも同僚は深くため息をついた。


「話し過ぎた感があったんだけど、やっぱりまずかったかな」

「感どころじゃねえ。はっきり話し過ぎだ。普段助けてくれる人の虐待話とか聞いても持て余すに決まってんだろ」


 生い立ちの話するのはいい。つらい過去を打ち明けることで信頼していると示すこともあるし、そういうことがあったと共有するのも悪いことではない。

 ただしそれは話を聞く相手に相応の心の準備ができているという前提のもとに成り立つ。事前に警告したといってもすぐに心構えができるものではない。聞かされる側が子供で、普段頼りにしている人から聞かされるならなおさらだ。


「多分歩くんの方もしばらくぎくしゃくするだろうけど、お前は気にしないでこれまで通りに接しとけ。変に気ぃ遣ったりすると歩くんもつられるからな」

「はい」


 いろいろと真治の常識から逸脱したこともある同僚だが、少なくともこの点については真治よりも常識的だろうと思い素直に頷いた。

 同僚はあきれ混じりの様子でコーヒーに口をつけた。

 ふと気になることがあった。

 この同僚とはそれなりに長い付き合いになる。性格もある程度は把握しているつもりだ。

 しかし、世界があと一年で終わるという時に看護師なんて仕事をしているような性格とは思えなかった。快楽主義的で、むしろ世界が終わらなくても看護師をやっていそうには思えないような人格だ。


「ところであなたはどうして看護師なんてやっているんだ?」

「おまっ、自分がド重い過去をぶちまけたくせに俺にあっさり聞くか。俺までやばい過去暴露したらどうなるよ」


 なので聞いてみるとコーヒーが変なところに入ったようにせき込んだ。

 確かに同僚が重い過去を背負って看護師をやっているという可能性はあるが、真治の目にはそう見えなかった。同僚の目つきや身にまとう雰囲気は、小学校で出会った普通の家庭で育った子たちと同じそれだ。可能性はゼロではなくてもかなり低いだろうと見込んでいる。


「まあ、別にいいけどな。大した話でもないし」


 真治の見立ては正しかった。同僚が看護師を続けている理由は深刻なものではない。

 同僚は改めてカップにインスタントコーヒーを作りながら話し始めた。


「世界が滅びるって思えねえんだよなあ、俺は」

「関係各所が断言しているし、証拠だっていくらでも上がってると思うけど」

「でも俺は隕石の軌道を計算できねえし、その証拠ってのが正しいか判断できないわけだ」


 同僚の言い分も理解できる。

 例えばの話、これが地球を滅ぼす隕石の写真です、と言われて適当な彗星の写真を見せられても真偽の判別はつけられない。地球の軌道と隕石の軌道をシミュレートしたものを見ても、その計算が本当に正しいかなんて専門知識がなければ分からない。

 真治だって自分が確かめたわけじゃない。ただ関係各所がそう言っていて、どこの国の政府も否定しないから信じているだけだ。

 同僚が自席に座り背もたれに体重をかけると、ギィときしむ音がした。


「なのにせっかく手に入れた就職先を手放すつもりにはならんね。激務なぶん給料いいし。あと看護師のコと知り合うにはここに勤めてるのが一番いいし」

「結局そこに行きつくのか」


 冗談めかした同僚の言葉が半分以上本気であると察して真治はため息をついた。こいつを一般的な感覚のサンプルとして認めていいか甚だ疑問に思えてきた。

 そんな真治に同僚はいやらしい笑みを向けた。


「人にそう言いつつもお前だってやることやってるじゃねえか。お見舞いの子といい、家に入り浸ってる子といい、まだ十代だろ? 若くて可愛い女の子と絡んでてうらやましいぜ」

「……何の話だよ」

「とぼけんなって。歩くんのお見舞いに来てる子だよ。サユリちゃん、なんて名前で呼んじゃってさあ。しかも最近高校生くらいの子がお前んちに来てるだろ」


 帰り道で見ちゃってさ、と笑う。

 これはまずいと真治の背筋に汗が流れる。

 病院スタッフは忙しい。娯楽に興じる時間も少ない。

 そんな中で自分の醜聞が面白おかしく流されたらどうなるか。結果は火を見るよりも明らかだ。

 幸い事務室に人はいない。ここで訂正と口止めをしておく必要がある。


「どうしたらあんなレベルの若い子とお知り合いになれるのか、ぜひぜひ教えてくれ」

「どっちも弟の知り合いだよ」

「マジか。弟さん結構なヤリ手だったりする?」

「むしろ優柔不断だよ。弟の彼女はウチに来てる子だけだし」

「……優柔不断な弟が頑張って作った彼女を取っちゃうとかひどくね? さすがの俺さんもドン引きだわ」

「とってないから。不摂生してるのがバレて話の流れでたまに夕飯作りに来るようになっただけ」

「JKの手料理配達とか、ふつーに金とられるレベルだぞ。それをだけってお前。そのうえガチで手ぇ出してないのか」


 真治の口ぶりから真実を悟った同僚は「理解できねー」と空飛ぶペンギンを見るような目を向けてきた。


「じゃあ、お見舞いの子はどうよ」

「弟の幼馴染の妹」

「遠いな」


 真治にとっても古い顔なじみではあるが、実際の関係にはそれくらい距離がある。


「……じゃあアレだな? 俺が口説いても良いワケだな? よーし、お兄さんワクワクしてきたぞー」

「良いわけあるか」


 何一つとしてよくない。むしろ手出しするのを見過ごすことすらできない。

 にやにや笑って手をワキワキさせる同僚に冷たく言葉を投げると、同僚は唇を尖らせた。


「なんでよ。どっちもお前の彼女とかじゃないんだろ? だったら俺がどうしようと俺の勝手だ」

「勝手なワケあるか。ていうかさっき弟の彼女に手を出すとかドン引きって言ったのは誰だよ」

「俺の弟じゃないもーん」


 同僚は思ってたよりゲスだった。


「それはそうと、あの二人に遊びで手を出すのはマジでやめろ」

「遊びでもいーじゃん。そりゃ俺はたっくさん遊んでるけど、全部合意の上よ? レイプとかAVでも見たくないレベルの純情さよ?」

「公の場でレイプとかAVとか言うな。いいか、これはお前のためを考えての警告でもある」

「俺のためぇ?」


 同僚はそんな言葉を付けた警告を何度も受けている。

 そのうち刺されるぞとか、恨みを買うぞとかなんとか。もはや聞き慣れた言葉だ。

 たいがい自分の惚れた相手に手を出されたくないとかやっかみとか、同僚にとっては全くもってくだらない理由で言われることだ。現にこれまで一度も刺されたことはない。男からの恨みは買っても女からの恨みはない。

 まさか真治がそんなくだらないことを言ってくるとは意外だった。

 しかし一分後には考えが変わることになる。


「あの子に手を出すのは松葉秀人に喧嘩を売るのと同じなんだぞ」

「まつっ……!? 松葉秀人って、あのジェノサイダー松葉?」

「そう。ジェノサイドはしてないけど」

「なんで一人も殺してないのか不思議な松葉?」

「本当に不思議だよな」

「どっちかといえばゴリラの松葉?」

「それは初耳だ」


 何人も病院送りにしたことからジェノサイダー呼ばわりされていることは知っている。喧嘩を売って来た相手を、なんで生きているのが不思議な状態で病院に持ってきたこともある。どっちかといえばゴリラというのは初耳だが、由来は想像がつく。


「ウチに来てる子は秀人君の妹だ」

「げえっ!」


 同僚は目を剥いた。

 これまで病院に運び込まれた連中の状態や末路を思い出すと頬がひきつっていく。

 自分はさっきなんと言ったか。口説く……はまだいい。遊びで手を出してもいいだろと言ったような気がする。


「ちなみに鈴片の見立てだと、妹ちゃんに手を出したらどうなる?」

「ボロ雑巾じゃない?」

「幼馴染ちゃんに手を出したら?」

「ボロ雑巾じゃない?」


 疑問形であるが即答だった。疑問形であるのはもっとひどい可能性があるからだろう。正確に言うなら運が良ければボロ雑巾とか、命があればめっけものとかそんなところだろう。

 松葉秀人が警察に事情を話しているのを聞いたことがあるが、被害者がいる時には患者の怪我が重かったように思える。

 もしも松葉秀人の身内に手を出したら。脳裏をよぎるのは数々の入院患者の姿。前歯が全部無くなっている人がいた。意識を取り戻すなりベッドの下へ隠れた者もいた。ああはなりたくない。


「それはそうと、妹ちゃんなんか中学生だぞ。秀人君関係なくやめときなさい。ロリコンって言われるぞ」

「さ、最近の中学生って発育いいよな」

「おいまさかお前」

「違う、違うんだ。そうだアレだ。高校生ならセーフだよな」


 明らかに挙動不審になった同僚に、真治は冷たく社会通念を告げる。


「自分の歳を考えろ。高校生でも十分アウトだ」


 ロリコンは崩れ落ちた。


―――


「で、結局のところ真治さんはどうして健治に会わないんですか?」


 テーブル越しに真治と向き合う咲希が、ほかほかの夕食を前に問い詰める。

 メニューは和食。ご飯に焼いた鮭、具沢山の味噌汁と漬物である。真治にとっては久しぶりに食べる焼き立ての魚だった。咲希が言うには百均に電子レンジで魚を焼くグッズが売っており、それが意外と便利らしい。

 いただきます、と手を合わせるなりの詰問だった。すでに鮭に箸を入れていた真治は鮭の身を口にして、追うようにご飯を食べる。焼き鮭と米の相性は変わらず抜群だった。

 米と鮭を噛みながら考える。前はうまいこと話さずやり過ごせたが、もう無理だろう。


「もう俺に健治は必要ないし、健治に俺は必要ないからだよ」


 健治の世話をしなくても生きていていいと思えるようになった。

 真治がいなくても健治を脅かす存在はいない。

 お互いがお互いにとって不必要になった。


「必要ないとしても合わない理由とは違うんじゃないですか」

「そうだな。でも俺には積極的に合う理由がない。健治は会いに来ても途中でグロッキーなんだろ。どっちみち会うことはない」


 仕事も忙しいしな、と嘯く。

 その気になれば外で食事する時間くらいは作れるだろうが、肝心の健治が家に向かうだけで貧血を起こすというならそれも当分先の話だ。

 ふと、歩の顔と先日された問いかけが浮かんだ。


『弟さんは真治さんが生きていていい理由にはならなかったんですか』


 ならなかったな、と答えた。

 きっと真治が家を出る段階では健治は真治を必要としていた。だから兄さんまで出ていくのか、と寂し気に声をかけてきた。

 真治は『お前に俺は必要ないし、俺もお前はいらない』と返した。

 健治の周りには助けてくれる人がたくさんいた。

 真治をはじめ、岩井咲希や松葉秀人といった幼馴染がいた。真治がずっと一人で耐えてきた痛みを知ることもなく育った。

 それは真治にとって誇るべきことであり、妬ましいことだった。

 なぜ健治ばかりこうも恵まれている。そう思ったことは何度もあった。

 そのたび、俺は兄さんだから、兄は弟を助けてやるものだから、と自分を納得させた。


 母がいなくなった後、弟と顔を合わせると苛立ちがあった。

 母から守らなくてはいけないと思っていたが、その母がいなくなった。もう守る必要がなくなった。

 残ったのは妬ましさだった。

 ただ自分を必要としてくれる誰かがほしいと思っていたが、それだけでは駄目だった。

 嫌いな相手に求められても苛立つだけだった。


 その点、今の仕事は素晴らしい。

 誰もが真治を必要としてくれる。

 それでいて誰とも深い関係を築く必要がない。厭わしく思った患者もいずれはいなくなる。


 願わくば、この生活が世界の終わりまで続くことを。


 あと一年で世界が終わるなら、それまで自分が生きていていいのだと思っていたい。

 それが真治のささやかで切実な願い。世界が終わるその日まで激務に励む理由だった。


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