第13話

「どうして健のことを無視するんですか」


 問われ、呼吸が止まった。

 よく考えてみれば咲希が真治のもとを訪れそうな理由なんて限られている。

 真治と咲希の間に個人的な親交はない。むしろ苦手意識を持たれている方が納得できる。咲希は小さい頃、真治が来ると秀人の陰にそれとなく隠れていた。

 父や健治に何かあったなら直接真治なり職場なりに連絡があるだろう。

 咲希が来たということは健治に関わる個人的な話だ。


「それ、咲希ちゃんには関係なくない」

「関係あります。私は健の彼女なので」

「え、マジで?」


 素で驚いた。真治の警戒でピリついた雰囲気がなくなった。


「そんなに意外ですか?」

「めっちゃ意外。咲希ちゃんは秀人くんと付き合うものだと思ってた」


 まだ真治が家にいた頃、よく三人で遊んでいるのを見ていた。三人が幼い頃にはお目付け役を務めたこともある。

 秀人と咲希の仲が良く、健治は弟分のように二人にくっ付いているという印象だった。

 人生どう転ぶか分からないものだな、と思う。

 それと同時に強い苛立ちを覚えた。


「で、アレか。健治は可愛い彼女を夜に出かけさせて、自分はボケっと待ってるのか。偉くなったもんだ」


 この辺りは治安がいいとはいえ、捨て鉢になった犯罪者がいつどこに湧くか分からない。どこかの町から流れてくることもありうる。

 健治からのメッセージは何度か来ていたが全て無視していた。そのうち家に来たらどうするか、と考えもした。

 それがまさか幼馴染を顎で使うようなやつに成り下がっていたとは。そんなクソガキに会いたくはないし、会うとしても一発ぶん殴っておしまいだ。


「違いますよ。健は私がここにいるって知りません」

「は?」

「このところ学校でもやけにスマホを気にしてたんです。どうかしたのって聞いてみても何でもないって言うんですけど、健って嘘つくのへったくそじゃないですか。何かあるなーと思ってメッセ開いてるところを横からちらっと」

「こえーよ」


 ナチュラルにショルダーハックしていた。

 スマホを勝手に操作するやつよりはマシかもしれないが、結果的にはどっこいだ。弟のセキュリティ意識が不安でもある。

 とはいえ本題はそこではない。一度息をついて気分を切り替える。


「健治が俺を気にしてることに気付いた経緯は分かった。けどなんで咲希ちゃんが一人でウチに来るんだ。健治が俺に会いたいと思ってるなら、健治が来れば手っ取り早いだろう」


 健治が真治に会いたいなら健治が来ればいい。住所は父親伝てに知っているはず。咲希も健治から聞いてここに来たのだろう。ただ会うだけなら咲希がしたように玄関の前で待ち伏せするのが確実だ。

 健治と真治の二人だけでは話しづらいと咲希に同席を頼むのならまだ分かる。

しかし、咲希が一人で来る理由はわからなかった。


「健、ここに来ようとして貧血起こしちゃったんです」

「貧血? あいつ飯食ってないの? 俺より健治に作ってやったら?」

「本気で言ってます?」


 咲希は食事の時とは正反対の冷ややかな視線を向ける。

 もしも二度と真治の家を目指せないほどの症状だというなら真治に連絡が来ないはずがない。それどころか職場でご対面の可能性もある。なにせ真治が勤めている病院はこのあたりで一番大きく、救急外来もあるのだ。


「心因性の症状ってこと。でも、俺には心当たりがないんだけど」


 真治は鈴片家から母親がいなくなった直後に家を出た。

 もともと就職を期に家を出ることを考えていた。ろくでなしだった母親がいなくなるなら家に残る必要はなかった。

 健治は寂しそうにしていた。少し心残りではあったが、このままでは健治が依存気質になってしまうのではないかという懸念もあり、真治は家を出た。

 それまで良好な関係を築いていたはずだ。少なくとも会うことを考えただけで貧血になるほど緊張する理由はない。


「あれ、そうなんですか?」


 咲希は不思議そうに真治の顔を覗き込む。

 やがて嘘はついていないと認めたのか、小さくうなって身を引いた。


「ていうかさ、いくら彼女でも人の家の事情に首突っ込み過ぎじゃない? 善意か野次馬根性か知らないけど、よく知りもしないで手出しするのやめた方がいいと思うよ。悪化するかもしれないしさ」


 真治は諭すように言った。

 人にはそれぞれ事情がある。それを詳しく知らない人が口を出して好転した事例を真治は知らない。むしろ知った口をきくな、と意固地になることの方が多いだろう。


「私もそう思います」

「……じゃあやめときなよ」

「そうもいきません。このまま世界が終わったら私に心残りができちゃうんで」

「はあ?」

「あと一年で世界が終わります。なら私は自分の周りの人みんなに笑っていてもらいたい。たぶん、健が心から笑うには真治さんが必要なんだと思うんです」


 咲希は訥々と語る。その内容はある意味でとても身勝手なものだった。

 なにせ自分が心置きなく死にたいから兄弟仲を良くしろと言っているのだ。ヨソの事情に首を突っ込むどころじゃない。


「健はまた会いに来るって言ってました。でも真治さんとしては避けてきた分だけ会った時に気まずいでしょう? だから仲立ちできるように旧交を温めておこうかなーと」

「……そりゃどうも」


 真治は溶け切らないインスタントコーヒーを口に入れてしまったような顔をした。

 言われてみれば確かにそうだ。今は連絡を無視している程度だが、もしも会いに来ると事前連絡があったら適当に理由をつけて断るだろう。いきなり尋ねられてきたら逃げだすかもしれない。

 最初に連絡があった時にサクッと会って終わりにしてしまえばよかったのだ。一度後回しにしてしまったせいで忌避感が強くなっている。

 おそらく顔を合わせれば気まずいだろう。そんな場に健治とも真治とも親しい人がいてくれたら助かることは間違いない。

 余計な気遣いだが、的外れではないだけに無碍にもしづらかった。


「まあ、あんまり深く考えないでください。今すぐ健に会えなんて言うつもりもないです。たまに夕飯を作りに来るくらいです」

「え、また来んの?」

「来ますよ。今日は来た理由を説明しただけじゃないですか」

「そりゃそうだけど」


 こりゃ引っ越しを検討すべきかな、と心の隅っこで考えていると「病院に連絡するようなことにはならないですよね」と笑顔で釘を刺された。

 勤め先を知られていて、そこから離れるつもりがないことを見抜かれている。会話の中で逃げようと考えるタイミングまで読まれているとなると、旧交を温める必要とかないんじゃないかと思えてくる。

 咲希は真治の事情なんてほとんど知らない。看護師が人手不足で激務とは聞いているので、それだけ大変なのに辞めないのは何か理由があるからだと予測しただけ。

そしてそれは正しい。


「……ならせめて、来る時には事前に連絡をくれ。夜勤とかあるし」


 勘違いで職場に連絡されても困る。

 病院のスタッフが個人情報を漏らすことはないが、若い女性から真治宛ての電話というだけで話題になる。もし醜聞みたいなことを吹き込まれでもしたら職場に居づらくなること請け合いだ。

 逃げ出した結果報復を受けるならまだしも、勘違いで致命傷を負わされたらたまらない。

 咲希は「わかりました」と素直にうなずきスマホを取り出し画面を見せてくる。真治はいやいやスマホを取り出して、表示されているコードを読み込んだ。ローンの契約書にハンコを押す時ってこんな気持ちなのかなと思った。

 咲希の連絡先が新たに登録されたことを確認し目をつぶる。心の中でよし、とつぶやいて気分を切り替える。

 連絡先を抑えられたのは仕方ない。差し当たって目の前の問題を解決すべきだ。


「じゃあ、今日はもう帰れ。送ってくから。それとも健治を呼んでみるか?」

「……いいかも。あ、いやちょっと待ってショック過ぎるかも」


 冗談で言ってみると咲希は少し考えるそぶりを見せて、すぐに却下した。


「いきなり俺の家に呼びつけられてもまた貧血起こすか?」

「それもですけど付き合いたての彼女から深夜に、あなたのお兄さんの部屋にいるから迎えに来てってメッセ来たらどう思います?」

「およそ人間のやることじゃねえな」


 真治と健治が顔を合わせた時に殺伐とすること請け合いだ。流血沙汰になるかもしれない。


「なら秀人くんでも呼ぶか。下手な警察官より頼りになるだろ。ついでに事情を話して今後も送り迎えしてもらうとかどうだ」

「あー、それがですね、秀、いなくなっちゃったんですよね」

「いなくなった? 連絡も取れないのか」

「はい。旅に出ちゃったらしいです。ご家族も今どこにいるかは知らないらしくて、メッセ送っても返信ないか、あっても日があきます。無事でいることは確かみたいなんですけど」

「秀人くんがどうこうなるってのも想像できないけどな」


 ですね、と咲希もうなずいた。二人とも秀人の頑丈さはよく知っていた。


「秀がどこかに行くことはあるかもって思ってましたけど、こんな急とは思ってませんでした」

「咲希ちゃんも予定とか聞いてなかったんだ」

「聞いてなかったんです。水臭いですよね」


 健治も秀人も呼べないとなれば真治しかいない。食事の礼もかねて送り届けることにした。

 部屋を出ると冷え切った夜の空気が広がっている。もうすぐ日付も変わる。街の明かりもまばらになっている。

 空を見上げれば曇っている。明日には雨が降りそうなほどしけった空気がまとわりつく。息を吐いてみれば白い煙のように尾を引いた。かつんかつんと二人分の足音が階段に響く。寒さもあって二人とも口数が減っていた。


「自分の周りの人みんなに笑っていてほしいって言ってたけど、咲希ちゃんはそのみんなに対してこんなことしてるの?」


 ただ歩いているだけでは退屈だ。先ほどやり込められた仕返しとばかりに皮肉げな口調を向ける。

 マフラーに口まで隠していた咲希が腕を組みながら小さくうなって答えた。


「一応?」

「今の間はなんだよ。それに一応って。しかも疑問形」

「いやあ、よく考えてみると私の周りの人って少ないなって思って」


 あっさり言われて今度は真治が何と返せばいいか分からなくなる。


「真治さんと健でしょ、ゆりちゃんにお父さんとお母さん。あと佳花……同級生の友達ね。お父さんとお母さんは二人で旅行に行ってるし、ゆりちゃんと佳花は私が口をはさむところがなさそうで、余計なお世話を焼きたかった秀はどこにいるかも分からない。首突っ込むのは真治さんと健のことだけ。だから真治さんたちのことには余計の上にも余分に突っ込んじゃうかもしれないけど、そこは許してください」


 照れくさそうに笑いながらこちらを向いた咲希に、もしかすると寂しいのかもな、なんてらしくもない当て推量をする。

 咲希が自分の周りの人と認識しているのは例に挙げた人たちだけだ。強いて加えるとすれば松葉家の両親、健治の父程度。この三人にはよくしてもらっているが会う機会が少ないので周りの人という感じではない。真治のことも健治のことがなければ周りの人とは思わなかっただろう。

 人当たりはよいので咲希には知り合いが多い。しかしその友人は心を預けられるものではない。

 こうして考えると咲希は自分がついているんだかついていないんだかよく分からなくなる。

 この年で全幅の信頼を寄せられる人がいるのは素晴らしい幸運だと思う一方で、そんな相手がいるせいで友人のハードルが極めて高くなっていると思う。

 咲希が知り合いと思っている人が世間一般で言う友人で、咲希にとっての友人はみんなが親友とか呼ぶものかもしれない。


「意外と友達少ないんだな」

「真治さんに言われたくないし!」

「きみは俺周辺の人間関係とか知らんでしょ」

「知らないですけど、こんな生活送ってる人が人間関係維持できるはずないですしー。知ってますか、ずっと連絡取り合わなかったら友達だった相手にも忘れられるんですよ」

「うるせ、知ってるわ」


 以前、患者に元同級生がいた。学校ではわりと仲良くしていたつもりだったので声をかけたが、誰だっけコイツと言いたげな反応をされた。名乗ったら思い出してくれたが、真治は一目でわかっただけにショックだった。

 人間関係の維持にはこまめな連絡などの努力が必要なのだなと身につまされた。


「ところで、あの人には連絡とってないよな」


 最も気になっていたことを尋ねる。決して言い負かされて旗色が悪いから話題の転換を図ったわけではない。


「とるわけないじゃないですか。健もあの人には会いたがってませんし、私もあの人嫌いですし。そもそも連絡先知りませんし」

「そうか。そりゃよかった」


 個人を特定できないような言葉だったが、咲希と真治の間では通じていた。

 あの人とは真治と健治の母親のことだ。

 今からさかのぼること四年前。世界が滅びると聞いて家族を捨てて家を出て行った。

 真治にそのことを責めるつもりはない。むしろ出て行ってくれたことに感謝している。もしも母が家に残るのなら真治は一人暮らしを始められなかっただろう。

 しかし、家族とは思っていない。生物学的な繋がりは消せないが、法的にも精神的にも他人である。それどころか真治にとっては明確に敵だ。もしも健治が母親との関係を修復しようとしているなら正気かと問いただすために真治は会いに行くだろう。咲希が真治と母親の仲を取り持とうとか考えているなら殴ってでも黙らせる。

 警戒程度に思い浮かべた予想は幸いにも外れていた。つまらない話題はそこそこに、真治は再び話題を変える。


「そういや健治と付き合い始めたってことだけど、どうだ。うまくいってるのか」

「たぶん順調……というかこれまでとあんまり変わらないですね。たまに二人で学校に行ったり遊びに行ったりしてます。あといろいろ話したり」

「まだ学校行ってるんだ」

「はい。正直行くことないかなって思うんですけど、なんか漫画の恋愛みたいでちょっと楽しいですよ」


 咲希が読む少女漫画は学校が舞台のものが多い。まるで漫画の真似をしているようでこそばゆい楽しさがあった。

 真治は安堵した。健治が咲希を好きなのはよく知っている。きっと咲希と一緒というだけで健治は楽しいだろう。

 懸念していたのは咲希の方だ。もしも咲希が健治と義理で付き合っているだけで楽しくないとしたら。健治は確実に気が付く。そしてひどく傷つくことになる。

 二人が付き合っていると聞いてそんな想像をしていたが、懸念だけで終わった。咲希が楽しんでいるならそれを見る健治が楽しくないはずがない。


「そっか。そりゃいいな。学校以外でも何かあったら健治を巻き込んでやってくれ。あいつ、咲希ちゃんに頼られたら絶対大喜びするから」


 気が付けば咲希の家の前にたどり着いていた。

 別れ際に真治が言うと、咲希はぱっと顔をほころばせた。そして笑顔で「はい、そうします」と返した。


「なんか、えらいご機嫌だな」

「ご機嫌にもなりますよ。私、真治さんが健を嫌いになったから会いたくないのかもってちょっと不安だったんです。けど、たった今、それは絶対違うって確信できました」


 先ほど真治が口にした言葉は、健治を理解していて健治の幸せを願うがゆえのもの。咲希の懸念を吹き飛ばすには十分だった。


「送ってくれてありがとうございました。真治さんも気を付けて帰ってくださいね」

「おう」


 真治は片手をあげて別れの挨拶をする。

 咲希がドアのカギを閉めたことまで確認して家路につく。

 まあ、確かに嫌ってるわけじゃねえからな。

 言われた言葉を反芻しながら歩く道は、先ほどまでより少しだけ明るかった。

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