第12話

 自室に温かい味噌汁のにおいが漂う。

 同時にじゃっ、じゃっと肉を焼く音がする。味噌汁に交じってする香りを考えるとおそらくメニューは生姜焼き。

 常にはないことだ。普段から味噌汁を飲むことはあるし、生姜焼きを食べることもある。しかしどちらもインスタントか弁当、せいぜい外食だ。自分の家に手作りのにおいが広がることはない。

 まして、一人暮らしを始めてから自分以外の誰かが台所に立っているところなんて見たことがなかった。

 どうしてこうなった。

 食欲をそそる香りに思考を乱されながらも真治は努めて考えていた。


―――


 一番手っ取り早いのは「さっさと帰れ」と追い返すことだっただろう。

 それは人道的にまずいとしても「送るからもう帰りなさい」と言うことはできた。咲希も真治が本気で迷惑に思い、帰らせようとしているのなら無理に粘らなかっただろう。

 真治は疲れていた。もう一度アパートの階段を下りるだけでも億劫なのに、咲希を家に送るなどという面倒ごとに対処する気力は残っていなかった。そしてすきっ腹に「ご飯作ってあげます」という文句は効いた。

 もう遅いから帰れ、と言い切るより先に腹の虫が音を上げた。咲希は笑っていた。この時点でもう勝ち筋は消えていた。

 観念し、家の鍵を開けた。いつも通り真治が無言で靴を脱いで部屋に入ると、咲希は「お邪魔します」と家に入りながら物珍しそうにあたりを見回していた。

 咲希はすぐに顔をしかめた。


「うわ、インスタントとコンビニ弁当ばっかり」

「ばっかりじゃない。スーパーの弁当も食べてる」

「ほぼ同じじゃないですか」


 スーパーの方がその場で調理している分、保存料とか使っていなくていいと思う。そう言い返そうと思ったが、コンビニ弁当もその日のうちに食べるのが前提なのだから保存料を使っていないという噂を思い出してやめた。

 コンビニにせよスーパーにせよ、売っている弁当の種類は限られる。いつも似通ったものを食べていれば栄養が偏るという点においてはどちらでも大差ないのは確かだ。

 半透明のごみ袋を採用している自治体のことを八つ当たり気味に恨みながらリビングの片隅に荷物を放り投げる。

 低いテーブルの傍らには座布団が一枚だけ敷いてある。咲希にそこへ座るよう促し、自分は朝起きた時のままの布団に腰かけた。


「殺風景な部屋ですね」

「ほっとけ」


 促されるまま座った咲希の第一声がそれだ。咲希は真治の家に入って少しの間はきょろきょろしていたが、今はもう落ち着いている。

 真治の部屋は殺風景としか言いようがない。壁には制服など普段使う服がかけてある程度。狭い部屋はの大部分を占拠するのは布団とテーブルと一枚の座布団。片隅にはスマホの充電器が転がっている。小さな本棚に並ぶのは医療関係の本だけ。娯楽の類はかけらもない。殺風景としか言いようのない部屋だった。


「俺の部屋を見に来たわけじゃないだろう。それより早く要件を言ってさっさと帰れ」


 と、真治が言っている最中にぐうと間抜けな音が部屋に響いた。具体的には「それより」の直後になり始めたので、まるで腹の虫が夕食を催促しているようだった。咲希は声を殺して笑っていた。


「押しかけたのは私ですし、先払いってことでご飯作っちゃいますね」


 こうなれば威厳もなにもあったものじゃない。腹の虫に主導権を売り渡されてしまった真治はむっつり黙りこくった。

 もはや言えることがなくなった真治にはそれが精いっぱいの抵抗だった。

 そして今、目の前には立派な夕食が用意されていた。

 生姜焼きから漂う甘しょっぱい香りに腹の虫は全面降伏している。添えられたキャベツの千切りの厚さがまちまちなのはご愛敬。いかにも家庭の味といった雰囲気の味噌汁は感動的ですらあった。ご飯は冷凍のものだが、きちんと盛り付けられているだけで普段よりはるかにうまそうに見えた。


「どうぞ、召し上がれ」

「……いただきます」


 食事に手を付けたらもう逆らえる気はしなかったが、どのみち懐に入られてしまっている。急な来訪だったので警戒していたが、咲希の態度を見る限り緊急の厄介事といった雰囲気ではない。むきになって抵抗する理由はない。

 などと自分に言い訳しつつも腹の虫に屈したことは自覚していた。

 不承不承のていを取り繕って味噌汁のつがれたお椀に口をつける。


「うまい」


 思わず口走っていた。目を細めてこっそり咲希を窺えばにんまり笑う顔が見える。

 作るところを眺めていたが、特別なものではない。出汁だって鰹節や昆布を使って取ったものではない。特徴は薄味なことと、細切りの大根や玉ねぎが入っていて具沢山なことくらい。おそらくそれも咲希が家で使った食材のあまりだろう。

 つまり、普通の家庭で普通に作られていそうな、ありふれた味噌汁だ。

 味付けが濃いものばかり食べていた口にはよく染みた。

 生暖かい咲希の視線を無視するため食事に集中する。ご飯のよそられた茶碗を片手に生姜焼きをつまむ。

 こちらは味噌汁と打って変わって濃いめの味付けがされている。肉単体で食べると少ししょっぱい。

 なぜ、なんて考えるまでもなくご飯を口に運ぶと思った通り。ちょうどいい塩梅だった。ご飯のお供としては最適な味付けだろう。キャベツと一緒に口に運んでも旨かった。

 自然と咲希の視線も気にならなくなり夢中で箸と口を動かす。ご飯もおかずもそう時間を置かずになくなった。


「ごちそうさまでした」

「お粗末様でした」


 わりと心からの感謝を込めて手を合わせると、咲希は照れ臭そうに笑ってみせた。手製の食事を見るからにうまそうに食べる姿を見て悪い気はしなかった。

 食器を手に取り片付けまでしようとする咲希を「待て」と真治が止めた。


「片付けくらいしますよ」

「いや、いい。飯を作ってもらった挙句に片付けまでさせるほど嫌なやつじゃないぞ、俺は。それより何か用があって来たんだろう。聞くよ」


 中途半端に腰を浮かせていた咲希がすとんと座る。

 いきなり押しかけてきたことを差し引いても、疲れ切ったところでふるまわれた手料理はありがたかった。よほどのことでもなければ厄介事も引き受けようと思えるくらいには。

 とはいえ仕事に穴をあけるわけにもいかないしな、と工面できそうな時間を考えながら咲希に向き直る。


「じゃあ、ちょっと聞きたいんですけど。いいですか」

「かまわないよ」

「どうして健のことを無視するんですか」


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