第8話
その日の朝、健治は駅前で咲希を待っていた。
絶対に送れることがないよう、歩いても待ち合わせ時間に間に合うように家を出た。
デートとして咲希を誘って二人で出かけるというのは長い付き合いの中でも初めてのこと。今日の日程を考えているだけで落ち着かなくなる。知らぬ間に早足になったようで思ったよりずっと早く待ち合わせ場所についていた。
スマホを見ると、まだ午前九時だった。待ち合わせの十時にはあと一時間もある。
相手は慣れ親しんだ幼馴染だぞ、と自分に言い聞かせるが緊張感は消えてくれない。
深呼吸しながらあたりを見回すと、着飾った若い男女が何人も見える。健治と同じように誰かを待っている様子の人がいれば、すでに二人で今日はどこに行こうかと話している人たちもいる。駅にはさまざまなテナントが入ったデパートが隣接しており、駅から遠出する人はもちろん駅周辺に遊びに来る人も多い。
今まではそういう人たちを見てもうらやましいと思うだけだった。
友達と駅で待ち合わせしたことはある。なんなら咲希を含めた複数人で駅に集まったこともある。しかしデートという名目で使ったことは一度もない。なんならこれまでの人生でデートしたことがない。思春期以降に好きになったのは咲希だけで、咲希を誘う度胸がなかったためである。
彼らの目には自分も彼らと同じように映っているのだろうか。
だとしたら嬉しい。
緊張しながら待つ時間の流れはひどく遅い。スリープモードにしたスマホの画面を使って前髪を整えたり、昨日の夜に慌てて買ってきた服の折り目を気にしたりしていても十五分しか経っていない。
昨夜、咲希とのデートが決まった後、健治はタッパーを返すために松葉家を訪れていた。
ずいぶん遅い時間ではあったが、健治と秀人の間ではよくあること。夢見心地の浮かれた足取りで松葉家へ向かった。
浮かれた気分は松葉家がある通りに入った瞬間に霧散した。
松葉家から秀人が出てきた。ちょうどいい、と声をかけようとして、声が出なかった。
秀人の直後に咲希が現れたからだ。いきなり首を絞められたように激しい動悸と息苦しさに襲われた。声なんて出るはずもなかった。
二人の仲がいいのは知っている。だが、こんな時間に二人で秀人の家から出てくるということはつまり。でも秀人は応援してくれて、咲希はデートに応じてくれて、けど告白したわけでもなくて、もしかすると明日、待ち合わせ場所に秀人と咲希が一緒に来て――
一瞬のうちにその光景が残酷なリアリティを持って脳裏をよぎる。
静まり返った住宅街の中で微動だにできなくなった健治の耳に二人の声が聞こえてきた。
「服は決まったんだったか」
「うん、ゆりちゃんのおかげでばっちり。これで明日の準備もばっちりだ。せっかくデートに誘われたのにいつも通りの服じゃあ味気ないもんね」
少し距離を取って歩く二人はそんなことを話していた。
健治は松葉家にはもう一人の幼馴染である秀人の妹がいることを思い出した。ことの経緯をなんとなく察したことで冷静になることができた。
よく見ると咲希と秀人の距離は少しだけ開いており、恋人のそれとは違う気がした。
自分の想像は単なる思い込みと結論付けることができたが、今度はまったく別の方向で背筋が凍えた。
「デート用の服とかあったっけ? ……ないな」
話しながら遠ざかる二人の背を見送り、その事実に気付いた。
咲希はデートにいつもの服は味気ないと言っていた。健治はそこそこ服を持っているが、それはどれも友達と遊ぶときに着るような外出着であり、デートに着るようなものは一着もない。
そんな服を着てデートに行ったらどうなるだろうか。
デート用の服をわざわざ来てくれている咲希。それに対して普段着の健治。
咲希は味気ないと思うだろう。こいつないわーと思われるかもしれない。デート開始直後から咲希のテンションがだだ下がりになるのは絶対に避けたい。それに健治が普段着を着て行けば、咲希だけデート服を着て浮かれていると周りが勘違いして、咲希が恥をかくかもしれない。
それは咲希にがっかりされるより防がなければならない事態だ。
健治は慌ててタッパーを松葉家に返した。秀人の妹は驚いた様子だったが、それどころではなかった。
近所で服を売っている店を調べるが、ほとんど閉まっていた。かろうじて空いている、そこそこお高い店が見つかったので、場違いであることは承知の上で財布を握りしめて駆け込んだ。
今さら流行りを調べている時間はない。かといってマネキンが来ている服を一式買う金はない。咲希を誘えたので恨み言を言うつもりはないが、拙速のリスクを大いに学習した。
高級店なだけあって時間ぎりぎりでも邪険にはされなかった。おかげで頭に上った血を下ろすことができた。
着慣れない服を慌てて買って着て行っても様にはならない。どんな服を着れば様になるか分からないけど、明らかな背伸び感を見て取られたくはない。せっかくだったら格好いいと思われたい。気合を入れていることが分かって、かといって服に着られないようにするためにはどうしたら。
これまでの人生で一番脳細胞を酷使したかもしれない。
健治が選んだのはいつも着ている服に近いシルエットの上下だった。無難に逃げたと言えなくもないが、無難とは誰が身に着けてもそれなりに映えるから無難なのである。慣れないブランドの服を買ってとんちんかんなコーディネートで笑われたら咲希もいたたまれないことだろう。と自分に言い訳した。
閉店時間ちょうどに服をレジに持ち込んだ。店員に嫌な顔をされないかな、と思ったが、店員は生暖かい笑顔でレジを打ってくれた。頑張ってねー、と言ってきた店員は心が読めるのかもしれない。
余談ではあるが、笑顔の生暖かさとは裏腹に、お値段は大変クールで財布の風通しが良くなった。
この格好を見て咲希はどう思うだろうか。
考えるだけで吸った息が肺に届く前に吐き出してしまうような、落ち着かない心持になる。
まだ時刻は九時四十分。待ち合わせ時間まで二十分もある。女性の方が身支度に時間がかかるというし咲希が遅れてきても文句を言うつもりは毛頭ない。ないのだが、遅れられた場合は自分の心臓がもたないかもしれない、と大真面目に思う。
「……何か飲み物でも飲もう。落ち着こう。コーヒー……は利尿作用があるからナシ。なんなら水でもい……」
待ち合わせ場所のそばにある自販機へ向かおうとした時だった。
「健、おはよ。早かったね」
咲希の声がした。
健治が振り向くと、いつもと違った装いの咲希がいた。
まず唇に目が行った。普段は実用性最優先とばかりに乾燥防止のリップクリームを塗る程度なのに、さりげなくグロスを塗っている。
服装も普段と違っていた。いつもなら動きやすさ重視のパンツスタイルだが、今日はグレーのリブスカートだった。足元は大事に使っているブーツを履き、トップスは白いカットソーに黒のダウンジャケットを羽織っている。
「健? おーい」
振り向くなり固まった健治の目の前で咲希が手を振る。
正気に戻った健治はどうしようと思案する。「ごめん、可愛くて見とれてた」とか言えばいいのだろうか。無理だそんなことを言ったらしんでしまう、とセルフ却下する。同時に秀人がいたら間違いなく言え馬鹿と罵ってきただろうな、という考えが脳裏をよぎる。
腹筋に思いきり力を入れて決心する。
「ごめん、スカートはいてるの久しぶりに見てびっくりした。似合ってると、思う」
ごめん秀僕日和った。でも口に出しただけ頑張ったんだ。
健治は内心でなぜか秀人に言い訳した。
可愛いとか見とれたとか直截なワードを言う勇気はなかったが、もともと咲希がいつもと違った装いをしていたらとりあえず褒めようと決めていたのだ。想定より控えめな賛辞になってしまったが、好意的な感想を言えたことに手ごたえを感じる。
言われた咲希の反応やいかに。
「久しぶりって、昨日も学校で見たでしょ」
笑って流された。
「や、私服と制服じゃ全然違うよ。制服だと周りに同じ服装の人がいるからあんまり気にならないっていうか」
「そういうものかな? 確かに制服以外じゃスカートあんまりはかないし、見慣れてないのかな」
「そうそれ、見慣れてなかった。でも、いざ見ると似合っててびっくりした」
決死の覚悟で再び褒めた。どうだ、と緊張していると脳内の冷静な健治が「でも似合ってるってさっき言ったよね」と突っ込んできた。慌てていてとっさに出てくる言葉は似通ってしまうと身をもって学んだ。
同じことを二度言ってしまうくらい、咲希との関係性を考えれば慌てるようなことではないのだが、視野狭窄に陥った健治には致命的な失敗に思われた。どくんどくんと心臓が不穏に脈打つ。
「そう? ありがと」
咲希がそう笑った瞬間、心臓の暴動は治まった。なんなら完全停止して死ぬかと思った。
「じゃあ、今日はエスコートよろしくね。楽しみにしてるから」
「うん、任せて」
歯を食いしばろうとして、歯を食いしばっていたら会話できないので両手を血が出そうなほど握りしめて健治はうなずいた。
命に代えてもエスコートは完遂するくらいの意気込みであった。
他人が聞いたら大げさだと思うかもしれないが、すでに二度ほど正気を失いそうになっている健治からすれば大真面目な決意だった。
まだまだデートは始まったばかりである。
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