第5話

「秀、今ヒマ? 送ってってよ」


 ノックもなくドアが開く。ベッドに寝そべり漫画を読んでいた秀人はのっそり起き上がる。


「思春期の男の部屋を勝手に開けるなよ。場合によっちゃ悲劇が起きるぞ」

「秀ならナイナイ。勝手に部屋に入ってくる私がいるのに変なことしないでしょ」


 あっけらかんと言い放つ咲希。そして悲しいことにその通りだった。家族以上に無遠慮な咲希がいる家でうかつなことをする度胸はない。


「あ、それ最新刊? 最近出たばっかりだよね」


 咲希は秀人の手にある漫画本を指さす。ヒーローを目指す少年の活躍と成長を描いた人気漫画である。咲希も以前読んでいた。

 秀人はすでに一度読み終わっている。差し出すと咲希はベッドに腰かけて読み始めた。

 違うそうじゃない、と秀人は片手で顔を覆った。


「さっき送ってけとか言ってなかったか」

「あ、そうそう。漫画読んでる場合じゃなかった」


 咲希は漫画本を閉じて立ち上がる。


「ゆりちゃんのおかげで服も決まったし、もう遅いし、帰るね」

「おう、帰れ。ウチから咲希ン家(ち)まで百メートルもないんだから送る必要もないだろ」

「そうかな? 世界があと一年で終わるってこんなご時世、どこに変質者が潜んでいるかも分かんない。近所でも美人と評判の私に目を付けた人はたった百メートルと油断したところを狙っているかもしれない。こんな時に送ってくれる、頼れる幼馴染がどこかにいないかしら」


 ちらちら秀人を見て芝居じみた口調で言う咲希。

 世界滅亡が宣告された四年前には悲観して犯罪に走る人間がいた。しかし今では落ち着いたものだ。なにせ勢いで犯罪行為を行う連中はあらかたやらかして逮捕されている。

 この近辺でもそういった変質者が出たことがあった。ちなみに変質者は具体的な被害を出す前に運悪く秀人に出くわし鎮圧された。被害に遭いそうだった女性すらドン引きするほど、通報を受けた警察官がまず変質者の生存確認するほど徹底的に叩きのめされていた。

 なんなら咲希が悲鳴をあげれば即座に走っていける距離。必要ないだろうと思いつつも上着を羽織る。

 どうせ咲希の頼みを本気で断れた試しなどないのだ。大した距離でもなし、さっさと送ってしまったほうがよほど早い。

 よしよし、と言いたげな咲希に文句のひとつも言ってやりたい気持ちはあるがしまっておく。代わりに咲希が手に持ったままの漫画本をそっと取り返した。


「あ、ごめん、読んでる途中だった?」

「いや、もう読み終わってる」

「? そうなんだ」


 いつもなら読み終わっていたら咲希に貸している。そして咲希は一冊なら必ず翌日返しに来る。逆に咲希の本を秀人が借りた時も同じだ。

 そんな幼馴染とのいつものやり取りを秀人はやめた。

 もしかすると明日の今頃、咲希は健治の彼女になっているかもしれない。自分の彼女が本の貸し借りのために他の男の家に行っていると知ったら好い気はしないだろう。

 ちょっとしたけじめのようなもの。咲希は不思議そうな顔をしながらも無理にとは言わなかった。

 行くか、と秀人が言うと咲希はおとなしくついてくる。


「咲希を送ってくる」


 一応リビングに向かって声をかけるが返事はない。


「ゆりちゃん、またね」

「はい、また何かあったら言ってくださいね!」


 咲希が声をかけると快活な返事があった。

 あまりの露骨さと落差に笑うしかない。

 念のため玄関の鍵を閉める。


「まだ喧嘩中?」

「俺としては喧嘩してるつもりはないんだけどな。そもそも何が気に食わないのか分からない。咲希は聞いてないのか」

「訊いてみたけどなんでもないってさ」

「なんでもなくてあの態度なのか」


 逆に面白くなって失笑する。

 道に出ると空は快晴。しかし街灯がまぶしくて星はよく見えない。一年後にはあのどれかが落ちてくるのかな、なんて思って見てもそれがどれかなんてわからない。一足先に滅んでしまったかのように町は静かだった。


「服は決まったんだったか」

「うん、ゆりちゃんのおかげでばっちり。これで明日の準備もばっちりだ。せっかくデートに誘われたのにいつも通りの服じゃあ味気ないもんね」

「そうか」


 暦の上では春といえどまだ肌寒い。澄んだ空気は小さな声もよく伝わる。

 秀人より一歩前に踏み出した咲希はゆっくりと歩を進める。ぴょこぴょこ揺れる後ろ髪を引っ張ってやりたいような気がしたが、やめた。


「秀がああいう漫画読んでるのって、そういえば意外かも」

「そうか?」

「だって秀は何かするとき誰かを頼ろうとしないじゃない。むしろ他人を当てにする人って嫌いでしょ。感情移入とかできるの?」

「そりゃ周りに怖がられてるからな。俺が協力を頼むとかほぼ脅迫だ。それに感情移入しなくても話が面白ければ読めるだろ」


 秀人は一人でいることが多い。

 健治は友人が多い。咲希もそれなりにいる。幼馴染二人が友達と話している時、秀人は常に一人だ。

 苦痛ではない。一人の楽しみ方は知っている。

 寂しいと思うことがないでもないが、自分を怖がっている相手に無理やり近づいて迷惑がられる方が嫌だ。


「あとはまあ、アレだ。ヒーローがなんとかしてくれるとか、希望がある」


 咲希が秀人を振り返った。

 一瞬、自分が何を言ったか分からなくなって、すぐに思い出した。

 知らないうちに口をついて出た言葉を取り繕うように声を出し続けた。


「漫画の中なら世界のピンチでもヒーローが仲間と力を合わせて解決してくれる。今の世界に一番必要なものだろ」

「たしかに。どこかで漫画みたいに誰かが頑張ってたりするのかな」


 限りなくミクロな本音をマクロな表現で韜晦(とうかい)する。

 トラブルが起きた時、正体不明のヒーローがたちまち解決してくれたらいい。そんな憧れはとっくの昔に放り捨てたはずだから。


 百メートル足らずの距離はゆっくり歩いてもあっという間に尽きた。プラスチック製の門を開けて咲希を家に送り届ける。変質者どころかご近所さんと顔を合わせることもなかった。

 安全なのはいいことだ、と思って一歩高い玄関ポーチに上った咲希の背を見送り、帰路につこうとする。


「秀は最期、誰と過ごすの?」


 秀人が背を向けるより早く、咲希が秀人の方へ振り向いていた。

 表情はおだやかだったが、笑顔とは違う。しかしマイナスの感情が浮いているわけでもない。人生の大半を共に過ごした秀人でも初めて見る表情だった。

 さいご。一年後に世界が滅ぶ状況を考えれば、世界の終わりを誰と過ごすのかという質問だろう。

 一秒かけて質問を咀嚼。そして、


「どうだろうな、家族といるんじゃないか」


 嘘をついた。


「そっか」


 咲希はくしゃりと笑った。

 どくりどくりと心臓が暴れる。

 ――俺は今、普通に喋れているだろうか。


「送ってくれてありがと。おやすみ、秀」

「ああ、おやすみ」


 咲希が玄関の方を向く。その拍子に後ろに束ねた髪が揺れた。

 一瞬掴めそうだと思ったそれは、秀人が手を出そうとするより前に玄関の向こうへ消えた。

 秀人は静かに門を閉め、少しだけ歩き、それから音を立てないようにしながらの全力で走った。ただいまとも言わず家に入り、自室に戻る。

 部屋に戻ってからもまっすぐ歩き、壁に頭突きをした。そのまま体を反転させて壁に背中を預け、ずるりと床に座り込んだ。

 深く、長く息をつく。


「…………言えるか」


 咲希だよなんて。


 後頭部を壁にぶつける。

 世界の最後を誰と過ごすか考えた時、真っ先に浮かんだのは咲希だった。それどころか咲希以外浮かばなかった。家族と過ごすなんて嘘も良いところだ。

 いきなり自分は何を考えている。よりにもよって健治が決心した今この時に。

 苛立ちと怒りと混乱で自問し、夜は更けていく。

 水切りにタッパーが増えていたことには気づかなかった。

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