第40話 黒い糸ですっぽりと覆われた繭の中
……相手の顔が見えるかどうかくらいの暗い部屋で、それはそれだけで生きているかの様に大きく波打っていた。
髪、だ。
その時鷹は、それが何であるのか、やっと気が付いた。
ホッブスが話した、オリイの母親の亡くなった時の様子。長く伸びた髪は、死んだ夫の身体にこれでもかとばかりに巻き付いていた。
これで、俺の生気をも吸い取ってしまうというんだろうか?彼は考える。ほんの少しだけ、命が惜しい様な、気もした。
でもそれは気のせいだったらしい。
まあでもそれもいいさ。
彼は奇妙に乾いた意識の中でそう考える。
その黒い髪は、うねうねと動きながら、彼の身体に絡み付く。絡み付きながら、緩く締め付け、そして解き放ちながら、時には皮膚の上をただゆるゆると這いながら、微かな刺激を加えてゆく。指のすき間から、首の後ろから、腰の脇から、小さな刺激が、絶え間なく続けられる。
小さな火が、無数に自分の身体に点けられていくのを彼は感じた。何故か、気付かぬうちに食い荒らされてゆく蝶の幼生を彼は頭の中に思い描いていた。
こんなことは初めてだった。身体の中で、何かがうごめいている。
何処ともしれないその蠢きが、彼の中に熱を生みだす。そしてその熱が、彼にまた、触れている相手に、次第に強く跡を残させる。相手の指が、強く背を押さえる。
そして時折、相手はゆっくりと大きく息を漏らす。目を閉じて、顎を軽く天井に向けて、大きく、声も無く。
そしてその何度目かのため息は、彼によって塞がれていた。あの雨の中の様に、それは濡れている。
その唇が、ゆっくりと、動く。
『やっと』
真っ直ぐに。
『届いた』
響きわたる。
それは彼がまだ一度として、聞いたことの無い声だった。
『やっとあなたに告げられる』
頭の中に、その声が、ひどく鮮明に、響きわたる。
……何処だろう。
自分の居場所が何処だったのか、その時彼は判らなくなっているのに気付いた。
闇の中だった。
その中を、透明なエレヴェイタに乗って、降りていく。
降りていく。落ちていく。流れていく。伸ばした腕に、ゆっくりと密度の濃い水が流れていくような、そんな、冷たい、けれど柔らかな触感が、全身を包む。
指先まで、力が抜ける。
自分が何処に居るのか、判らなくなっていた。何をしていたのか、どうしようとしていたのか、そんなことが、意識の中から抜け落ちている。
それもまた、いいかもしれない。彼の頭をそんな乾いた感情が過ぎていく。
ふと、そんな彼の前に、相手の姿が浮かぶ。
闇の中であるというのに、その姿は白く、浮かび上がって見える。そして髪だけが、その闇と同じ色に濃い。闇に溶け込んで、何処から何処までが、相手の髪なのか、判らない。
その口が動く。
『ずっと、伝えたかった』
話せるじゃないか、と彼は顔を上げる。そして問う。話せるじゃないか?
『話せる。でも、こうしなくては、伝えることはできなかった』
こうする。どうすることだろう。彼は考える。今自分は何処に居る?何をしている?まるで想像もできない。ただ自分自身と、目の前にいる相手の姿しか、今の彼にとって確かなものはなかった。
『あなたが何であるか俺が知っているように、あなたも俺が何であるか知っている』
知ってる。そう知っているのだ。でも、そんなこと、大した問題ではない。
『こうしていると、あなたが知ってきたことが、伝わってくるよ』
生まれた場所が。生きてきた所が。出会ったひとが。
『……ああ、綺麗なひとだね』
呼ばれた様に、あの旧友の姿が浮かぶ。そう綺麗な奴だった。だけど。
『だけど、悲しいね。あなたを置いて、行ってしまったんだ』
……お前は。
彼は相手に向かって、つぶやく。
『俺だったら、そんなことしないのに』
白い腕が、ゆっくりと伸びる。
『あなたを離すなんてこと、決して、しないのに』
彼はその腕に引き寄せられるかのように近づいていく。その腕が、自分を抱きしめるのを感じる。
『あなた無しで、生きていこうなんて、決して思わないのに』
世界が、反転する。
目の裏に、明るい日射しを模した光景が浮かぶ。
耳の奥に、悲しげなメロディが、くぐもった音で飛び込んでくる。
色あせ、汚れたテントの中からその音楽は聞こえてくるのだ。
ざわめき。汗ばむ人々の熱気。笑い声。手には菓子が握られ、道には滴り落ちるジュースやアイスクリームの、粘りけのある染みがあちこちに生産される。
人々の体臭と、そんな甘すぎる程の菓子と、強烈な匂いのするサンドウィッチの匂いが混じり合った、その空間。今日の出し物は何だ?
人々は、文字が大きく描かれた垂れ幕が上がるのを心待ちにしている。専属の音楽団は決してあの放送に乗ってくる外のオーケストラのようには上手くないかもしれないが、ああそれでも心を打つはずだ。だって彼等の楽器はそう、何処か少し歪んでいる。
さあ皆さん、どうぞご覧下さい。当劇場の最大の出し物、美しい蛇姫の姿を。
よく通るというには少しかすれて気味の声が、マイクを通さずに会場に響きわたる。人々は固唾を呑んで、闇の色に染まった舞台を見つめる。
一度見たことがあるんだがね、これは凄いよ。そうだなあの女も綺麗だしな。お前そんなところしか見ていないのかよ。げらげらげら。
鳥打ち帽をかぶった男達が、互いの顔も見えない程の闇の中で、笑い合う。手にはとろりと甘辛いソースのついた肉饅頭。
女の姿が浮かび上がる。音楽が静かに始まる。
見た人を、全て石にしてしまうという女神の伝説が、そこでは語られる。
私が何をしたというのだろう、ただお前を愛したかっただけなのに。
女神に扮した女の髪は蛇。女が動くと、蛇もまたぬらぬらと動き出す。女が動かなくとも、蛇はその身体をゆらりとくねらせる。
嗚呼全天の創世者よ神よ生きとし生けるもの全てを生みだした彼方よ。如何なる星の下に、我を生まれさせ給うたか。
女の声が、朗々と響きわたる。観客はその女の姿に目を奪われる。
だがその女の視線は、不意に現実に戻った。
女の手が、舞台の流れとは、不自然に動いた。
蛇が、一斉に一つの方向に動いた。
そしてその蛇の皮を食い破って、何かが。
間に、合わない。
女の口から、叫び声が上がる。
それは黒い蜘蛛の巣の様だ、と舞台袖で作業をしていた男は思った。本能的に身体がすくみ、足が地面から離れない。
梁が落ちて来る。駄目だ、もう、間に合わない。
その蜘蛛の巣が、たとえそれを捕らえたとしても。
鈍い音が、響いた。
女はその瞬間、大気を切り裂く様な悲鳴を上げた。
嗚呼!
座長である自分の夫にすがりつき、その髪を大きく広げて、その身体をくるみこんだ。
どうぞお願いわたしの力を全てあげるからあなたは生きて。あなたの生がわたしの生。あなたが死ぬ時にはわたしが死ぬ時。わたしはまだまだあなたと幸せに生きていたいのに。お願い目を開けてお願いだからその目でもう一度わたしを見て。お願いだから。
だが男の瞳は開くことはない。女も次第に自分の視界が暗くなっていくのを感じる。
それでもわたしは幸せだったわ。
だってわたしは。
暗転。
「そなた達は」
何処とも知れない乾いた大地が、そこには広がっていた。年老い、髪も髭も白くなってしまった男は、風の強い、今にも雨が落ちてきそうな空の下でつぶやく。
「所詮生きるために、人間では無くなったものなのだ」
男のそばには、若い、黒い長い髪の女が居た。それは蛇姫の女と良く似ていた。そしてまた、誰かにもよく似ていた。女は首を軽くかしげると、鈴を振った様によく響く声で、男に問い返す。
「……あなた様のおっしゃることの意味はよく判りません」
「判らぬでもよい」
でも、と女は何かを言いたげに一歩、男の方へ踏み出す。
「わしはそなたの正体を知ったにも関わらず、それを認めてしまった。それが良いのか悪いのか、今のわしにはもうそれすらも判らぬ」
「悪いことなのでしょうか」
「悪いことだとは思いたくはない。だが」
「わたしはあなた様と出会えて幸せでございました。わたしにはそれで充分でございます」
「だがそなたは言った。そなたの命はわしと共にあると。わしは年老いた。既に昔の様に自由に動くことのできる身体ではない。やがて床について起きあがることもできなくなるだろう。そしてやがてそれすらもできなくなるのだ。そなたはそんなわしと共にあると言う。わしが死ぬ時に、そなたの生命も尽きるのだ、と言う。それで良いのか?そんな生物であることが、そなた達の幸せであるのか?」
「他の仲間のことはよく判りません。ですが宗主よ、わたしはあなた様に出会えて本当に幸せでした」
「子を為すこともなかった」
「それは結果に過ぎません」
「異種族としか、子孫を残せないのがそなた達の種族、マロードの宿命とは、何と切ないことだろう。何故にその様になってしまったのか。天に神がおわすなら、何故この種族にこの様な宿命をおわせ給う……」
「生きるためでした」
女は静かに言う。
「以前にも宗主にお話致しました様に、遠い昔、わたし達の祖先が遠い故郷から流れ着いた大地は、とても厳しい場所でした。大気すらも、わたし達には刺々しかったと言われております。しかしわたし達にはそこで生きていくしかなかった。ですからそこで生きていくためには、その地を支配する何かと次第に一つになることが必要でした。しかしその何か、はわたし達から明確な性別を奪いました。わたし達は子を為すことはできますが、為させることはできなくなりました。やがて最後の旧種が死の床についた時、その時がわたし達が惑星を捨てる合図だったのです」
「あの時が忘れられない。そなたを最初に召した時。あれは何であったのだろう? どんな女とも感じたことのない、最上の快楽がわしを襲った。だがその時に、そなたは、わしと自分自身の身体を作り替えていたのだな」
女は何も答えずに、微かな微笑を浮かべる。男は女を腕の中に引き寄せ、長い黒い髪を指に絡める。
「この長い髪が、わしの細胞の一つ一つにそなたの印を刻みつけていったのだ」
「わたしはあなた様のものです」
「そしてそなたはわしの細胞からその遺伝子の螺旋を自分の中に取り込んだ。そなたはわしの生気を取り込まないことには、その特別な力を使うこともできない。そして生きていくためにも。哀れな生物だ」
「そうでしょうか」
「哀れだ。わしはそなたに、生きていて欲しい。今まで出会った、どんな女よりも、そなたのことが愛しい。生きて、この惑星のこの先を見守って欲しい。だがそれは出来ぬと言うのだな」
「できません。わたしはあなたのものです。わたし達は、それをただ望んでいるのです。あなたを失って、どうして生きていられましょうか。胸が張り裂けましょう。叫びで喉は枯れ果てましょう。いえそれより先に、わたしの頭はきっと壊れてしまいましょう。宗主よあなた様はそんなわたしに、その先、その様になってまでわたしに生きていよとおっしゃるのですか」
「ああよく判った」
男にはよく判っていた。女の種族は、何かと結ばれることによって、その相手と同じだけの時間を生きるが、そうしないことには、長くは生きない。だが女を見た時には、そんなことは知らなかった。知らなくともよかった。ただこの女が欲しいと思った。かき抱いて、その長い髪を思うがままにその手に巻き付け、白い肌を貪りたかっただけだった。
だが歳月は、欲望をも愛着に変える。
「もっと長生きをする相手に出会っていればそなたも」
「わたしはあなた様と居られて幸せでした。それがわたしの真実でございます。他には何もありません。あなた様がわたしを選んでくだすった時、わたしもまた、あなた様を選んだのです」
暗転。
「昔むかしのお話よ」
蛇姫の女だった。舞台ではない。
ゆらゆらと、暖かい膝の感触。もたれた背には、柔らかい胸の。ああ、抱かれているんだ、と……は思う。
「覚えておいてね。だけど誰にも言うのではないわ。これは内緒なのよ。ずっとずっと昔から、わたし達の種族が、見てきたことよ」
ゆったりと、低い声で女は、……の耳に囁く。子守歌の様に、その言葉は甘く……の中に入り込む。
「覚えておいてね。いつか誰か、大切な人を見付けるの。そしてそのひとにだったら、自分の全てを差し出してもいいと思ったら、その時に、あなたは自分の身体の命じるままになさい。そしてそのひとを、全てのものから守ってあげて」
刻印される。
全身の細胞の一つ一つが、僅かに振動する様な気がする。
これは、繭だ。
黒い糸ですっぽりと覆われた繭の中で、身体は確実に変化してゆくのだ。
嫌い? と相手は訊ねた。
嫌いじゃない。嫌いだったら一緒に居ない。
好き? と相手はまた訊ねた。
好きだよ。だから一緒に居るんだ。
では。
相手は別の言葉を投げかけた。
彼は、言葉を探す。
その言葉を使うのかどうかは判らない。だけど俺は、お前とずっと一緒に居たいと思うよ。お前がその生命を終えるその瞬間まで、一緒に居てあげたいと思うよ。俺がいつか、流れていく時間の中で、やはりいつもの様に、置いて行かれるとしても。
すると白い腕が、するりと彼の身体をかき抱く。見上げる視線が、彼のそれと絡む。
置いてなんていかない。
聞き慣れない、けれど何処か懐かしい声が、彼の中に直接響く。
俺はあなたのものだから、あなたを置いていくなんてことはしない。だから。
瞳の中で、奇妙な形がゆらめく。
だから一緒に、行こう。
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