第28話 大きく響く雨の音
それからだ、と濡れて重みを持ったオリイの髪をかき上げながら彼は思う。
それから彼は、Secret Gardenのスカウトに応じたのだ。
決められた何かの元で働くことにずっと嫌気がさしていたのに、どういう風の吹き回しだろう、と自分でも思った。
定住する場所が欲しい訳ではなかった、と思う。はっきり言って、彼自身、そうしたいと思った本当の理由が判らないのだ。
そうするのは嫌がるのを判っていても、マルタを自分の部屋に呼んで、情報収集と、それ以外のことをする。
自分は何をやっているのだろう、と彼は思う。
そして、そんな自分を、この元被保護者は、どう見ているのだろうか、と。
だがその答えは、もう判っているのだ。
判ってはいるのだけど。
微かに見上げる視線が、一瞬だけ、あの奇妙な形を描き出す。
耳の中には、雨の音が、延々続いている。気の遠くなりそうな、一定の高さの音が、心地よい雑音となって、他の全ての音をかき消す。
髪の毛が、揺れた。服の裾のしわから手が離れた、と思うと、相手の腕が、自分の首に巻き付くのを彼は感じる。時々、相棒はこんなことをする。
意味は、判っているはずだ。何度も、何度も、そのたびに彼は訊ねた。答えは無い。だが、判っているはずだ。オリイはマルタをどんな目で見ている?
重ねた唇は、蒸留水の味がする。乾いていない。相手の腕に込められた力が、その熱さが、彼に相手の思いを伝えてくる。じっとりと、濡れた腕の水の、温度も上がっているだろう。
だから、その熱につられたのだ、と彼は頭の半分で弁解をする。
腕を回し、その腕に力を込めてしまった、自分について、彼はそう弁解をする。
そしてそんな彼の力に気付いたのか、相手はより一層の深さで、彼にそれ以上を、求めてくる。唇から離れた唇が、頬をたどり、耳の脇をかすめる。
だが、その時、目の前の黒髪が、瞬間的に、一つの映像を彼の中に映し出す。
彼は抱きしめていた手を外すと、相手の肩を掴み、ぐっと押し出す。髪から水滴が落ちる。唇が赤い。赤い。いつもよりずっと。ああとても綺麗だ。
だけど。
彼は、ひどく困惑した顔の相棒に向かって、ごめん、とつぶやいた。
相棒は、首を横に振る。手を取り、何故、と何度も書き付ける。
嫌い? と短い言葉が、殆ど叩きつけるような勢いでつづられる。嫌いじゃない、と彼は答える。何を言っている。嫌いだったら、今までずっと一緒に居る訳がない。
好き? と再びつづられる。好きだよと彼は答える。それも間違いじゃない。決して間違いではない。彼はこの相棒が、とても好きだった。居心地が良い。一緒にこんなに長い時間居る相手は初めてだ。
では、とオリイは別の単語をつづった。
そして鷹はそこで言葉に詰まった。
それは、彼が一度として、使ったことの無い言葉だったのだ。
あの、失った相手にも、そんな言葉は使ったことはない。ただの一人も、彼は、そんな言葉を口にしたことはないのだ。
いや口にしないだけではない。彼は思う。俺は誰かにそんな感情を本当に持ったことがあっただろうか?思わず左手で顔の半分を押さえる。無い。全く無い。本当に無いのだ。
相手の視線が突き刺さる。まるで咎めているようだ、と彼は思う。
わからない、と彼はつぶやいた。嘘、と相手はつづった。嘘ではない。彼は本当に、判らないのだ。その言葉の意味する感情が。
「嘘じゃない。俺は、判らないんだ」
オリイはその言葉に、目を軽く細めた。
ひどく、雨の音が鷹の耳の中には大きく響いた。
*
「どうしたの?」
サァラは食事の手を止めたディックに問いかける。
「え?」
「さっきからシチューがスプーンからこぼれおちてるわよ」
くすくす、と彼女は笑う。どうやら仕事のほうにはある程度きりがついた様で、彼女の表情はずいぶんと明るくなっていた。
「あれ?」
自分の皿は、彼女の半分も減ってはいなかった。ディックはそれに気付くと、慌ててかきこむように、シチューを口にする。
「やだ。そんながっつくもんじゃないわよ」
「じゃどうしろって言うんだよ」
「もう少し味わって食べてよ。久しぶりにちゃんとあたし、料理したんだから。冷蔵庫にはジェリーも作ってあるんだからね」
スプーンを振り回しながら彼女は言う。忙しくなると、彼女は料理もしなくなる。ディックも時々作るが、彼は彼で仕事が忙しいことが多いので、そうなるとどうしても、外食が多くなる。そんな二人にとって、部屋で二人揃ってとる食事の時間は貴重だった。
「はいはい。でも本当、これ美味しい。でもあまり食べたことが無い味だな。何処で習ったの? あそこで?」
「ううん、施設じゃない。何か、知ってたのよ。ぼんやりとだけどね。で、あとは味の記憶」
「へえ。そういう記憶ってのもあるんだ」
彼は感心した様にうなづく。やや黄色の濃いシチューの中には、色とりどりの野菜が、形をきっちり残して、だけど口に入るととろけるくらいに煮込まれている。
肉はほんの時々にしか口には当たらないが、それでも決して満足感が損なわれる訳ではない。そしてやや変わったスパイスの香りがする。
「うん。で、マーケットに行ったら、結構ここいらでも、欲しい材料……じゃないかな、ってのがたくさんあったから、じゃ、作ってみようかな、って思って」
「美味しいよ、これ」
「でしょ」
彼女はにっこりと笑う。
「うん。何か、『おふくろの味』って感じ」
「……じゃやっぱり、あたしこれお母さんから習ったのかなあ?」
お母さん、と彼は彼女の言葉を繰り返す。
「うん。何となく、ぼんやりとはあるんだけどね。こういう人じゃないか、っていうのは。お父さんは…… こっちは全く出てこないんだけど、やっぱりお母さんっていうのは違うのね。ぼんやりとは出てくるのよ。やっぱり黒い髪の毛だったな、とか、それをちゃんと毎日編んでいたな、とか……でもやっぱりその人の名前とかそういうのは判らないんだけど」
「探してみたい?」
んー、と彼女は首を傾ける。
「どうなのかな。今はどうなんだろ。そりゃ、会えたら会いたいとは思うけど」
「探してみようとは、思わない?」
「うん。まだ、早いと思う」
「早い?」
どう言ったらいいんだろ、とサァラはスプーンをくわえながら、再び首を傾げた。
「もしも、会っても、その時あたしがその人をお母さんって言えなかったら、何かやっぱり、悪いじゃない」
「きっと判るよ」
だが、サァラは首を横に振る。
「どうかしら。正直言って、あたしには自信が無いわ。あたしは自分が本当にサァラという人間なのかどうなのか、それすらもよく判っていないのよ。お母さんに会ったところで、本当にそれを実感できるのか、って……自信はないな」
「……そう」
「それより、ディック、あなた今何について調べてるんだった?確か、えーと……」
「LB社のことだけど」
「そう、そのLB社なんだけど、何か今、このルナパァク中のデザイン関係に手を染めてるひとに手当たり次第声をかけてるんだって」
「へえ?」
彼は食事を再開する。あまり冷めると、この類のシチューは少し固くなってしまうような気がするのだ。それは困る。だから彼はあいづちをうちながらせっせとスプーンを口に運ぶ。
「何で?」
「それがね、遊園地を、また再開させようっていうのよ!だから、その内部の改装に、トータルデザインを担当する人材が欲しいんだって」
「でもトータルだったら、お前の出番は無いだろ?」
「ううん、そうじゃないの。トータルはトータルで公募するんだけど、スタッフに関しては色々あるのよ。あたし、その中の映像関係に申し込もうと思うの」
へえ、と彼は目を丸くする。
「だけどお前、今抱えている仕事は大丈夫?」
「そっちは何とかなったわ。だけど、ここで、一つ大きな仕事に賭けてみたい、って気がするのよ。そうでなかったら、いつまでも、手間ばかりかかってそれでいて納得のいかないものでも間に合わせてしまうような、そういう感じの仕事ばかりをこなしてくばかりじゃない……」
ディックはスプーンを皿の上に下ろした。スプーンを守護体を持つように握りしめながらサァラは言葉をつなげた。
「それで、勝算はあるの?」
「無いわ」
きっぱりと彼女は言った。そして伏せていた目を大きく開く。
「だけど、条件は同じよ。この街に住むデザイン屋にとっては皆ね」
ディックはうなづく。弱気な時にはとことん弱気なのに、こういう所では強気だ。こうするしかない、と決めた時、彼女は強い。
「そうだな。だったら俺がどうこう言うことじゃない。がんばれよ」
「あ、そう言ってくれるの?」
「うん。実は今日、貫天楼の工事に行ってきたんだ」
「そんな所に入れたの!いいわね!で、どんな感じだったの?今回、そこだけはその公募の中には入って無いのよ」
「どんなって……」
彼は昼間の記憶を振り返る。
「何っていうんだろう…… 何か、眩暈がしたな」
「眩暈?」
「うん。何か、あれは、ひどく奇妙な感覚だった」
「外装はどうだったの?」
「外装はまだ。布の中だったらかね。内装は…… うん、綺麗だったな」
「……あなた物書きしてるくせに、表現力ないのね」
もっともだ、とディックは笑った。
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