第27話 バケツをひっくり返したような雨の日の記憶

 全く、と彼は思わず舌打ちをする。

 バケツをひっくり返したような雨が、その時の彼等に容赦なく襲いかかっていた。

 一つ一つの雨粒の直径は、きっとずいぶんと大きいだろう。その水の一粒が、シャツの袖に大きな丸い染みを作った時、嫌な予感がしたのだ。

 鷹は横のオリイをちら、と見ると駆け出す。彼の相棒も、すぐそれに続く。自分の駆ける速度に相手がついて来られることは彼は知っていた。

 雨は、彼等の居た「空扇閣」にも降り出していた。

 「空扇閣」は四大プレィ・パァクの中でも、「空」…… 屋外で、大気中を駆け抜けるような乗り物が揃っている様な場所だった。入り込むのは訳無かった。そこは使われていないからと言って、閉鎖されている訳でもない。

 特に、この空扇閣は、他の三つのプレィ・パァクと違って、屋外が基本であったので、そこに居住している者も少なかったのだ。

 ただ、そんな場所で雨に降られるのは最悪、ということは、鷹もよく知っていた。

 無論彼も、そんなつもりは無かったのだ。電視台の天気予報は、昼から雨と言っていたのだ。番狂わせは彼のせいではない。

 飛行機がさびついた回旋塔の横をすり抜け、白い木作りの長いコースターを横目に、彼等は走っていた。

 水滴が、髪を伝い、首筋を流れ、胸元に入っていくのが感じられる。あまりいい感触ではない。

 見上げる空は、それでもただ白い。何だったろう、と彼は、走りながら思う。走るしかないから、そんな時には、奇妙に、別のことが頭の中を駆け抜けていくのだ。

 こんな空を、見たことがある。

 耳には、雨の音と、自分の呼吸の音だけが飛び込む。

 ひびの入ったコンクリートのくぼみに、水たまりができている。無数の冠をその上に作り出している上を、足が無造作に蹴散らしていく。

 穴の開いた、元は黄色と赤だったらしい天幕の下に飛び込んだ時には、シャツはぴったりと肌にはりつき、その下の線をそのまま写しだしていた。

 仕方ないな、とつぶやきながら、鷹は髪をかき上げる。長くはないが、短かすぎもしない明るい茶色の髪は、水を跳ね上げる。顔がびしょ濡れだった。伝う水滴は、蒸留された味がする。

 ふと左横を見ると、相棒はシャツの端を絞っていた。黒い、ぴったりとした長袖のTシャツは、ずいぶんと吸水性に富んでいたらしい。見る間に、足下のコンクリートには黒い染みが広がる。

 どうもそこは切符売場の残骸の様だった。破れた天幕からは、時々溜まった水が一気に流れ落ちる。それはちょっとした滝の音を思い出させる。

 滝の音。白い空。

 そういえば、と鷹は相棒の濡れた髪を見ながら、幾つかの場面が頭の中を急ぎ足で駆け抜けていくのに気付く。

 相棒の濡れた髪は、服の水気を絞りとるのに精一杯な持ち主に忘れ去られているように彼には見えた。そして見えたから、不意に。

 その白い顔に貼り付くそれに、彼は手を伸ばしていた。

 指が頬に触れた時に、オリイはぴく、と顔を彼の方に向けた。

 ああこの目だ、と彼は思う。

 ほんの時々、相棒は、一瞬だけ、こんな目をする。何処か奇妙な形をした瞳。目の錯覚か、といつも思ってきた。思おうとしてきた。それは、相棒が変化しない種族であることを否定するものだったから。

 そしてそれだけではない。そうだこんな、空の白い日だった、と彼は記憶をとりまとめる。



 いくら彼が天使種だからと言って、全てが全て、調子が良いことばかりではない。例えば睡眠不足が続いたり、空腹や、乾きに苦しめられた後では、負傷した身体の再生は、そう簡単にはいかない。

 それは、熱帯の戦場だった。

 一日のうちで確実にひどく強い雨の降る時間帯が存在するような場所だった。草と言わず樹と言わず、とにかく植物という植物が、ありとあらゆる場所に、所狭しとその手を伸ばしているような場所だった。

 さすがの彼もかなり疲労していた。その時の彼の体力を奪ったのは、不眠だった。眠る間も無く、敵がいつ何処から来るか判らない状況だった。相棒は既に自分の側に居た。だがその頃はまだ、足手まといになるかならないか、という位だった。

 やっと伸びた背が、自分の肩を越すか越さないか、というところだった。

 そして、その頃も、今と同じくらいの髪の長さだった。

 鷹は相棒にも銃を持たせ、自分の身は守るように、と言い聞かせてあった。里親に引き取られることを強情なまでに拒否した時の条件だった。自分の身は自分で守れ。俺はお前を守る余裕は無いだろう。

 実際には、結構な割合で、彼は被保護者を守っては居た。だが無論オリイも、それではいけない、ということは気付いていたので、隠れろと言われた時には、呼吸の音もさせないように気をつかい、覚えろと言われた銃の分解と組立も必死で覚えた。撃った時の反動の散らし方も、いざという時の食料の調達法も、ナイフで敵を殺す時のポイントも、とにかく覚えられることは何でも吸収した。

 だが鷹は、一つだけ、自分が上手く教えられないものがあるのを知っていた。負傷の処置である。

 知らない訳ではない。だが彼は、それがどういうものなのか、上手く判っていなかったのだ。彼は天使種だった。多少のかすり傷なら見ている間に治る。腕を折ったり、切り付けられても、一定時間安静にしていれば、自分の中の何かが、自分を生かすために必死の働きをしてくれるはずだった。だから、彼には判らなかったのだ。

 無論形としては教えた。だがその口調に、普段自分が相棒に教えていること程の力はないことは、彼自身がよく知っていた。

 だからその時、それが、ひどく悔やまれた。

 血がなかなか止まらない。痛みは薬で散らそうと思えば散らせるが、そうしたら、この状況でいきなり敵が来た時に、とっさに動くことさえできなくなる。それだけは困る。

 雨が降り続いていた。彼等は絡み合う木々の中に身を隠していた。むせ返るような緑。濃いその匂い。時々行き過ぎる虫達。足下の土がずるり、と抜ける感触。

 木々が彼等の身体を、敵と、雨から守っていた。だがそれでも水は、時々彼等に降り注ぐ。そういう雨なのだ。蒸し暑い大気の水を溜めた重い雲が、その臨界点を越えた時に、一気にその中身を大地にぶちまける。そんな雨なのだ。

 自分が死ぬとは、それでも鷹は思ってはいなかった。ただ、時間が必要であることは、ひどくよく判っていた。腹に大きな穴が空いていたのだ。それを埋めるには、この体力では、確実にまる一日は必要だった。

 そして埋まったからと言って、すぐに本調子が出る訳ではないのだ。

 さすがに本気でやばい、と彼は思ったのだ。

 だから、太い蔓に全身を巻き付かれた、大きな樹の一本に身体を任せながら、彼は被保護者に言った。


 お前は早くここから逃げたほうがいいよ。


 だが相手は首を横に振った。髪から水滴が跳ねた。


 今の俺じゃ、何もできない。お前は一人で、自分の身を守ったほうがいい。


 だが相手は首をひたすら横に振るのだ。

 困ったね、と彼は苦笑した。そこで強く言うだけの気力すら、自分に無いことに、その時の彼は笑うしかなかった。

 だがその時、目の前の相手の瞳が、一瞬、見たこともない形に変わったように、見えた。

 目の錯覚だろう、と彼は思った。視界は決して良い訳ではない。

 それに、そんな形、見たことが無い。

 気がつくと、相手の手が、自分の頬に触れていた。黒い大きな瞳が、じっと自分を、泣きそうな顔で見ている。

 そしてその瞳が、ふっと閉ざされたと思うと。

 ……それまでも、決して全くそんなふうに触れ合ったことが無い訳ではない。だがそれは、朝起きた時におはようを言う程度のものだった。とても軽い、鳥がエサをくれる人間の手をつつく程度のものだった。

 だが、それは。

 自分の引き取った「子供」は、いつの間にか。

 視界の端に、見えた空は、白かった。


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