第一章 異世界生活一日目

第一話 ある大学生の話

 

  俺はいつも通り、お決まりの場所で四限の終わり、事実上の一日の終わりにゆったりしていた。


 大学の細長い廊下の隅も隅、大の大人が二人でいるには少しばかり狭苦しく感じる所で友人と駄弁っていたのだった。


 ✣


「――そ〜いえば君、進路とかってどうするの?」


「いや、どうって言われても、なぁ……」


 友人から話の脈絡を全く考えない質問を突然投げかけられ、困惑してしまう。

 返す言葉がすぐに出てこない、俺は確実にこわばった微笑でごまかす。


「あれかな、やっぱり就職かな? ま、君のその性格じゃあ到底無理だと思うけど」


「いや待て、無理なんていつどこで誰が決めたんだよっ!?」


「そ〜いうとこだよ〜。君の質問に答えるなら、いま、ここで、僕が決めたのさ!」


 くすくすと意地悪げに笑う友人に若干の苛立ちを覚える。


「なら、そんな返しをするお前も就職は到底無理だ」


 それに対して俺もオウムみたいに同じように返す。


「そうかもね〜。なら無理どうし仲良くやろ〜」


 そんな戯言ざれごとを重ねるやりとりをしつつ、肝心の回答を先延ばにしていく。

 別に答えないつもりでも答えたくないわけでもない。

 そこに未だ躊躇があったからこうしたまでのこと。


 この大学四年という学年になってから、就職なんて性に合わないと考えていた。

 やはり、客観的にもとなるとどうにもこうにも覆しようがないらしい。

 改めて一連の流れを回顧すると実に清々しいもので、ありとあらゆるものが吹っ切れた気がした。


 ならば、もう迷いもためらいもあろうはずがない。

 今後いかなることがあろうと、俺の心は壊せない。


 幼時から寸分の揺らぎなく、城石のように固めていた我が夢をこの親友に打ち明け申す。


「おほん。皆の衆、よく聞き給え! 我のかねてよりの野望を申すでな……」


 俺の深奥にある真剣さをくみ取ってか、友人のいつも和らいで見える表情が凛としたものへと瞬時に切り替わる。

 そして、実際は一人である衆が数人をかわるがわる演じ分け、擬似的衆人環視をつくりだす。


『傍から見たら一丁前に不審者だ』


 そんな様を横目に見ながら、すぅーっと大きく深く息をして整える。


「――我、即重版級の超人気小説家になる」


 陽が西へと傾くにつれ、妙に冷え冷えとして静まりかえる廊下。

 現在時刻は午後三時過ぎだが、秋という季節ゆえかもう冷え込んできて、人気はこの時間であるうえに五限真っ最中とあり全くない。

 そこに反響する俺なりに魂を込め、格好つけて出した声。


『これは、どうなんだ? 良いのか? 悪いのか?』


 間が怖くなってくるくらいの若干の時間差タイムラグのあと、


「……え、本気? いや〜、さすがに冗談だよね? 本気って言うなら、やっぱり君は面白い男だよ。こりゃ大言壮語ってやつだね!」


 親友くんがすっと口を開いた。

 その言葉に嫌悪感を抱いた俺は、思いを伝えるべく相手に重なるよう食い気味に言う。


「お前なぁ、大言壮語って。その言葉の使い方、違うからなァ! 正しくは、実力不相応な大口を叩くことを指す言葉だ。あしからず。あぁいいって、心配するな。俺には不安など微塵もない。我が天武の文才をもってすれば……って、き・い・て・る・か!!!」


 ………


 ……


 …


 その言葉を境に、鮮明だった意識がぷつりと切れる。


『ああ、さっきまでのどこか腹立たしい絡みがなくなった』


 どうやら五感が作用していないらしい。それなのに、なぜか心地良さを感じる。

 心に直接訴えかけてくる心地良さ。まっさらなキャンバスのような、汚れのない澄み切った心地。


 それに、やけに気だるけな昼食後の講義のゆっくりと時が流れていく感覚。

 まるで、悠久の時の中にでも呑み込まれてしまったかのような。


 ――この心地良さに、蝕まれ、何も出来ず、ただ、堕ちていく


 ――意識が、徐々に、底へ、ゆっくりと、堕ちていく


 ん!? これは、俺の置かれているこの状況は……


 一体全体、なんなんだッ!?


 俺の心中はそんな疑問に一気に満たされる。

 しかし、


『こんなことで終わる俺ではない』


『俺は超人気小説家になるんだ』


 俺の圧倒的な自己愛と一度決めたらぶらさない頑固さは絶大だった。

 深く暗く何もない意識の海原の底から足掻きながらも這い上がり、俺は正常な意識を取り戻した。


 意識を取り戻した勢いに乗り、この状況の不可解さとそれが内包する恐ろしさからどうにかこうにか逃れようとするが、俺には為す術もない。


 ひとまず周囲の状況を把握するために全神経を集中させ、よく耳を澄ましてみる。

 当然、耳を澄ましたところで何も聞こえやしない。


 が、鼓膜が微弱な音が飛び交い、網膜が光子が宙を舞うのを感じ取っている。

 とてもゆっくりではあるが、徐々に感覚が戻り始めているらしい。


 これは、俺にとって大きな収穫だった。


 ✣


 俺の感覚がほとんど戻ったと解ったのは、触覚が戻った時だった。


 俺は生まれつき他人と比べて、どうも触覚が鈍いようで、肩をつんつんされて振り向くと頬をぷにっとされるやつが効かなかった。

 弱い力でギリギリを狙う悪戯らしいが、強くしすぎることはできなかったとクラスのやつらは言っていた。


 そんな俺でもなにかを感じ取れたということは、ほとんど感覚が戻ったと言える。




 そんな俺の触覚が感じ取ったのは、かけ布団だった――


 変なものでなくて嬉しいはずなのに、妙に悲愴感たっぷりの俺であった。

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