9話 邪教徒キシュリー


 なんだか柔らかい感触がする。

 朦朧もうろうとする意識の中で、俺はそんなことを考えていた。


 ずっと身を任せていたくなるような、暖かい感覚。


 できるならば、ずっとこのままで――


「……はっ⁉」


 そのとき、俺の意識が覚醒する。

 目だけを動かして周囲を見渡すと、そこは薄暗い地下室だった。いや――壁の一面に鉄格子てつごうしがはめられているのを見るに、ここは地下牢のようだ。


 俺の体は、鎖でぐるぐる巻きにされていた。もとは魔法によって拘束されていたはずだが、魔法には持続時間があるので、その効果が切れるまえに鎖で俺の体を縛ったのだろう。


 ――と、そこで俺は、先ほど感じていた柔らかい感触について思いだす。


 その感触は、いまもまだ続いていた。そう、俺の顔にあたる、この感じは……


「お目覚めですか、パンツォロッソさま」

「ほげらっちょ⁉」


 いきなり話しかけられて、俺は簀巻すまきにされた体勢のままゴロゴロと転がる。そのまま鉄格子にぶつかり、俺は動きを止めた。


 心臓がバクバクと鳴っている。


 おそるおそる、俺が声のしたほうを向くと……


 そこには、ひとりの少女が正座していた。


 腰あたりまで伸びる、つやのある黒髪。うれいを帯びた、物静かなまなざし。派手さこそないものの、その雰囲気からは澄んだ湖のような印象が感じられた。


 彼女の首からは、装飾具アクセサリーがぶら下がっている。そして、よく見ると、彼女の修道服にも同じマークが刻印されていた。


「あ、あんたは……?」

「わたしはキシュリーと申します、パンツォロッソさま」


 彼女は正座をしたままうやうやしく頭を下げる。


 ――理解が追いつかない。俺が先ほど感じていた柔らかい感触は、まさか……?


「ジョージ神官の魔法がパンツォロッソさまにぶつかる寸前、わたしのスキルでダメージを相殺しました。幸いにも、それが周囲に露見することはなく……私はそのまま、邪教徒を投獄する、といったていで、パンツォロッソさまを教会の地下にあるこの牢まで運んできた次第にございます」

「え……?」

「鎖については、周囲の信徒の目もあったため、仕方なく……。すぐに解かせていただきますね」

「う、うん?」

「いまは、夜中の二時です。教会の者たちはみな寝静まりました。いまなら、誰も見ていない……さぁパンツォロッソさま、わたしと一緒に脱出しましょう!」


 キシュリーと名乗った少女は、正座を解いて俺に思いきり顔を近づけてくる。


 俺は彼女の真剣なまなざしにたじろぎながらも、


「な、なぁ。だからあんた、何者なんだよ? それに、パンツォロッソさまって」


 と尋ねた。


 キシュリーはそこで我にかえったように俺から顔を離すと、ふたたび正座する。そしてよく通る声で、言った。


「失礼しました。わたしは、表向きはこの『ヌドンド大聖堂』の修道女……しかしその真の顔は、『悪魔パンツォロッソ』を信仰する異教徒にございます」


 彼女は首から下げた「逆三角形」の装飾品アクセサリーを手でもてあそぶ。


 ――そう。逆三角形。


 昼間に対峙した大神官ジョージが身につけていたのは、三角形の装飾品アクセサリーだった。その逆向きということは、すなわち、女神に反する信仰と思想をこの少女が持っているということだ。


 いま、この少女は自らのことを「異教徒」と称したが……ぶっちゃけた言い方をすると、彼女は「邪教徒」なのだ。


「…………」


 俺はいまさらながらに、自分のしたことを後悔する。


 ――ノリで悪魔を自称してたら、マジモンの人がきちゃったよ。


 どうやら彼女は、俺を本物の「悪魔パンツォロッソ」だと思い込んでいるらしい。


 自分が信仰する悪魔が目の前に現れたもんだから、舞い上がっているのだ。


 助けてくれたのはありがたいが、面倒なことになった。


 たぶん無理だとは思うが、いちおう誤解は解いておくか。


「ええと、俺がパンツォロッソだってのは、実は嘘で……」

「お隠しになられなくても結構です! あなたは、まぎれもなく悪魔パンツォロッソ……『その者、パンツ一丁にて、地底より現れり。病に伏したる乙女の生き血をすする』と、経典にも書いてあります!」


 誰だよそんなもん書いたの。


 生き血をすする以外、登場シーンが一致しちまったじゃねぇか。


 そりゃあ、この子が誤解するのもうなずける。


「うーん、脱出の手助けをしてくれるってのはありがたいけど……たぶん俺ひとりでも大丈夫だぞ?」


 俺は体の調子を確認すると、特殊スキル「裸の王様」を使用して透明化する。――よかった、ちゃんとスキルが使える状態に戻っている。


 カラン、と乾いた音をたてて、俺を縛っていた鎖が床に転がった。「裸の王様」は透明化のほかに「物質を透過する能力」もあるので、それを使用した俺の前では、こんな拘束など無意味ということだ。


 このスキルを使えば、脱出などたやすい。鉄格子だって難なくすり抜けられるし――たとえ監視の人間がいたとしても、誰の目にとまることもなく外に出られるだろう。


 俺は一旦「裸の王様」を解除して、キシュリーを見据える。


「ってわけで、ほら。俺には透明化の能力があるんだ。俺はこれで脱出する。……ってか、さすがにこの能力は経典とやらにも書いてなかっただろ? だから俺は、パンツォロッソじゃな――」

「す、凄い……! 経典にも、そんな御業みわざは記されておりませんでした。この三百年の間に、さらなる力を手に入れられたようですね……!」

「うん?」


 なんかめんどくさい解釈をはじめちゃったよ、この子。


 たぶん国語とかで作者の気持ちを考えるのが苦手なタイプなんだな。


「わたしの手引きなど不要ということは理解いたしました。ですが、そのうえで、お願いしたいことがございます」

「お願い?」

「はい。――わたしを、パンツォロッソさまの眷属けんぞくにしていただきたいのです」


 彼女は本気だった。


 その黒い瞳のなかに、ただならぬ意志が揺らめいている。


「……わたしは。わたしは、敬虔けいけんな三角教徒の家に生まれました。父や母は善良な人間でしたが、戒律に厳しく、わたしは常に息苦しさを感じながら生きてきました」


 なんかシリアスな独白が始まってしまった。


 ちなみに、三角教というのはこの世界で信仰されている宗教のことである。俺が昼間に出会った神父や修道女は、みな三角教の人間だった。


「三角教では、禁欲が美徳とされています。とくに、その……男女関係においては、交際していない者同士が手を繋ぐことすら禁止されていて。わたしはその戒律を守りながらも、もやもやした気持ちで日々を過ごしておりました」


 そうか、大変だったんだな。


 俺はべつに禁止されてなくても女子と手を繋いだことはないが。


「そんなときに出会ったのが、悪魔パンツォロッソさまをあがめる者たちが書いた『経典』です。――その書物は、ヌドンド河のほとりに打ち捨てられていました。二年前のわたしは、なんとなくでその書物を拾い、中を見て……衝撃に打ち震えたのです!」


 興奮気味に、キシュリーは言った。


「なんと、そこにはパンツ一丁の男性の姿が描かれているではありませんか! わたしはそれを見た瞬間、雷に打たれたような感覚を覚えました! そう――わたしのもやもやした気持ちを晴らしてくれるのは、三角教ではなく、この悪魔であると! それ以来、わたしは裏で悪魔パンツォロッソさまを崇めてきました。三角教にそむく『逆三角』の装飾具アクセサリーをひっそり身につけるなどして」


 そして最後に、清楚系邪教シスターは食い入るように俺を見つめてくる。


「わたしを連れていってください、パンツォロッソさま。もっと自由で、開放的な世界へと」

「お、おう」


 俺は一歩あとずさりながらも、考える。


 つまりはアレだ。


 この子は、悶々もんもんとした思春期に、河原で拾ったエロ本に感化されてしまったのだ。


 俺にもそういう経験があるから、わかる。うん、なんか特別な感じがするよね。河原で拾ったエロ本って。それこそ文字通り、背徳的というかさ。


 わかるー。


 …………。


「いやわかんねぇよ!」

「へっ⁉」


 セルフノリツッコミをしたあと、俺はキシュリーへとまくしたてる。


「なに邪教の経典に興奮してんだよ⁉ 好奇心旺盛な男子中学生でもそんなことにならんわ! このド変態!」

「あぁ~、もっと言ってください」

「火に油だった⁉」


 なんだかキシュリーを余計に燃え上がらせてしまったようだ。


 ――もういっそのこと、無言でこいつを置いて出ていったほうがマシだろう。


 そう考えて、俺が「裸の王様」を発動しようとした瞬間。



 コツリ、コツリと、靴の音が聞こえてきた。


 牢屋の外の通路に、誰かがいる。足音から察するに、その人物はまっすぐこちらに向かってきているようだ。


「あっ! 危ない、パンツォロッソさま!」


 キシュリーが叫び、俺を抱きかかえてうずくまる。


 先ほども感じた柔らかい感触が、俺の顔に当たる。その優しい暴力に意識が飛びそうになったが、俺はなんとかこらえ、キシュリーへとささやきかけた。


「(おい、べつに看守が来たからって、俺を隠す意味はねぇだろ! ってかむしろあんたが牢の中にいるほうが怪しまれるんじゃねぇか⁉)」

「(ああ、確かにそうですね! では、パンツォロッソさまがわたしの姿を隠すという方向で!)」

「(分かった!)」


 そうして一瞬にしてお互いのポジションを組みかえる。


 今度は俺がキシュリーの上に覆いかぶさり、彼女を隠すような体勢になった。


 ――あれ?


 よく考えると、俺がこいつをかばってやる必要はないのか。


 とか考えていると、そこで聞こえていた足音が止まった。


 足音の主が、牢屋の前にたどり着いたのである。


 俺はおそるおそる顔を上げて、そいつを見る。


「……え? あんたは――」


 そこに立っていたのは、予想外の人物であった。


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