鹿と女郎花

深恵 遊子

鹿と女郎花


 いずれ僕は君に刺される。

 いや、優しい君だからそんなことはしないか。僕を苛烈に振って、僕よりも素晴らしい人と結ばれるのだろう。

 妻こふる鹿ぞ鳴くなる女郎花おのが住む野の花と知らずや。

 どちらにせよ君は僕から遠く離れて行ってしまう。そんな変な確信が僕にはあった。

 罪悪感とでもいうべきだろうか。君と付き合うことになってから心のどこかに付き纏う心の澱。いつも一人になるとそれが疼くのだ。

 僕は知っていた。

 それを単純接触効果と呼ぶのだと。

 僕は知っていた。

 それが僕から明示的に行われる好意的な行動に対する返報性なのだと。

 僕は知っていた。

 それが親に向けることのできない愛着行動への代償行為なのだと。

 僕は知っていた。

 僕が君を自らの傷からの脱却のために利用していたことを。

 僕は知っていた。

 僕が意識して君に過去の恥ずかしい行動を話していたことを。

 僕は知っていた。

 僕が意図してマインドコントロールの手法を君に対して行使していたことを。

 この気持ちが知ったかぶりの知識を実際に使ってあまりにうまくいったから捨てられるのが怖くなっただけなのか、はたまたそれ以外なのか僕にはもうわからなくなってしまった。


「君はかわいい人だな」

「君のそういうところが好きだ」


 そう甘く口にするその瞬間にも、僕は君を見失う。

 知ってしまったことの代償にこうも恋とは怖くなるのか。人の心理なんて学ばなければよかったのだ。手ひどい別れを経験したあまりに無知な僕。理解の難しい他人という存在を理解しようと、理解できると思ってその学問に手を伸ばした。

 傲慢だ。傲慢にも程がある。

 かつていろんな人にその言葉を向けられた。きっとその通りなのだ。

 ゆるして欲しいとは思わない。

 ただ、教えて欲しいのだ。生まれてこの方、人の世から離れた場所ではりつけにされ続けたこの身をどうやっておろせばいいのかを。



「——ちょっと、先輩?」


 突然、声をかけられてびくりと体が跳ねる。

 喫茶店の二人席。テーブルを挟んでその向こう側に座る女の子がむくれている。

 鹿香奈。

 神に愛されているのか愛されていないのか。一度も正しく名前を呼ばれたことのないと嘆くその名前の読みは少しばかり特殊だ。

 鹿と書いて『ろく』と読み、香奈と書いて『かんな』と読む。十中八九、はじめて会う人には「しかさん」「かなちゃん」と呼ばれてきたから多少名前にコンプレックスがあるらしい。時々、彼女は平凡極まりない僕の名前を羨ましがった。

 彼女とは元々サークルの先輩後輩の関係。学科が同じだからと頻繁に飯を共にしているうちにいつのまにか妹背、いわゆる恋仲になっていた。いや、いつの間にという表現は正しくあるまい。軽い人間を当初装っていた僕は、ある日「君って好みの顔をしているんだよな」と盛大に口を滑らせただけだ。

 当時、すごくからかわれたことは言うまでもない。

 モスグリーンのモッズコートに、ドロップショルダー風に作られたハイネック部分の黒とワイシャツ部分の赤が作るコントラストが美しいシャツ。ボトムスには黒いチノパンを履いていて、どちらかというと硬い印象のある姿。

 吊りがちだがパッチリとした目の周りには歌舞伎の隈取りを彷彿とさせる赤いアイシャドウが主張している。最近流行りのメンヘラメイクというやつらしい。ブルベがどうだとか、チークの発色がどうだとか、化粧というのはよくわからない。今日はオレンジのチークをつけてきたと言っていたが、よく君が口にしているリップとやらがチークとやらとどれほど違うか僕にはかけらも分かっていないというのに、よく飽きず聞かせられるものだ。わかっていない、ということがわからない君でもあるまいに。

 ああ、でも、

 その凛とした格好は好みだ。

 彼女が僕の好みに合わせてその格好をしてくれているのは重々承知している。そのために慣れないファッションをこねくり回したこともわかっている。普段、どちらかというと体型を出さない、そう『羊』を彷彿とさせるような服装をしていることを考えるとこの格好は彼女にとって冒険に等しい格好だ。今はなんというか鹿のような服装なのだ。

 決して彼女自身は口にはしないがいじらしい努力と奮闘がこの姿にはあるのだろう。


「やっぱり君は、本当に可愛らしい人だね」

「はあ!? やっぱり人の話を聞いてない!!」


 己の手元を見やるとコーヒーカップの液面から靡いていた煙はすでに絶えている。

 もう随分と考えに耽っていたらしい。鹿のような彼女の目が苛立ちに揺れている。


「悪かった。少し呆としていたんだ」

「先輩はいつもそれなんですから」

「……それで何の話だったかな」


 もう、とか何とか言って香奈かんなは携帯を差し出す。


「これですよ。なんか、近くの植物園で和楽器の演奏会があるらしくて」

「へえ、どこの流派なんだろう。和楽器演奏にしても邦楽ほうがく三曲さんきょくか。まあ、尺八がなくてもことはあるだろうからどっちにしろそれなりに楽しめそうかな」

「喜んでもらえて嬉しいです。それと、あー、流派、ですか? ホームページには外山とざん流の宮本みやもと鷹山ようざんさんが、とは書いてるみたいですけど」


 あらま。

 往田いくた流総本山の出奔息子じゃないか。思わず奏者に目を通すと宮本の名前がもう一つあった。宗家に嫌気がさしてなんて話は聞いてたけれどいつのまに和解したのか。


「ということは宮本社みやもとしゃの箏と一緒に演奏しそうだ。それと宮本みやもと検校けんぎょうの楽曲がメインに据えられるだろうね。少なくとも一曲は代表作として東のうみとかデビュー作だから風の変様へんようあたりとか」

「へえ、そうなんですね」


 香奈は手元のティーラテをストローで吸いながらそう言う。その顔は少しだけ、どこか楽しげだ。


「あ、ごめん、喋りすぎた」

「いいですよ。私は先輩が楽しそうにしてる姿は好きですから」


 そうニコニコして言って僕の顔を覗き込む。思わず、目をそらしてしまった。そういう屈託ないのは苦手だ。


「じゃあ、自由入場みたいですし今から行っちゃいましょう」

「そうだね、それがいい」


 ぬるくなったコーヒーを飲み干して僕は席を立った。



 寺の前を通り過ぎ、川のせせらぎを聴きながら道を抜けていく。香奈は僕の後ろをちょこちょこと歩いて花やら落ち葉やらを見てはニコニコしている。その姿に一抹の不安を覚えて手を伸ばす。

 それを見た香奈が腕に抱きつくようにして握ってくる。

 子鹿を見るような気分が胸を満たす。当の本人は嬉しそうにニコニコしているだけだ。


「先輩、イヌタデです! こっちにはオミナエシですよ!」

「ひょろひょろと、なおつゆけしや、女郎花、か」

「ほえ、芭蕉ですか? それよりも先輩は『吹かるるや』が好きだと思ってました」

「まさか、薄の中から一輪女郎花が見えるのは綺麗だとは思うが、子規でオミナエシなら『若君は』が一番だよ」

「あー、先輩は後輩が嫌がってるところ見て喜びますもんね。馬車に踏まれても咲く花とか好きそうです」

「いや、この句は日光旅行を共にしたお偉いさんを詠んだ歌でだね。若君が駕籠かごに乗っていて足元にはオミナエシがそれに付き従うように広がっている。花を己に重ねて、」

「いいです。知ってて言ってます」

「ああ、そうなんだ……」


 僕を罵りたかっただけか。全くそういうところだけは憎たらしい。


「オミナエシで和歌なら『女郎花盛りの色を見るからに』でしょうか」

「その句を挙げるなら君は『露のわきける身こそ知らるれ』と下句に詠んだ紫式部から助走をつけて殴られるべきだよ」

「でも、当時の化粧が白粉と紅だけだったことを考えると、今の美意識的には紫式部も多分綺麗ですよ。彼女はブルベです。おまけに鼻は高いし、お目目はぱっちりに違いありません」

「何を根拠に」

「彼女が唯一ブサイクに描いた『末摘花』がそんな姿じゃないですか。当時の女性では考えられないくらい痩せてて、顔は青白く、おまけに鷲鼻わしばなです」

あかはなはどうなのかな。毛細血管拡張症って化粧で隠せるのかい?」

「先輩、鼻の先が赤いのは今ちょうど韓国発信で流行ってます。赤みがあるくらいにすれば多分いいです」

「……そ、そうなんだ。しかし、これだけ当時的には不美人に書いといてなんで髪は綺麗とか言い出したのかな」

「容姿ではそこだけが作者の自慢だったんですよ、きっと」


 まあ、彼女の場合、当時においては容姿の美はさることながらもう一つの美であるところの『知性』というのも常識知らずな一面から現れず不美人の名を欲しいがままにしているようだが、案外現代では本当に美人なのかもしれないな。


「先輩なら和歌で何を挙げますか?」

「あー、『妻……』、いや、『が秋にあらぬものゆゑ女郎花』、」

「『なぞ色にいでてまだきうつろふ』。紀貫之きのつらゆきですね。先輩、最近誰かに振られたんですか?」

「一昨年の冬に俺のさらに二つ上の先輩から。クリスマス前に付き合い始めてできた初めての彼女。その年の大晦日に別れた。原因は先輩の不倫だよ」

「うわ、重っ。その話、まだ続きます?」

「続かないから。そのままうちのサークルから先輩がフェードアウトして話はそれで終わり」


 君から聞いたんだろうに。失礼な。


「そういえば、先輩の恋愛遍歴聞いたことなかったですね。『講義でふざけすぎて教授に睨まれた』みたいな話は聞かなくてもするのになんでですか?」

「そりゃ、誰だって自分がアクセサリー替わりにされてるって知ったら嫌だし、そのことにはあんまり触れたくないじゃないか」

「まだ、その先輩のこと好きだったりとかだったりして」

「ないね。あの人は狐みたいな人だから。あの時のは若気の至りとか気の迷いとかいう類のものだよ」


 僕の辟易とした顔を見て何を喜ぶやら、彼女は僕の顔をやけに明るい顔で覗き込むと、


「じゃあ、私は動物にたとえるとなんですか?」

「む、……鹿だよ」

「ほお、鹿ですか。——って、苗字まんまじゃないですか!」

「一応、理由がなくはないけど」

「なんでしたっけ、私がサークル入ったばっかりの時も、確か最初の歌合で詠んでましたよね。鹿の歌」

「ばっか、それは忘れてくれって前にも言っただろ!?」

「『あをによし鹿の遠音に思ひよるあくるかどさえなきと思えば』でしたっけ? 周りの先輩方が苦笑いしてたのってもしかして元カノさんを詠ってました?」

「うるさいな、そんなところだよ。一年がかりでもう恋の歌を詠まないぞと決心つけた記念の日だったんだから」

「うわぁ、しかもフラれたこと一年も引き摺ってたんだ。それちょっとキモいです」


 悪かったね。

 柄でもなくむくれる僕に彼女はクスクスと笑う。


「安心しました。先輩は先輩ですね」

「何が?」

「あ、アレじゃないですか!? ちょっと笛の音っぽいのが聞こえてます」


 耳を澄ませると確かに尺八のメロディが聞こえてきていた。でもしかし、この曲は、


「外山流で金孤きんこの秘曲? 鹿の鎮音しずねとか……変え指使っても金孤の華やかな音色ありきだからあんまり良くないんじゃ」


 鹿の鳴き声を模したその曲は聞くもの全てに尺八六百年の歴史を感じさせる。特に金孤尺八の元祖たる流派から脈々と受け継がれてきたその音は他の流派では真似できない厚みを曲に与えるのである。

 それは戦後に普及し、まだ若い外山では真似できない音だ。


「……かなり吹き込んでる。そういえば、宮本検校は外山の初代と仲が良かったことで知られてて忘れがちだけど、彼自身は金孤の流れを汲んでるんだったね」


 となると、元々鷹山は金孤の尺八を吹いていたか。あるいはこの日のために金孤の奏者に指導してもらったのか。

 どちらにせよ、彼の吹く鹿の鎮音は金孤のものに近い音色をしてる。

 華やかで、それでいて重みがあって厚い。金の箔を貼り付けたような音。御堂で聞く鈴にも似た竹の震える音は庭園へと寂しげに響き渡る。

 タイトルでいうところの鎮音とは遠くから響く鹿の遠鳴きの声。鹿の鳴き声には近音、中音、遠音と三種類あるそうだが、この曲はその中でも遠音、とりわけ遠くにいる番の牡鹿と牝鹿が呼び合う様を尺八の掛け合いで表現する曲である。今は独奏であるから一本の竹でそれを表現するのだ。それがどれほどの技巧であるのか筆舌にしがたいものだ。

 

「よくわからないけど綺麗な音ですね」

「茶室の外なのにここまで綺麗に聞こえるのなら、少し近くを見て回ろうか」


 屋外であってもこれほどまで強弱をはっきりさせ、外山でありながら金孤の曲を成立させる。それがどれだけ難しいか、こればかりは吹くものにしかわからない。

 わからないがわからないなりに、胸に刻み付ける。これがいつか何かの糧となるように。


「先輩、こっちのモミジ綺麗ですよ!」

「ああ」

「今のこの曲、鹿の曲なんですよね?」

「そうだね。鹿の鳴き声、遠くにいる番を呼ぶ声だって言われてる」

「だったら、ちょうどですね! 鹿といえば紅葉ですから!」

「……それは花札だよ。あるいは世話浄瑠璃の『十三鐘』。鹿を殺してしまった少年が生き埋めにされた穴。その上に紅葉もみじを植たというお話。うちの文藝サークル所属なら紅葉の根元に見える萩に食いついて欲しかったかな」

「そういえば、鹿と萩ってよく和歌ではセットで見かけますよね。あれ、なんでですか?」

「はあ、まったく。……それらは夫婦めおとの関係なんだよ。片方があったらもう片方もいた方が座りがいい。昔からそんな関係とされてきたのさ」


 「だから、君のことが心配なのだ」とは心の中だけで呟いた。そんなこと言ったってなんの意味もないことだったから。

 時間は過ぎる。

 外山本曲の「紅葉こうよう」、同じく「秋風唄しゅうふうばい」、宮本の「東の湖」、「秋の清風」と続き日も暮れ行った。

 尺八の音はいつのまにか聞こえなくなっていた。人の影はなくなり閉園を迎える。

 そして二人きり、手を絡めあって歩く。せせらぎを聴きながら来た道を帰るのだ。


「そういえば先輩」

「ん? なにかな」

「結構前、私の名前の話をしたときに秋になるとカリンは実をつけて、それがとてもいい香りがするんだ、って言ってたじゃないですか」

「よく覚えてるね、そんなこと」


 彼女の名前は鹿香奈。

 奈とは香りの立つ木を指し、カリンを指すと言われている。だから、鹿の香る花梨カリンという名前全体で美しい絵を作り出している君の名前は我が和歌俳句文藝サークルに向いていると、彼女をそう口説き落としたのだった。そのときにカリンの話をした。

 カリンは春に花をつけ夏に実が生り、秋に収穫を迎える。

 原産地であるところの中国では香りのいい木瓜ぼっか、香木瓜とも呼ばれる。また、日本では唐を原産とするものであるから唐梨とも呼ばれる。

 そう説明すると香りを知りたいと駄々をこねられたのだ。

 ああ、そういえばそうだ。そんな約束もしていた。


「今日の植物園にもありましたか?」

「いや、あそこにはなかったけど……そうだな」


 鼻にすっきりとした香りを感じる。目を彷徨わせると木の影の中に黄色い果実。


「ああ、あった」

「え、どれですかどれですか!?」


 僕は無言で指を刺すけれどどこかわからないらしい。僕は肩越しに花梨を見て、彼女の両頬に手を乗せ顔を向ける。瞬間、豊潤な香りが漂って首を竦ませてしまう。視界のすぐそばにあるつんとすまして鎮座した形のいい耳が憎らしい。

 軽く息を吐いて息を整え、言葉を押し出した。


「あの黄色いのがそう」

「へえ、あんな形してるんですね。マンゴーとかに近いような?」


 香奈は僕から離れ興味深げに近づくと、くんくんと鼻をひくつかせた。


「んー、よくわからないですね。森の匂いの中にちょっとだけ甘いような果物の匂いがするような気が?」

「はあ、それはお前が香水をつけてるからだ」

「え? 先輩、今日つけてきてないですよ」


 びっくりしたように自分の匂いを嗅ぎ出す香奈と微妙に引きつる僕の頬。

 やってしまった。

 これはまた振られたな。終わりだ終わり。

 いつもさりげに気にしてた『妻こふる鹿ぞ鳴くなる女郎花おのが住む野の花と知らずや』とばかりにお似合いの人見つけちゃうんでしょうね。知ってましたよ。


「なんか、匂いました?」

「ごめん、気のせいかも。あるいはシャンプーか柔軟剤」

「そうなのかな。まあ、いいですけど」


 ……あれ、キモいとか重いとか今回は言わないのか。


「花梨こんな匂いをしてるんですね。名前に入ってたのに知りませんでした!」


 ましてや、教えてくれてありがとうございますとニコニコしている。

 これは、あれか。何かを失敗したというわけではないらしい。


「——そういえば、思い出しついでなんですけど」

「なにかな。今ちょっと気持ちが晴れやかだからなんでも聞いて」

「先輩、さっきこの道で女郎花の歌で好きなの聞いた時、『妻』って言いかけてましたよね」

「……そうだったかな?」

「ええ。それで調べてみたんですけど、先輩が言おうとした歌ってこれですか?」


 差し出された画面には僕の頭の中にある歌と一緒で。


「で、これ読んで思ったんですけど」


 ああ。

 この聡い後輩は気づいたのだとそこで僕の方も気がついた。確かに今日はその話題に触れることが多かった。

 だから多分、彼女は答え合わせができるほど自分の中の疑問を形作れてしまったのだ。


「先輩、私のこと不安ですか? その歌をなぞるように先輩の先輩みたく先輩から私が離れていきそうで 」

「…………」

「沈黙は肯定ですよ、先輩。全く、彼女を疑うなんて彼氏失格ですよ。そんな他にいい男がいてそいつのほうに行くんじゃないか、とか先輩のキャラじゃないですもん」

「悪かったね、僕のキャラに合わなくて。でも、僕はそんな立派な人間じゃないからすぐ愛想を尽かされちゃうんじゃないかな、って思うくらい許してくれよ」

「私がどこか行くと思ってるんですか? 新しい環境に緊張している私をあちこち連れ回してくれたのは先輩だし、うちの親の話を笑ってくれたのも先輩だし、泣いてる時は黙ってそばにいてくれて、泣き止んだところに冷たいスポーツドリンクを持ってきて目を冷やしてくれるのも先輩でした」

「え、あ、うん」


 そう捲し立てる口調は段々と荒くなり、怒りを帯びてくる。気圧された僕はなにも言い返せない。


「私は一目惚れしてずっと先輩のことが好きなのに、いつか萩原って苗字になれればいいなって思ってきたのに、先輩はその気持ちを疑ってたわけですね」


 ……ひとめぼれ?

 いや、まって、僕それ知らない。


「怒りました。これはおこです。激おこです。絶対に許してあげません」

「えっと、ごめん?」

「知りません」


 ぷいとそっぽを向くと、鹿のような首筋が綺麗で頬が思わず緩む、じゃなくて!


「あー、悪かったよ。ごめん、なんでも一個言うこと聞くから許してくれないかな? ごめん、まさか香奈も一目惚れなんて思ってなくて」


 念のため全面降伏。

 ひたすらに頭を下げ続ける僕に香奈は声をかける。


「じゃあ、今度ネズミンリゾート行ってください。 いっつも『人が多いところはあまり得意じゃない』って断ってたあれ、結構悲しかったんですよ?」

「わかった、今度一緒に行こう」

「絶叫系も制覇してくれますよね?」

「もちろん」

「なら、いいです」


 その声に顔を見上げる。

 見上げた香奈は何かを考えるように眉を潜めて、


「今しがた先輩、私"も"一目惚れと言いましたか?」

「言ったかも」

「…………先輩、私と会った日に詠んだ歌ですけど」

「バカ、それは忘れてと何度も!」

「もしかして、私に恋なんかしないぞと、そんな気持ちを、」

「うるさいうるさいうるさい、なにも僕は聞いてない」


 背後は振り向かず僕は早足で前に進む。ニヤニヤと笑いながらあまりに聡い後輩がこちらに駆けてくる。

 それが悪いことだとはかけらも思えなかった。

 この後輩が本当に一目惚れしていて、僕の彼女と共に過ごすためにした行動のいくつかが無駄だったにしろ、そうでなくて好意を引き出した末に彼女が僕に対して好意を持つようになり、最初からそうだったのだと記憶を捏造してしまったにしろ、いつかこの胸のトゲも抜けてくれるのではないか。

 僕が彼女の気持ちをそう言う風に誘導したと気負わなくてもいい日が来るんじゃないかと根拠もなく思った。

 きっとこんな関係が続くなら、いつか。

 遊歩道を駆ける僕らを花梨の香りが包む。萩になりたい僕と鹿である彼女を一緒くたに。

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鹿と女郎花 深恵 遊子 @toubun76

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