最終話 誰のものでもない未来を僕たちは(7)ー1


             7


 右足の感覚を確かめるように、一歩、また一歩と踏み出していく。

 MRIの検査を終え、待合室へ戻ると、が携帯電話を真剣な顔で操作していた。

 僕が華代の下に辿り着くのと、彼女が弾かれたように顔を上げたのが同時だった。

 彼女は小さくガッツポーズをするように拳を握り締め……。

ゆう! やったよ! おりが選ばれたの!」

 総合病院の待合室は、大勢の人間でごった返している。

 華代は感情を抑え切れずに伝えてきたが、不審の眼差しを向けられることはなかった。

「三十分後くらいに診察で呼ばれるってさ。座って待とう」

 ソファーに腰を下ろすと、華代が嬉しそうに携帯電話を差し出してきた。画面に表示されていたのは、日本サッカー協会の公式サイト。アンダー19ナインテイーン日本代表候補のトレーニングキャンプに招集された選手の中に、『きりはらおり』の名前があった。

 U‐19日本代表は、来年開催される二十歳以下の国際大会、アンダー20トウエンテイワールドカップへの出場を目指すチームである。年代別ワールドカップは二年に一度開催されるため、招集される選手の学年にはかたよりが生まれがちだ。今回呼ばれた二十六名は、大半が一学年上か、二学年上の早生まれの選手であり、三月になった今も高校のサッカー部に所属している選手は伊織一人だけだった。

 もちろん同学年の選手は伊織以外にもいる。しかし、彼らは高校生にしてトップクラブへの昇格を果たしているような、文字通りの超エリートたちだ。そんな同世代のベストメンバーだけを選出した代表候補に、ついに伊織が選ばれたのだ。

「凄いよね。私たちの学年からはたった三人しか選ばれていないんだよ。伊織が皆に認められたってことだもの。本当に嬉しい」

GKゴールキーパーはさすがにプロクラブの所属選手か」

 高校サッカー選抜が挑んだ欧州遠征において、さかきばらかえでは正GKを務めていたという。しかし、そんな楓ですら、代表名簿の中には名前がなかった。楓だけじゃない。もちづきづかも、すずそうへいも、選手権得点王のクラウディウスでさえも、メンバーには選ばれていない。

 U‐19日本代表とは、それほどまでにレベルの高い場所なのだ。

 僕らの学年の四月から十二月に生まれた選手は、U‐20ワールドカップへの出場を目標にするという意味では、最も不利な世代だ。伊織が選ばれたことが快挙なわけだが、きっと、この発表を見た楓は悔しがっていることだろう。

「たった二ヵ月で、伊織が急に遠くへ行ってしまったみたい」

 何度も何度も携帯の画面を確認しながら、華代が嬉しそうに呟く。

「不思議だな。優雅だって年代別日本代表だったのにね」

アンダー15フイフテイーンとU‐19じゃ、代表歴の価値が違うよ。招集される人数も違うしね。僕なんてお試しみたいなものさ。だけど、伊織は違う。本気で戦力にするつもりがなかったら、高校のサッカー部から十七歳の選手を呼んだりはしない」

 一年半前、新生レッドスワンが誕生した時に、先生が話した通りになっていた。

 CBセンターバツクとして覚醒すれば、伊織は誰よりも優れた選手になれる。あの頃、先生が断言していたように、今、伊織は次々と新しい扉を開けている。

「華代。本当に嬉しそうだね」

「当たり前じゃない。チームメイトが日本代表に選ばれたんだよ。もしも、このまま代表に定着出来たら、U‐20ワールドカップに出られるってことじゃない。ううん、それだけじゃない。伊織は大学に行くつもりみたいだけど、プロにだって……」

 一年前なら鼻で笑われたかもしれない。けれど、華代の言葉はもう、ただの幻想じゃない。

 高さも強さもスピードもある知性派のCB。そんな選手、数多あまたに決まっている。

 伊織は高校二年生だ。進路を決めるにはまだ十分に時間があるけれど、恐らくこれからは世界が彼を放っておかない。たった一年で、そんな場所まで駆け上がってしまった。

「……伊織のこと、見直したんじゃない?」

「それ、どういう意味?」

 華代の目を見ずに告げると、低い声で問い返された。

「どうって華代が思っている通りの意味だよ」

「断っておくけど、私、まだ優雅のことが好きだから」

 総合病院の待合室は広い。僕らの会話が聞こえるような位置には人がいなかった。

「遠征から帰って来た日の夜に、伊織が言ってたんだ」

 華代に見つめられていることは分かっていたが、真っ直ぐに前を見据えたまま続ける。

「夜になる度に思い知る。一日の終わりには、その人のことばかり考えてしまう。それが好きってことなんだろうなって、そんな風に伊織は言っていた。ずっと、恋愛感情なんて自分には無縁のものだと思っていた。皆のように人を好きになることなんてないと思っていたんだ。だけどさ、伊織のその言葉を聞いた時、初めて理解出来たような気がした」

「……それって、優雅にも一日の終わりに思い出してしまう人が出来たってこと?」

 理性もせいも忘れて、小さく頷く。


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