最終話 誰のものでもない未来を僕たちは(6)
6
一体、僕はいつまで悩み続けるんだろう。
情けなくなるほどの
練習終わりに、部室で二人きりのミーティングを
「先生は来年も赤羽高校に残りますか? レッドスワンの監督を続けてくれるんでしょうか?」
ようやく、僕はその質問を口にする。それから、一秒と間を置かずに返ってきたのは、
「そりゃ、もちろん続けるよ。何で?」
あっけらかんとした口調の回答だった。
「え……。続けてくれるんですか?」
「うん。え、何? どういうこと? もしかして私に何か不満がある?」
「いや、そんなことはないんですけど、インタビューでプロクラブの指揮をしたいって答えていたし、
真剣に話をしているつもりだったのに、何故か先生は笑い出してしまった。
「何ですか、その反応? おかしなことは言ってませんよね?」
笑われている理由は分からないものの、とりあえず不本意だった。
「ごめん、ごめん。ここ最近の
世怜奈先生は僕に座るよう促す。それから、自分も椅子に腰掛けて、机の引き出しから何かの資料を取り出した。
「優雅は私がクラブチームに引き抜かれるんじゃないかって、心配してくれていたんだね」
「はい。選手権での結果を見れば、そういうことがあっても不思議じゃないと思いますから」
「ありがと。来年も一緒に戦いたいって思ってもらえるのは嬉しいよ。ただ、監督の世界は、たった一年結果を出したくらいで、声がかかるほど甘い世界じゃないんじゃないかな。ま、私は自分で言うのも何だけど綺麗だからね。注目を集める目的で声がかかるなんてことは有り得るのかな。私自身、利用出来るものは何でも利用するタイプだから、それで
「知っています」
「でも、間違いなく来年はレッドスワンにいるよ。そもそも私がプロクラブの監督に就任することは不可能だからね。少なくとも、まだ数年は」
世怜奈先生は資料を開いて僕に渡してくる。
「例えば野球の世界なら、昨日まで現役だった選手が明日にでも監督になれる。でも、サッカーの場合は協会公認の指導者免許制度があるから、すぐにはプロチームを率いることが出来ないの。日本の場合、S級を頂点にライセンスが六段階の階層型になっていて、全員がC級以下のライセンスから取得していかなきゃいけないんだよね。で、最上位の『S級ライセンス』を取得した人間だけが、Jリーグや日本代表の監督に就任出来るってわけ」
S級ライセンスという言葉は聞いたことがある。
指導者の世界のことなんて全然知らなかったけれど、確かに現役を引退して即監督になる人間なんて、少なくとも日本では見たことがない。
「私は大学時代にD級とC級を取って、卒業後にB級ライセンスを取得したわ。B級は満二十二歳以上にならないと、講習会の受講資格を得られないの。ちなみに今、私が持っているB級が、ユース世代、つまり君たちの監督をするために必要な資格だよ」
「じゃあ、先生はA級以上の資格を、まだ持っていないってことですか?」
「そういうこと。ライセンス制度はピラミッド方式になっているから、上の資格になればなるほど取得条件が厳しくなるの。私が次に取ろうと思っているのは『公認A級コーチジェネラル』なんだけど、それを取得出来て初めて、JFLや、なでしこリーグの監督、それに、Jリーグトップクラブのコーチが出来るようになる」
「……どうして、先生はそれを今まで取っていなかったんですか? 時間がなかったとか?」
「ううん。条件の問題。B級までの取得はそこまで大変じゃないんだけど、A級から一気に難易度が高くなるの。A級を受講するには、B級コーチのライセンスを有した状態で、一年以上の指導実績がないといけない。つまり、私はようやくスタートラインに立てたってわけ」
ライセンスの取得に指導実績が求められるなんて、今日までまったく知らなかった。
「ただ、本当の問題はこの後なんだよね。最終目標であるS級ライセンスを取るには、指導実績か競技実績をJFAの技術委員会に認めてもらわなきゃいけないの。競技実績がない私は、当然、指導実績の方で認めてもらわなきゃならない」
「それは、どの程度のレベルを求められるんでしょうか?」
「二〇〇八年までは競技実績がある選手は、B級から飛び級でS級を受講出来たんだけど、その時の条件は、日本代表として国際Aマッチに二十試合以上出場しているか、プロリーグの公式戦で二百試合以上出場していることだった。要するに、トップレベルのプロでなければ門前払いだったってことね。それだけの高い条件が求められる資格なわけだから、半端な指導実績じゃ、お話にならないのかもしれない。事実、S級ライセンスを持っている女性は現在でも、たった四人だけしかいない。しかも、四人全員が日本代表歴を持つ元プロサッカー選手よ」
「本当に狭き門なんですね。それじゃあ、先生の夢は……」
「難しいのは分かってる。でも、叶うとか、叶わないとか、そういう次元の問題じゃないの。私は監督として生きていく覚悟を決めたから。プロ経験がなくてもS級ライセンスは取得出来る。実際、日本にもそういう経歴でJリーグの監督を務めた人がいるわ。女であることは不利かもしれない。だけど、女だからこそ持てる武器もある。素人監督だった私が、世間の注目を浴びたのもそういうことだしね。要は指導力を世間に認めさせられるかどうかよ」
世怜奈先生は本心が何処にあるのか、よく分からない人だ。心にもない大言壮語を真顔で吐く人だから、何処から何処までが本気なのかもよく分からない。それでも、目を輝かせながら自らの夢について語る彼女の言葉は、真実なのだろうと思う。
「ねえ、優雅。私が監督になったばかりの頃に言った言葉を覚えてる?」
『高槻優雅、君はいつか、きっと誰よりも偉大な
「あの時の言葉は本音だよ。あれだけフィールドで輝けていた選手だもの。優雅には素晴らしい指導者になれる素質がある。本気でそう思っている。でもね……」
一瞬、迷うような表情を見せた後で、世怜奈先生は言葉を続けた。
「さっき、優雅は別の悩みを抱えていると思ったって言ったでしょ。私、きっと今、優雅は心を痛めているんだと思っていた。全国大会で活躍したことで、
手にすることが出来なかった可能性。
辿り着くことが出来なかった夢の舞台。
それは、あまりにも
「優雅。頑張ったね。偉かったね」
そう告げて、世怜奈先生は僕の右膝に優しく手の平を当てた。
ただ、それだけのことで、泣きそうになってしまう。
「私は知ってるよ。君がどんな気持ちで仲間たちを見守ってきたのか。どんな悔しさを嚙み殺してきたのか。
屈託のない笑みを先生は浮かべる。
「先週、優雅の主治医と連絡を取ったわ。リハビリを終えて左膝は完治した。右膝の状態も
「じゃあ、僕は……」
「優雅にはこのままアシスタントコーチを続けてもらいたい。だけど、君の本当の願いは、フィールドに戻ることでしょ? 皆と一緒に戦うことでしょ? 最後の一年、そういう夢も優雅には見せてあげたいの。もちろん、私が監督を務める以上、絶対に無理はさせないわ。人生は高校生活よりもずっと長い。後遺症が残るような賭けはさせられない。それが前提条件になるから、フィールドに復帰させてあげられるかは保証出来ないけど、希望は
フィールドに戻って、大好きなサッカーが出来る。
そんな当たり前の幸せを、もう一度、夢見ても良いのだろうか。
伊織と、
「診療の予約を取ったわ。
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