第五話 貴顕紳士の黄昏(3)-2


 自室に戻っても、先生から聞かされた話が頭の中を回り続けていた。

 十七年間、ずっとうすぼんやりとした概念でしかなかった父親という存在が、急に輪郭をまとったような気がする。何より、僕を指導したくて赤羽高校へ赴任したという先生の言葉が、頭から離れなかった。

 世怜奈先生は今、僕が誰よりも尊敬している人だ。

 彼女がいなければ、大好きだったサッカーに、とっくの昔に見切りをつけていただろう。

 世界中の誰よりも感謝している彼女が、僕のことを出会う前から見ていてくれた。

 それは、とても幸福なことであるような気がする。


 眠る前に、真扶由さんには報告しておくべきだろうか。

 それが真実であるのなら、僕はどんなことでも知っておきたいと思う。すべては真扶由さんの推理から始まったのだから、彼女には感謝を伝えておきたい。

 しかし、そこで携帯電話を世怜奈先生の部屋に忘れてきたことに気付いた。

 もうすぐ日付も変わってしまうが、先生はまだ起きているはずである。

 早急に取りに行くことにした。


 監督の個室をノックすると、反応から扉が開くまでに妙な間があった。

 もしかしたらタイミング悪く、シャワーを浴びた直後だったりしたのだろうか。

 そんなことも考えたのだけれど、開いた扉の先には、一時間前と変わらず、チームジャージを身にまとった先生がいた。髪がれているということもない。けれど……。

「優雅、どうしたの? 何かまだ相談があった?」

「遅くにすみません。携帯電話を忘れてしまったみたいで」

「そっか。私も気付かなかった。入って」

 思った通り、携帯電話は椅子のひじかけの上に置かれていた。それを手に取ってから、

「先生」

「ん? 何?」

「もしかして泣いていましたか?」

 にわかには信じられなかったが、世怜奈先生の目が赤くれていた。

 戸惑うような眼差しを見せた後で、先生はじりに人差し指の背を当てる。

「涙は拭いたつもりだったんだけどな。まつが濡れていた?」

「目が赤く腫れています」

「ちゃんと鏡を見てから出るべきだったか。不覚だ」

「……先生でも泣いたりすることってあるんですね。正直、驚きました」

 思ったことを素直に告げると、彼女は困ったように笑って見せた。

「幼少期を除けば初めてかな。人に泣いた後の顔を見られるのは」

「ご家族に何かトラブルがあったとか?」

 先生は首を横に振る。

「私、冷たい人間だからさ。多分、親や弟が死んでも泣けない気がする」

「……じゃあ、何があったんですか?」

 傍にあったリモコンを手に取り、彼女はテレビをつける。

 再生されていたのはレッドスワンの試合動画だった。しかし、画面に映っているのは、既に赤羽高校を卒業した先輩たちばかりである。少なくとも今年の映像じゃない。これは一年生の五月に経験したインターハイ予選だ。

 テレビ画面の中、敵が密集するバイタルエリアでパスを受けたのは、ほかならぬ僕だった。ワンタッチでボールを小さく浮かせて後ろに逸らすと、背負っていた敵を反転でかわす。その一瞬のプレーで生まれたスペースに飛び込み、そのまま僕は迷わず左足を振り抜いていた。

 ゴールマウスの左隅に強烈なミドルシュートが突き刺さる。

 敵のGKがぼうぜんと立ちすくみ、僕は歓喜する先輩たちに、もみくちゃにされていった。

 世怜奈先生が常勤講師として赤羽高校に赴任したのは、インターハイ予選が終わった後の六月である。どうして、こんな昔の試合映像を見ていたのだろう。

「私もこんなプレーが出来る選手になりたかった。優雅みたいな才能が欲しかったな」

 彼女のそうぼうからしずくが伝っていた。

「優雅、ごめんね。私はもっと早く、君にきちんと謝らなきゃいけなかったんだと思う」

 先生が何を言っているのか、まったく分からなかった。

「心の底から後悔している。過去の自分の判断を、どうしようもなく悔しく思っている。一年半前、私は赴任してすぐに、あしざわ先生の指導が生徒に過負荷をかけ過ぎていると気付いた。優雅のように線が細くて、身体もろくに出来ていない高校一年生に、あんな長時間の練習を続けさせたら壊れてしまうって思っていた。だけど、止められなかったのよ。それがただの練習でしかなくても、優雅のプレーを見ていたかったから」

 先生は人差し指で瞳に浮かんだ雫をぬぐう。

「私は馬鹿だった。本当に愚かな教師だった。絶対に止めなきゃいけなかったの。私だけが優雅を守れたはずなのに、もう少しだけ君のプレーを見ていたくて、そんな利己的な欲望に勝てなくて、優雅のことを壊してしまった」

 世怜奈先生は深く頭を下げる。

「本当にごめんなさい。私は弱い人間だから、今日まで君に謝ることが出来なかった」


 彼女は心の底から僕に謝罪している。そんなことは確認するまでもなく分かる。

 ……だけど、本当に先生に責任があるんだろうか。

 僕にはどうしても、そうは思えなかった。

 人生はテレビゲームじゃない。人間の肉体にはパラメーターなんて設定されていない。何処に限界があるのかなんて、いつ壊れてしまうのかなんて、誰にも分かるはずがないのだ。

 僕のひざが壊れてしまった時、彼女はただの副顧問でしかなかった。赴任三ヵ月目の、それも若輩の女性教師である。三十二年間、レッドスワンを率いてきた年長の鬼監督に意見なんて出来るはずがない。

「僕は先生のせいだなんて思わないです。到底、そんな風には思えない。だから、頭を下げたりしないで下さい。先生には感謝の気持ちしかありません」

「私が指導者として、芦沢先生にNOと言えていたら、今頃、優雅は皆と一緒に戦えていたかもしれないんだよ。それなのに……」

「そんなことはありません。僕は誰かに怪我をさせられたわけじゃない。誰にも予期出来なかったことなんです。だから、先生が自分を責めるのはやめて下さい。そんなことしなくて良いから、もっと僕らにサッカーのことを教えて欲しいです」

 彼女の顔に困ったような微笑が戻る。

「……優しいね。優雅は」

「気をつかっているわけじゃないですよ。先生に対して遠慮なんてしません。今のが本音です」

「分かった。じゃあ、この話は終わり。切り替えて明日のことを考えようか。準備は万全だっていっても、冷静に考えたら、昔のVTRを見て落ち込んでいる場合じゃないものね」

「はい。その通りだと思います。明日はレッドスワンにとって最大の挑戦ですから」

「うん。歴史を変えよう。新潟県勢初の決勝進出は、私たちで果たさなきゃ」


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